6.別れは冒険の始まり
夜は過ぎて朝は来てしまった。まだまだ時間はあると信じていたけれど、来てしまえばあっという間なものだ。けれど、お別れの時はもう少し先だ。ボク達のいる場所から森の出口まではまだまだ遠い。ラズとの時間もあともうちょっとだけ残されている。その貴重な機会を無駄にしないために、ボクはひっきりなしにラズとお話をした。
人間の暮らしのこと。オオカミの暮らしのこと。家族のこと。ベリーのこと。森のこと。町のこと。仲のいい人たちのこと。思いつくままにお互いに話して、お互いに耳を傾けて、いまこの瞬間をとびきり楽しもうとした。
でも、いつかは終わりもやって来る。邪魔をするグリズリーもいなければ、イタズラ好きの精霊もいなかった。ボクたちはとても順調に優しい闇の森を抜けいき、少しだけ明るい場所へと入っていた。土も柔らかく、見晴らしもいい。そんな場所を歩きはじめて程なくして、黄色い石畳のベリーロードが見えてきた。見えてきてしまった、というのがボクの本音だ。ケモノのウシやウマ、そして人間のウシ族やウマ族がときどき車を引いているその道は、森の中でかなり目立つ色をしている。見間違えるはずもなく、遠くからでもすぐに分かった。
たどり着いてしまった。目的の場所に。
「ありがとう、ブルー」
早くもラズはそう言った。
「私一人だったら、こうは行かなかったわ。あなたのお陰よ」
「どういたしまして」
ボクは笑った。笑った顔をした。けれど、心はそれほど笑ってはいなかった。本心を言えば、ラズが行ってしまうのはとても寂しい。ここに残ってくれればいいのにと思ってしまう。せめてトワイライトの村にずっと居てくれたら、いつでも会いに行けるのに。
でも彼女は行ってしまう。まずはそのタイトルページへ。次にまた会えるのはいつになるだろう。それまでボクは生きているだろうか。ラズは無事にまたここを通ってくれるだろうか。色々なことを考えると不安で仕方なかった。
それでも、ラズには言えなかった。だって彼女は森を抜けたいと思っている。生き別れの兄を探すというその強い願いを前には、ボクのワガママなんて口に出来るはずもない。
「でも、最後まで油断せずに行かなくちゃだよ」
だからボクはうんと我慢して、軽やかな足取りでベリーロードの上に立った。しっかりと固められた黄色い石畳の道は、自然のままの地面と比べてとても歩きやすい。土と違って柔らかくないのは疲れそうなところだけれど、森を抜けるまでだと思えば全く気にならなかった。
この道を堂々と歩くことは殆どない。人間たちに驚かれてしまうからだ。それでも今回はラズと一緒だ。まるで猟犬と猟師のように、ボクはラズと一緒に歩いたのだった。
ああいうのを飼い犬というらしい。後継者からは遠くても、誇り高いオオカミの一員として育てられたボクだ。人間に飼い馴らされるケモノという存在は哀れでしかないと兄さんも姉さんも言っていたし、自分でもそう思う。
けれど、少なくとも今、ボクはふと人間の傍で幸せそうな表情を浮かべるケモノのイヌの姿を思い出していた。
彼らと一緒にいた人間たちが、もしもラズのようなひと達だったとしたら。昨日から今日にかけてお話をしたように、楽しい時間をいっぱい共有してきた間柄だったとしたら。兄さんや姉さんはそれでも鼻で笑うのかもしれないけれど、ボクはちょっとだけ彼らの幸せそうな表情の意味が分かった気がしたのだ。
けれど、この関係すら、もうすぐ終わる。
ラズは旅立ってしまうし、ボクはまたアーノルドが遊びに来るまでひとりぼっちの生活が始まってしまう。この出会いはドラゴンメイドが見せてくれたひと時の夢のようなものなのだろう。慣れっこになった森での生活にちょっとした刺激をくれたのだろう。
これからはちょっとだけその生活も変わりそうだ。背中に括られている布の袋とそこに入れられたベリーたちが変えてくれるだろう。ラズがくれたエナジーベリー、ブラッドベリー、ドギーベリー。ひしめき合うように入っているそれらは、きっと数か月くらいの食料になる。大事に、大事に、食べながら、尽きた頃には自分でも探してみよう。
トワイライトの村の羊を食べて人間たちを困らせていた生活もこれで終わりだ。優しい暗闇の森の中でおいしいベリーを探して食べながら、ボクはきっとラズとの繋がりを感じることが出来るのだろう。それは昨日や今日のような明るく刺激的な毎日じゃないかもしれない。でも、これまでとは明らかに違う幸せな日常のはず。
そう思うことにした。
