7.呪われた乾杯
その日は、クラウド家および一家が代々経営するブラッドベリー農場にとって、特別な日であった。
クラウド家初代当主でもあるヴェロニカが初めてブラッドベリーの人工栽培に成功した日であり、毎年盛大な祝賀会が開かれるのだ。
ヴェロニカが生きていた頃と比べ、ここしばらくは比較的穏やかな時代が続いている
勿論、グレート・アナコンダによる破壊活動やそれによる損失も損害こそあったが、実際に農場が焼かれてしまうようなことはない。とくにヴィンセント=クラウドがその事業を引き継いで以降は、目立った失敗もなく実に順調に業績は伸び続けていた。
平和が続くということは、経済的にもよいことだ。人口は増え、ドラゴンメイドの人々はますますブラッドベリーを求める。さらに人口の増加に伴って畜産や農耕も盛んとなり、駆除された野生のケモノの死骸や屠畜の際にどうしても余ってしまう廃棄物の数も増えていく。ブラッドベリー農場はそれらを買い取り、ブラッドベリーの発生源として再利用し、多くの肉食および雑食系の人々の健康を支えていくことができた。
ブラッドベリーは普通の肉よりも高価ではあるが、求める者はやっぱり多い。
とくに肉食系の民族にとって、このベリーの存在は大きかった。持ち運びも容易であり、その上、傷むことがほとんどないということは、食の供給や安全がそれだけ保たれるということだからだ。
だから、かつては草食系の他部族を襲撃して食用にしていたという血塗られた歴史を持つ部族の子孫たちも、今はドラゴンメイド人として平等に暮らすことが出来ている。
それは間違いなく、ブラッドベリー農場のおかげだった。
いつの時代からか、ドラゴンメイドの人々はブラッドベリー農場で人工栽培されるブラッドベリーの存在を前提として暮らすようになっていき、いつでも手に入る非常食として当たり前に消費するようになっている。
その当たり前の上に成り立つ当たり前の平等のおかげで、多くの部族が良好な関係を築けている。
ヴィンセントにとってそれは誇らしい功績であり、肖像画でしか見たことのない自身の先祖に対して手向ける献花のようなものでもあった。
ヴェロニカ=クラウドの悲恋はとても有名な話で、クラウド家においても幼い頃からその話は聞かされていた。
結局、彼女はカエルの王子ではなく同じ東の大陸から入植した心優しく聡明なヒト族の男性と結ばれたわけで、ヴィンセントにもその彼の血が流れている。
しかし、カエルの王子がもたらした財産については今もずっと守られてきているのだ。それゆえにクラウド家は代々カエルの王子のことも尊敬してきた。
ただしそれはカエルの王子が偉大な先祖の想い人であったからにすぎない。
そう、彼だけが特別だったのだ。
ヴィンセントは幼い頃から自分の中にあるその感情に気づいていた。
いかに、初代当主の想い人であったからといって、全ての両生類人を信用することはやはり出来ないのだと。
それは、ゴーストライクに暮らしている人々の態度のせいでもあったかもしれない。幼いヴィンセントの周囲を取り囲む大人たちは、昔あった物語として語るときのカエルの王子の印象を、そのまま今を生きるカエル族たちに当てはめるようなことはしなかった。
明らかに両生類人は蔑まれていたし、グレート・アナコンダの一員なのではないかといつだって疑われていた。そんな思想に幼い頃からそれとなく触れていたせいだろうか。ヴィンセントもまた心の何処かで、王子ではない同じ時代を生きるカエルたちを白い目で見ている瞬間があったのだ。
無論、そんなものは差別感情に過ぎないと彼は自覚していた。
そのため、クラウド家の事業において両生類人との取引も公平にしていたし、農場で働かせることだってあった。あったにはあったが、だからといって全く差別に基づかない判断をし続けられたかどうかと問われれば、ヴィンセントにも自信がなかったという。
そんな心の闇を抱えたまま、ヴィンセントはブラッドベリー農場を率いていった。先代であった父より任せられて十五年。ゴーストライクで一番の宴会場にて何事もなく続いたことを祝う杯を関係者たちと交わしたのだ。
ますますの発展を祈って。
祝賀会はにこやかに終わった。
だが、関係の深い来賓もそれぞれ帰っていき、自分たちも帰ろうという時になって、最後にもう一杯とヴィンセントのグラスに見慣れぬ酒を注いだ者がいたという。
