2(前編)
緋色が話していた事務所というのは、人気の少ない通りのビル三階のワンフロアだった。
寂れているわりにセキュリティはそれなりのようで、緋色が社員証らしきカードをかざすと、事務所の扉のロックが解除された。ずかずかと乗り込む緋色に、おずおずと蝶子はその後ろをついていく。
事務所の中は、スタートアップ企業のような出で立ちで、フリーアドレスだろう机と椅子の配置、ありふれたウォーターサーバーなど、清潔感のある一般的なオフィスだった。ただ異様だったのは、人があまりにもいないということだろうか。
「やあ、こんにちは。いらっしゃい」
視界の良いオフィス故、それが一番奥の椅子に座っていた人物の発言だということに気がつくまで時間はかからなかった。
ミルクティー色のウェーブがかった長い髪をハーフツインテール。瞳は黒く潤んでおり、睫も長い。セーラー調のAラインワンピース(おそらくPure Worldのものと見られる)が似合う、どう見ても十歳前後にしか見えない少女だ。口調はどうにもそれらしくないようだが。
「はじめまして、私は神子島壱子。株式会社studio Stellaの代表取締役だ」
「はじめまして、白鳥蝶子と申します……」
情報量の多い展開に蝶子は戸惑いながらも、形式的な自己紹介を済ませる。先ほどまで蝶子の隣にいたはずの緋色は早々に近くのデスクに移動し座っていた。
「緋色から電話で聞いた話によれば、君は今日、立て続けに異常現象を目の当たりにしていることになる。異議は?」
「ええ、まったく……そのとおりです」
壱子は満足そうに頷いた。視線は蝶子から緋色へと移る。
「緋色。君が気の利かない人間であることは認めているが、お客様に紅茶を出してもらえる?」
「はーい」
緋色は気だるげに返事をし、ウォーターサーバーへと向かう。ウォーターサーバーの近くには紙コップとコーヒーに紅茶にほうじ茶、砂糖やミルクなどが置かれている。緋色はお茶の用意を始めた。
「紅茶でよかったかな」
「お構い無く、何でも」
「緋色は自分で先回りして何かサーブしてくれるような器用さはないのだけれど、きちんと言語化して伝えさえすればやってくれるんだ。ああ、ごめん。適当に座って」
蝶子は何となくこの異様な雰囲気に慣れ始めており、そろそろ躊躇することを忘れそうだった。
「どうぞ」
座ったところで、テーブルに湯気のたつ紙コップが置かれた。続いて、緋色は壱子にも紙コップを手渡す。壱子のコップからはコーヒーの香りがした。最後に緋色の手元に残った紙コップにはただのミネラルウォーターが収まっている。どうやらそれは彼女自身のものらしい。
緋色はそのまま蝶子から少し離れた席に着いた。
「それじゃあ、そろそろ本題に入ろう」
壱子はコーヒーを一口飲み込んで、ゆっくりと語り始めた。
いつの間にか建っていた真っ白な電波塔。二年前のある日のある時間、世界の液晶画面は一斉に真っ白に切り替わり、人類白紙化計画を宣言された。液晶画面には白以外何も映らなかったが、無機質な音声が「世界を始めよう、人類白紙化計画」と伝えていた。
人類は、唐突にそんな宣告をされた。ふざけているようで、恐ろしい計画である。
この世界を全て真っ白に塗り直す――海も大地も建物も身につけるものも人間も思考さえも。謎の組織が有する技術とエネルギーを使えば、それは可能なのだそうだ。
演説とも言えないほど、大した説明もなく、音声は途切れた。その液晶画面ジャックが終わって数日もすると、世界は本当にゆっくりと真っ白に脅かされた。
「私たち」は日々何かを忘れていき、思考を停止した。何を考えるわけでもなく、あらゆるものを白く塗り潰していった。
徐々に迫り来る白に対抗するための技術が求められた。ミドル世代の有識者たちは慌てるばかりで、そのうち、いつの間にか彼らも白く染まっていった。
神子島壱子は、大学院の研究室にいた。壱子は、白く染まっていく世界で、白紙化されていない人間の一人だった。そして、壱子の個人的な試みが偶発的に生み出した技術は、人類白紙化計画を食い止める唯一の手段となった。その技術は、後に「魔法」と称されることになる。
ハラジュクに黒い電波塔を建てて、白の配信と同様に液晶画面ジャックを行ったことで、世界は緩やかに中和されていった。白い電波塔も黒い電波塔も砕け散り、白い電波と黒い電波がぶつかり合うと、今度は人類の記憶は急速に失われた。
――人類白紙化計画など存在しなかった。
それがこの世界の事実である。
しかしながら、壱子は人類白紙化計画を覚えていた。他に記憶のある人間がいるかどうかは分からない。
何事もなく、いつも通りの時間を歩み始めた人類。あの白の組織がどうなったのかは誰も知らない。つまるところ、人類白紙化計画が再度実行される可能性は誰にも否定できないのだ。
壱子は一人、この計画の再来に備えていた。とはいえ、黒い電波塔の建設と電波に膨大なエネルギーを消費してしまい、大規模な対策は取れなかった。それ故に、自身の生み出した技術を加工し、いくつかの発明品を完成させた。それが、ウェアラブル端末である。この端末を用いることで、白の組織に対抗するための力を得ることができる。言ってしまえば、ヒーローの変身ベルトのようなものだ。
端末を使用するためには適性が必要だった。適性といっても、難しいものではない。白い電波と黒い電波の影響を受けにくい体質であればよいだけだ。両電波による身体への影響の大きさは先天的なものなのか、後天的なものなのかは解明できていない。