けれど、森を抜けて平原が目の前に広がった瞬間、ボクは足元が震えるのを感じていた。平原の向こうまでベリーロードは続いている。その向こうには防壁と呼ばれる高い壁が築かれている。あれがタイトルページの町。ラズの目的地だった。そして今は、ボクとラズのお別れの場所でもある。
「ありがとう」
ラズはしゃがんでボクと目を合わせてくれた。
「あなたのお陰でグリズリーの気配すらしなかった。ここからはもうひとりでも大丈夫よ」
ボクはラズの目を見つめ、出かかった言葉を飲み込んだ。
本当に行っちゃうの。もう少しだけ送っていこうか。もうちょっとだけ森で滞在してみない。その言葉がどれだったかは分からない。けれど、この森の先はボクにとって勇気のいる場所でもあった。
この先は人間のための場所。ボクの住む場所ではない。興味や関心よりも不安の方が大きい世界が先にあると思うと、住み慣れた森を離れるのは怖かった。それに、これ以上はきっと別れも寂しくなってしまう。そう思ってボクは、無理やりにでも言葉を絞り出したのだ。
「そっか。それなら安心だね!」
尻尾を軽く振って、ボクは耳をぴんと立てた。
「でも気を付けてね。平原にだって危険なケモノはいるから」
「うん。ブルーも気を付けて。猟師に撃たれちゃったりしないようにね」
「分かった。次にまたラズがここを通る時まで上手く生きていくから大丈夫」
「それなら安心ね」
ラズはにこりと笑い、そしてタイトルページを眺めながら立ち上がった。
「またね、ブルー。ここまで本当にありがとう」
そう言って、ラズは歩みだしてしまった。
彼女が手を振るのに合わせ、ボクは同じように尻尾を振ってみた。それが人間流の別れの挨拶なのだと、いつだったかアーノルドが教えてくれたのだ。こうやって実践する機会があるとは思わなかったけれど、気持ちは伝わったらしく、ラズは何度も振り返って手を振り返してくれた。
ボクは彼女の姿が見えなくなるまで尻尾を振り続けた。道は真っすぐ。タイトルページも見えている。それでも、かなりの距離があるのだろう。ラズの姿はどんどん小さくなっていって、やがて目を凝らしてもよく見えなくなってしまった。
――ラズ。
急に寂しくなって、ボクは遠吠えをした。
旅の安全の祈りを込めて、再会の祈りを込めて。……そして、うまく言葉に出来なかったラズへの特別な感情を込めて。
返ってくる声はない。それでもきっと届いただろう。ボクは静かにそう納得し、日が暮れるまでその場で見送り続けた。ラズの匂いも声も、一緒に過ごした感覚と共にだんだんと薄れていく。この場にいて、一緒に喋った輝かしい時間がどんどんと過去のものになっていく。
そこに寂しさを覚えながら、日が落ちる頃になってボクはすごすごと森へ帰っていった。
向かったのは共に過ごした場所だった。焚火の後が残っているから見つけるのは簡単だった。誰かが荒らした跡があったけれど、満足したのかもう何処にもいない。
その場所で、火の明かりもない中で、ボクは前脚をどうにか使って首に括ってもらったベリーの袋を地面に落とした。零れたベリーの匂いを嗅いで、どれを食べようかと考えていると、何故だか目からは大粒の涙が零れおちた。
――どうしたんだろう、ボク。
黒い精霊たちが近寄ってきた。エニグマとナイトメアたちだ。けれど、見つめてくる彼らを見つめ返す気にはならなかった。
憂鬱な気持ちは治まらず、とりあえず目の前にあったエナジーベリーを口に入れ、その甘い味を舌の上で転がしていると、さらにぽつりぽつりと涙が零れていってしまった。どうしてだか分からない。とにかく、とても悲しかったのだ。
ボクは起き上がり、周囲を見た。
昨日は隣にラズがいた。一緒に楽しくお喋りをしたのだ。微笑みをこちらに向けてくる彼女の顔と匂いを思い出すと、今ここにそれがないという寂しさが強まってしまう。分かっていたはずだし、覚悟していたはずだ。それなのに、ボクが思っていた以上にお別れはとても重たい切なさとなって圧し掛かってきたのだ。
どうして。どうしてボクは引き留めなかったのだろう。
それは勿論、ラズが本気だったからだ。
家族思いのラズ。ブラックというお兄さんを探すためにタイトルページへ向かっている。見つけたら一緒にトワイライトに戻るのだろうか。そんな日がくれば、もしかしたらラズに会いに行くことが出来るかもしれない。でも、それはいまではない。いつになるか分からないその未来まで、ボクはまたひとりぼっちで暮さなくてはいけないのだ。