「それは、誰だったんですか?」
それまで黙って聞いていた私の問いに、カエルのヴィンスはもじもじする。
「それが……きちんと覚えていないのです」
気まずそうにそう言った。
祝賀会は毎回、大勢の人が招かれる。
ブラッドベリー農場で働く人数自体がまず多いし、取引先も多岐に渡る。ゴーストライク以外のところからも招かれるため、大規模な宴会場であっても客でぎゅうぎゅうになってしまうほど盛大なのだという。
その全てをヴィンセントが把握しているかというと実はそうでもなくて、関わりが薄いと顔と名前が一致しないこともしばしばあったらしい。
その男もまた、そんな一人だった。顔はなんとなく覚えている気がしたし、やけに親しげなのに、どうしても名前が出てこない。しかし、それなりに親しい事は確かで、ヴィンセントもさほど警戒せずに注がれた酒を手に取った。
すでにアルコールに酔っていたせいでもあるだろう。
晴れやかな気持ちで乾杯すると、勢いよくその酒を飲み干したのだという。
その直後はとくに何もなかったという。楽しい気持ちのまま帰宅し、自宅の寝心地の良いベッドをひたすら目指していった。記憶は飛び飛びだが間違いなく帰路を歩んでいたけれど、その途中でとうとう記憶は完全に途絶えてしまい、ふと気づけば路地裏の一角で倒れ伏していたという。
「その時にはもう、カエルになっていたんです」
落胆しながら彼は言った。
酒に悪酔いして盗難被害に遭うならば、まあ、考えられる話だろう。
実際、財布は空っぽで、身分証明となるものもボタンしか残っていなかったという。だが、どこの誰が思いつくだろう。酒に酔って起きたらカエルになっているなんて。
「私は慌てて家に戻りました。勿論、誰ひとり信じちゃくれません。農場だって同じ。実家の父母だって私を息子だと信じてはくれませんでした。そのまま助けてくれる人を訪ね歩いてしばらく。どうにかこうにか思い出したことを手掛かりにやってきたのがベリー市だったというわけです」
そこまで語ると、カエルのヴィンスはふうと息を吐いた。
勿論、表情は曇ったままだ。頭を抱え、疲労をため込んでいると分かる目つきで、彼はぼうっと私たちを見つめてきた。
「疑いつつも、こうして話を聞いてくれる人がいただけでも何よりです。お陰でさっきよりも頭が冴えてきました」
少し落ちついた様子でそう言った彼にこちらも少しだけ安心し、私はそっと訊ねてみた。
「原因として疑わしいのは最後に飲んだお酒ってわけですね?」
「そうですね、恐らくは」
「そのお酒の特徴は思い出せますか? ついでに飲ませた人の事も」
すると、カエルのヴィンスはうんと考え込んでから呟いた。
「コヨーテ」
その単語に内心ドキっとする。しかし、ヴィンスはそんな私の表情に気づくことなく、思い出すままに答えてくれた。
「コヨーテ族……いや、キツネかな。とにかくイヌ族系の男性でしたね。中年で、昔から関わりがあったはずなのですが……うーん、どうしても思い出せない。ちなみにお酒はライチ味のベリーを炭酸とアルコールで割ったシンプルなものでした。彼の家のそばで採れるベリーなのだと言っていましたが、あまり見たことのないものだったように思います」
「ちなみにそのベリーはまだ残っていますか?」
「いいえ、あまりに美味しくて……その場でお酒と一緒に全て食べてしまいました」
「そうですか……」
ライチ味のベリー。生憎、そのベリーについて思い当たるものはない。
せめて残っていればと思いはするけれど、責めることはできない。
世間にあまり知られていないベリーはたくさんあるけれど、人をカエルにしてしまうベリーなんて習った覚えはなかった。実物がない以上、それが何なのかを特定するのは困難だろう。
ともあれ、ヴィンセント=クラウドはそうして人前から姿を消してしまった。
その男性が故意にそうしたのか、そうでないのか、故意だとすれば何が目的だったのかなんて全て分からないままだ。けれど、何が背景にあったにせよ、カエルのヴィンスの願いはただ一つ。元に戻る可能性があるピュアベリーを食べることである。
ピュアベリーは手元にある。これを渡すのは簡単なことだ。
あとは判断するだけ。信じるか、信じないか。その二つの選択肢が私の頭の中でぐるぐると回っていた。