最初に端末を利用した人間は高校生の少女だった。その少女によって、初めて「魔法」と「魔法少女」の名称が与えられた。
暫くして、人類は再び脅かされることとなる。白い角の生えた人間、壱子によって捻りなくオーガと称されたそれが出現し始めた。ちょうど一年ほど前のことである。白の組織も、おそらく電波塔と電波で膨大なエネルギーを消費してしまったのだろう。オーガも魔法少女と差はなかった。ただし、オーガは自身の意志で力を得るのではなく、白の組織に洗脳されることで角が生え、魔法少女と敵対する傭兵となるのだった。そしてまた、魔法少女の力によってオーガを人間へと戻すことができるのである。
オーガの数が増えると、当然魔法少女も一人では足りない。十分な魔法少女を確保するために、壱子は拠点を立ち上げた。表向きは撮影スタジオ「studio Stella」を生業としているが、それはカモフラージュにすぎない。本来の目的は魔法少女の採用と育成、実戦である。とはいえ、魔法少女の適性を持つ人間が現れるのを待つことは予想以上に時間がかかった。
そんなとき、偶然現れたのが緋色だった。緋色は魔法少女としての適性も充分で、特に問題なく魔法少女をしている。それから一年、悲しいことに緋色以外の魔法少女は見つからなかった。
「……という感じだろうか」
「ええと。ちょっと、よろしいでしょうか」
蝶子は捲し立てたい衝動を抑えて、極めて冷静を装う。
「あなたの話は……にわかに信じがたいです。そして、いくつも重要なことが欠落しているように思われます」
「……なるほど」
「質問をしても?」
「構わない。答えられるものは回答するよ」
「ありがとうございます。では……」
蝶子は遠慮なく質問を並べる。言葉遣いが丁寧であっても、質問の仕方は少々キツく感じられる。壱子はそんな蝶子にも淡々としていたが、緋色は「うへえ~」と項垂れながら手元の水を啜っていた。自分に矛先が向けられないことを祈って。
「まず、これは確認です。私は全く記憶にないのですが……二年前、人類白紙化計画というものは、本当に存在したのですね?」
「間違いないよ。非常に馬鹿げているけれども、そんな馬鹿みたいなことが本当に起こったんだ。私が君の立場ならば、君ほど冷静に納得はできなかったろうね」
「わかりました。私もとても信じられませんが、それでは話は進みませんから。……人類白紙化計画が二年前に行われたことを事実と認めることを前提として。『白い電波』とは一体何を表すのでしょうか。併せて、あなたが開発されたという『黒い電波』の正体も」
「なるほどねえ……」
壱子は何かを考えているようで、少し間をおいた。
「『白い電波』はね、人間の思考を奪うんだ。何を見てもどんな感想も持たないし、何かをしたいという欲望も持たない。個性や主張なんてものは存在しなくて、何に対しても疑問を抱かない。やがて、真っ白に染め上げられた思考は社会を物理的に白く塗り潰し始めるんだ、それが至極当たり前のようにね」
壱子は手元のコーヒーを口に含んだ。液体を飲み込むと、紙コップの中の暗闇に映る自身の姿に目を目を落とす。
「『黒い電波』はそれらの逆をいく力だよ。事象に対して思考を持つということ。二年前の電波塔は『白の組織に抗う人々の意志』をエネルギーに電波を流したんだ。魔法少女も同じ。抗おう、戦おうという意志をウェアラブル端末が吸い上げて魔法に変換してくれる」
これで納得したかい? とでも言いたげに壱子は紙コップから顔を上げた。蝶子は消化できない部分もありつつ、取り敢えずは納得した。ということにしておくほうがよいと判断した。
「わかりました。では、次。あなたがカモフラージュでこのスタジオを経営されているとのことですが……。失礼を承知で伺います。資金源はどうなっているのですか?」
「ふふっ君はそんなことが気になるんだね」
壱子は愉快そうに笑っていた。けれど、蝶子は眉毛一つ動かさずに「ええ」と相槌を打つ。
「魔法少女の確保が目的とあれば、魔法少女と雇用契約を交わしているのでしょう? 社員を増やすために活動しているのに、その人事費はどこから捻出されているのかは当然気になります」
「君は案外、気を遣えるんだね」
言ってしまえばいいのに、と壱子は内心で思った。おおよそ、違和しかないのだ。このような都心の一等地に撮影スタジオを構えて、客で賑わっているわけでもないオフィスに。そのくせ、設備だけは一定基準を満たしている。不思議でしかないだろう。
「スタジオは正直、ほとんど赤字なんだ。維持費ばかりが高くついてね。そしておそらく、君の想像通りだ。魔法少女事業については、有力者から潤沢な資金を貰っているよ。何せ、これは人類の危機なのだから」
「……なるほど。では、事業支援を行えるほど財源のある有力者の中に、二年前の出来事を記憶していた方がいらっしゃるのですね」
「君は頭がいいね、その通りだ。その有力者については、また機会があればで頼むよ」
「……わかりました」
若干不服そうな蝶子に、壱子がそれ以上口を開くことはなかった。状況が異様なうえに、自身の立ち位置もよく分かっていないため、蝶子も深追いはしなかった。
「そろそろ、質問も終わらせようと思います。お聞きしたいのは、最初の魔法少女の行方。それから」
蝶子は改めて壱子をまっすぐと見つめる。
「大学院に所属していたというあなたの、その容姿についてです」
なるほど、と壱子はぼやいた。確かにそうだね、とも。
壱子は再び紙コップに目を落とすも、コーヒーは少なくなっており、紙コップの白い底が壱子を覗いていた。