気ままな一匹狼といっても、生きていくのは大変だ。たとえラズのお陰で飢え死にが免れそうであっても、孤独はオオカミの心を弱らせる。ああ、どうしてラズはオオカミじゃないのだろう。どうしてボクは人間じゃないのだろう。どうしてボクたちは家族じゃないのだろう。そんなことを考えながらボクは暗闇の中でめそめそしていた。
どうして、どうして、ボクは一緒にタイトルページに行かなかったのだろう。
それはきっとトワイライトを離れるのが怖かったからだ。
どうして、どうして、怖かったのだろう。
それはきっとそこが人間の世界だからに違いない。
どうして、どうして……。
自問自答を繰り返し、ボクはふと泣くのをやめた。
どうして、ボクは人間の世界をそんなに怖がっているのだっけ。
起き上がって首を傾げた。故郷のおとな達は口を揃えていったものだ。人間の世界に首を突っ込まない方がいいと。ケモノが行ったところで、ろくなことにならないからというのがその理由だった。
でも、同じケモノであるアーノルドは言っていた。人間の世界もケモノの世界も基本は変わらないのだと。居場所さえ見つければ、いつでも入り込むことが出来る。アーノルドはそうだった。人間のパートナーがいると確か言っていたはず。詳しくは語ろうとしてくれなかったけれど、彼がボクよりもずっと人間の世界をその目で見ているのは確かだった。
それはアーノルドが空を飛べるからだとボクは勝手に思っていた。空を飛べる翼は精霊からの贈り物。彼らは特別だからそんなことが出来るのだと。でも、誰がそう言った。ボクが勝手にそう思っていただけではないか。
大事なのはボクがどうしたいかなのではないか。
立ち上がってそう思った時に、ボクは故郷の両親と跡継ぎだった兄姉の顔を思い出した。山を下りてみたいその気持ちが本物なら、それを止める権利はたとえ生みの親であってもないのだと。何処を歩み、何処に腰を下ろすかは自分自身が決めること。そのいずれの選択も、聖なる竜母は尊重し、見守ってくれるはずだと。
そう。だからボクは自分の意思で山を下りたのだ。同じ年に生まれた兄弟姉妹が誰ひとりとして選ばなかった道を、ボクは敢えて選んだ。導かれるように、呼ばれるように。それからはずっとボク自身の決めた道を、ボク自身の足で歩んできた。そこが人間の世界であってはならないって誰が決めたというのだろう。
ボク自身だ。
精霊でも、ドラゴンメイドでもない。
初めてそこに気づいた時、ボクは自分の気持ちを見つめた。
ボクはどうしたい。どうして泣いたのだろう。ラズと離れて寂しかったから。それは、ラズがここを去ってしまったからなのか。いや違う。ボクはラズの隣にいたかった。ラズが旅をしてまわるのならば、お別れをしない方法は一つしかないじゃないか。
「ああ、なんでボクは気づかなかったんだろう!」
急いでベリーをかき集め、布袋にしまうと、しっかりとそれらを咥えて、ボクは森を走り抜けた。まず向かうはベリーロード。そこへたどり着いた後は、一心不乱に南東へ向かって進み続けた。
トワイライトは第二の故郷だった。ここへ来て二度目か三度目かの春を迎え、すっかり空気にも馴染んでいた。グリズリーは怖かったけれど、優しい闇が大好きだった。もう二度と勝手に襲わないと誓ったけれど、羊の味も大好きだった。聞こえてくる鳥たちの愛の歌や、甘え盛りの雛たちの声は微笑ましく、様々な虫たちが歌って舞い踊る季節もそれなりに好きだった。
ここはとても過ごしやすく、そして離れるのは寂しい。
でも、と、目の前に広がる平原を眺めながら、ボクは改めて自分の気持ちに向き合った。
大好きな故郷。大好きな世界。同じ景色が広がっているわけではないし、何処ででも馴染めるというわけではない。それでも、大地は繋がっていて、ベリーは生えてくる。そして、何処に居てもドラゴンメイドは見守ってくれているのだ。
ならば誰と過ごし、誰と歩むのかが大事なのではないだろうか。
ベリーの袋を咥えたまま、ボクは振り返り、トワイライトの森を眺めた。そっとお辞儀をして、心の中で感謝を述べた。
――今までありがとうございました。
ひしめき合う木々も、草花も、ボクやボクに食べられていったケモノたちを守ってくれた。そのひとつひとつ、全てに感謝すると、ボクは背を向けて勇気を出して草原へと飛び出した。ベリーロードを踏みしめる肉球がひんやりとしている。木々が守ってくれない草原の風はちょっとだけ久しぶりだった。羊たちのいる丘とも違うその先に、タイトルページが待ち受けている。ラズの待つその場所。新しい世界を目指して、ボクは走り続けた。
出会いは別れの始まり。
けれど、その別れは新たな冒険の始まりに繋がった。