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「ねえ、ハラジュク駅って新しくなったんでしょ?」
「そうらしいね。ハラジュクなんて、学生の時以来行くことなくなったなあ」
そんな会話がどこからか聞こえてくる。「ハラジュク」というワードに引っ掛かった白鳥蝶子はキーボードを叩く手を止めた。ブロンドの髪をかきあげて、自席の椅子にもたれかかり腕を組む。
――ハラジュク……。
久しくその場所に行っていないという事実に蝶子は気がついた。思い立ったが吉日、彼女は次の休みにハラジュクへ赴くことに決めた。
「おい、ニート。いつまで実家に入り浸るつもりだ。働け」
一ミリたりとも配慮のない言葉を受けたのは、くたびれたジャージ姿の山田緋色だった。呆れた口調で――でも、決して怒ってはいない――咎める声の主は、その姉だった。
「あのねえ」
ジャージの彼女はボサボサの髪をウザそうにかきあげて、のそのそと起き上がる。
「私は働いているの。給与だって貰ってる。実家にお金も入れてる。大体、お姉ちゃんも実家暮らしじゃん」
「ふーん。それで? あんたの仕事は何だっけ?」
「魔法少女よ」
唇を尖らせてそう言った緋色に、その姉は心無く笑った。
「魔法少女! あんた、まだそんなこと言ってるの? 変な妄想もいい加減にして、まともな職に就きなさい。このニート!」
「仕事に対してお金を貰っている以上はニートじゃないでしょ。ニートの意味はわかる? ノット・イン・エンプロイメント・エデュケーション・トレーニングよ。大体、私は正規雇用なんだってば」
緋色の主張に、姉はため息を吐くだけだった。
「話にならないわ。いい? 今度こそ、ちゃんと就職するのよ?」
そう言うなり、姉は安っぽい印刷の求人冊子を投げ捨てて、緋色の部屋を出ていった。バタン! と大袈裟にドアを閉めて。一方、こんなやり取りにすら緋色は慣れているようで、表情一つ変えず、投げ捨てられた求人冊子を見つめていた。
途端、緋色の腕時計が振動する。どうやらウェアラブル端末のその時計に、メッセージが届いたらしい。こちらにも特に注力するわけでなく、くたびれたトートバッグを肩に引っ掛けて、彼女はさっさと家を出た。姉と鉢合わせすることはなかった。
休日のハラジュクは、外国人観光客で賑わっていた。店にはアプリ「photosta」のためのスポットやら、チェーン店やらが立ち並び、時おり女子大学生らしき女性たちが小さく行列を作っていた。
そこに、ジャージの彼女がいたところで、気にする人など誰もいない。もう、竹下通り口改札から出る必要はなかったし、あの人混みを通らずとも目的地には辿り着ける。緋色は知っていた。あのキラキラした時間は永遠ではなくて、彼女が求めるものはもうそこにはないのだと。
「キャー! 助けてー!」
「ば、化け物だ……!」
悲鳴があがった。逃げてくる人々の流れに逆らって、ジャージ姿の彼女は歩いている。そんな異常ともとれる行動に対しても、緊急時の人々は気にする素振りもなく。ただひたすらに、自身と少しばかりの身の回りの心配に忙しい。
それでいい、と緋色は思う。どうせ、この危機があったことなど、人々は忘れてしまうのだから。化け物なんて、この世の中には存在しないのだ。
緋色はジャージの下から、首に提げていたファンシーなペンダント状のピンク色の端末――おおよそ、ジャージには似つかわしくない――を取り出す。
「オーケー、Roocle。魔法少女に変身よ」
「申し訳ございません、聞き取れませんでした」
機械的な音声に、緋色は小さく舌打ちをした。ただでさえ、声を張れない性分であることに加えて、あまりに非現実で馬鹿馬鹿しい文句に羞恥心だって湧く。
「魔・法・少・女! 変・身!」
わざとらしく発音すれば、ようやく端末は理解したようだ。
「魔法少女への変身ですね。準備が整いました」
途端、緋色の体は光に包まれる。手櫛で雑に結われた黒髪はくるんとはねるベリー色と明るいピンクメッシュのミックスツインテールに、薄化粧だった顔は付け睫とともにばっちりと化粧が施され、冴えないジャージはフリルやレースがあしらわれた桃色のロリータ服に、足元は同じく桃色のぽってりとしたおでこ靴に。ロリータ服であるジャンパースカートの胸元には先ほど舌打ちをしたばかりのやたらにファンシーな端末がブローチとなって存在していた。
変身後にありがちな決め台詞を発するわけでなく、彼女は事件現場へと歩みを進めていく。
「すみません」
「は?」
心底意味がわからない、といった表情をする女。その女は人間の形をしながら、人間にはあるはずのない角が額から覗いている。そういった、人間だった「それ」は、オーガと呼ばれていた。何の捻りもない、要するに「鬼」である。そして、そのオーガの存在こそ人々をパニックに陥らせた原因なのである。群衆はそれを「化け物」と呼んでいた。
「何なのよ、アンタ」
「見てのとおりよ。魔法少女として休日勤務中」
「魔法少女……? 最近、アタシたちの活動の邪魔をしてくる奴じゃない」
「そのとおり。早いところ、退治す……あ、休日手当てがあるから時間かけたほうがよいのかも」
オーガの女は呆れたように緋色を見て、ため息を吐いた。そして、一言。
「せいぜい保険の準備はいいかしら」
彼女の爪は鋭く伸びて、迷わず緋色を狙いにいった。緋色は気だるく、のらりと攻撃を交わして、だが、瞬発的にボディーブローを繰り出した。オーガの女は訳も分からず数メートルの距離を飛ばされた。軽く咳き込む姿が目撃される。
「ちょっと! あんた魔法少女でしょ! どうして素手で殴るのよ。これじゃあ、ただの物理攻撃じゃない」
「敵の戦い方に文句言わないでよ!」
今にも取っ組み合いの喧嘩でも始まりそうな言い合いである。
実のところ、魔法少女とはいえ、自由に魔法が使えるというわけではなかった。元来、魔法というものに対価は付き物で、何かを消費することでエネルギーは生まれるのである。
魔法少女が魔法を使うのに必要となるのは「闘志」、つまるとこ ろ闘おうとする意志だった。
本来、魔法少女には闘志が備わっているはずだが、緋色にはそれがない。敵を倒したいとか、世界を救いたいとか、そういった意識が著しく欠如しているのである。それは個人の性格の問題なので、どうにもならないのが厄介なところだ。とはいえ、魔法が全く使えないということはなく、敵と戦うなかで闘志を生み出すことは可能だ。
緋色はP-qot.を思わせる大ぶりの指輪(殴られるともちろん痛い)をはめて、容赦なくオーガを殴る。そして、ある程度闘志が溜まったところで、魔法を使う。それが緋色の基本的な戦闘スタイルだ。
膝を突き、立ち上がろうとしているオーガ目掛けて、緋色は追い討ちをかける。大袈裟な指輪は桃色の光を帯びて一層主張された。爆発音と共に、同じく桃色の煙が舞う。これが、緋色の魔法だった。
オーガだった女の角は消失し、そこにはありふれた人間が倒れていた。
緋色は倒れた人間をそのままに立ち去る。少し離れた場所で胸元のブローチに手を触れた。
「オーケー、Roocle。変身を解除して」
「変身を解除します」
緋色の変身は呆気なく解けて、乱れた髪とくたびれたジャージ姿に早変わりだ。後ろのほうで、誰かが倒れた女性に声をかけていた。さっさとその場を離れようと、緋色は足早に歩き出す。
「すみません、少しよろしいでしょうか」
地面ばかり見ていた緋色の視界に、尖ったヒールが突然目に入る。高そうな革靴で手入れも行き届いている。
顔を上げれば、ブロンドヘアの、厭にカッチリとした印象を受ける女性が立っていた。
「……」
自身が何を言われるのか分からず構えているのか、元来の性格なのかは不明だが、緋色はただ黙って彼女を見つめていた。
「あの……見ていたのですけれど、先ほどの、その。『あれ』は何だったのですか?」
「……」
「待ってください!」
無言で去ろうとする緋色を彼女は腕を掴んで強く引き留める。
「私は確かに角の生えた女性がいて、あなたがロリィタ服のようなお洋服で戦っているところを見ました……!」
「ええと……ちょっと待って」
必死になる彼女を抑えて、緋色はスマートフォンを取り出し、どこかへ電話をかける。
「もしもし、緋色だけど」
「ああ、お疲れ様」
電話をかけた先の声の主は、随分と幼い女のようである。
「実はトラブルがあって。さっきオーガとの一件が終わって変身も解除したんだけど、何故かオーガの記憶がある人がいて。今、まさしく話しかけられてる」
「それは……」
「というわけだから、その人と一緒に事務所に帰ってもいい?」
「そうだね、事務所で待っているよ」
通話を切り、スマートフォンを仕舞う。通話中、手持ち無沙汰だった革靴の女は、その様子をじっと見ていることしかできなかった。
「あの……ええと」
「ああ、ごめんなさい。白鳥蝶子と申します。先ほどは、取り乱して失礼しました」
「いえ。ええと、私は山田緋色。さっきのことを説明したいから会社に戻りたいんだけど、このあと時間はある?」
「会社……?」
蝶子は怪訝な顔をする。無理もない、見ず知らずの人間を信用して易々とついていくほど、蝶子は幼くなかった。とはいえ、その見ず知らずの人間に先に声をかけたのは蝶子自身なのだが。
「大丈夫、この辺りでよくある詐欺とかではないから。一応、法人登記もあるし……でも、怪しいことは否定できないから、無理にとはいえないんだけど」
「……わかりました。構いません、行きましょう」
緋色は厳格そうな性格にも関わらずどう考えても怪しい話に付いてくる蝶子のことをまるで理解できなかったが、緋色も緋色で深く考えない雑な性格のため、それ以上の思考は停止して蝶子を連れて事務所へと向かい始めた。