5.誰かと過ごす夜
火を囲むという文化はオオカミにはないものだ。そもそも火を起こすことが出来ないのだから仕方がない。昔は誇り高きオオカミたちも火を扱っていたらしいと聞いたことがあるのだが、少なくともボクはその使い方を知らなかったし、血を分けた家族が使っているところも見た覚えがない。
ボクが知っている火の常識とは、温かいけれど結構危険であまり近づかない方がいいというものだった。なので、こんなにも近くで焚火に当たるのは初めてだった。初めてというものは怖い。それでも、ラズと一緒だと思えばその怖さも不思議なくらい薄れた。
ボクの目の前で、ラズは干し肉を炙ってくれた。何も知らないボクが時々盗んでしまっていたトワイライト村の羊肉であるらしい。スライスした肉でエナジーベリーを一個包み棒で突き刺すと、軽く炙った後に細かく刻んだドギーベリーを振りかけてくれたのだ。
「熱いから気を付けて」
そう言って差し出してもらって、ボクは恐る恐る口にした。熱を冷ましながら噛みついてみれば、途端に目が丸くなるくらいの旨味が口の中いっぱいに広がった。ドギーベリーの匂いも、炙られた羊肉と甘いエナジーベリーの匂いも、全てが愛おしいほどだった。ベロの上で踊るのは味の精霊ってやつなのだろう。魅惑のダンスを踊りながらひと時の夢を見せてくれる。
飲み込むのが非常にもったいない一方で、早く飲み込みたい欲求に駆られた。とにかく、とにかく、美味しかったのだ。
「ボク、こんなに美味しいものを食べるのは初めてだよ」
仕留めたばかりの羊の肉とはまた違う。美味しいとは何なのかを教えてもらうくらいの感動だった。意味の分からない涙をこぼすボクを見て、ラズは苦笑いを浮かべる。
「そんなに美味しかったの? お口に合ったようで何よりよ」
そう言って、ラズはラズで少し違う風味の炙り肉を食べていた。細かく刻んでいるのはドギーベリーではない。恐らくヒト族の大好きな味になっているのだろう。その味にうっとりとするラズを見ていると、何だかボクまで幸せな気持ちになった。
美味しいもの食べる時間と場所を誰かと共有する。そんなことは久しぶりだった。
アーノルドは雑談に来るだけだったし、家に帰れば美味しい食べ物が待っているからと言ってボクとの食事には付き合わない。いつもはご飯を一緒に食べるとすれば、腐肉でもいいから腹ごしらえをしたいお喋りを忘れたただのカラスなどだった。相手によっては取り合いになるし、横取りされてしまう時だってある。逆にボクが横取りせざるを得ない時だってあった。楽しく幸せな気持ちで一緒に食事だなんていう状況ではなかったのだ。
だからだろう。ボクはこの場にいることが心から嬉しかった。ラズと一緒にいることが不思議なくらい楽しい。まだまだ醒めてほしくない夢のようだった。
「誰かと焚火を囲むのなんて久しぶりだわ」
ラズはため息交じりに言った。
「旅を始めたのは三年くらい前なんだけどね、今でも里帰りの後の夜はちょっとだけ心細くなっちゃうの」
寂しそうに焚火を眺めて、ラズは呟いた。ボクはその気持ちを察して、共感してみた。
オオカミと人間じゃ状況は違うかもしれないけれど、思い当たるところがあったのだ。初めて故郷を出た日、月はいつもより寂しく輝いていた。一人ぼっちで遠吠えをしても、答えてくれる声はない。その時、ボクは初めて家族が一緒にいるという有難みを思い知ったのだ。けれど、ボクはそれからずっと一人でいる。今更引き返すなんてカッコ悪いかと思って、寂しさから逃れるようにトワイライトへやってきたのだ。そうこうしているうちに、遠吠えに返事がないことを無性に寂しがることも殆どなくなった。
でも、もしも頻繁に里帰りしたとしたら、やっぱりあの寂しさを度々感じたものかもしれない。ボクはそんな事を考えてから、ふと気になってラズに訊ねた。
「ねえ、ラズはどうして旅をしているの?」
「え?」
「やっぱり、ベリーのため?」
さり気ない問いだったのだが、ラズは戸惑い気味にボクの顔を見つめた。しばし考え込み、誤魔化すように笑ってから、彼女はひとり頷いた。
「そうね。あなたにも聞いてもらおうかしら」
そう言ってから、ラズはボクの目を見つめてきた。
「私が旅をしているのはベリーの為よ。ベリーのことをドラゴンメイドの皆に知ってもらうため。私の父さんもそうやって旅をしていたの。ゴールド級のベリー売りとしてね。私たちは母さんやお祖母ちゃんと一緒にトワイライトにいたからあまり知らなかったけれど、兄さんや姉さん、それに弟と一緒に、時々帰ってくる父さんの話を聞くのは楽しみだった」
ラズは目を輝かせ、興奮気味に言った。
「父さんはね、ローガンって言う名前で、しっかりしたベリー売りだったの。でも、本人はそのことを決して自慢しなかった。そのすごさを知ったのは、私自身がベリー売りになってからね。父さんは人とベリーを引き合わせる天才だったんですって」
「へえ……ラズもお父さんみたいになるの?」
「なれたらいいなって思っているわ。弟のクランもね。私と同時にベリー売りになって、競いながら旅をしているの。私たちはまだ駆け出しだから、まだまだあのローガンさんの子どもさんって言われることが多いけれど、いつか父さんを超えられたらって思いながらベリーと向き合っているわ」
「お父さんもきっと、ラズのことを自慢に思っているよ」
「そうだといいわね。でも、父さんはとても優しい人だから、仮に至らない私だったとしてもきっと……」
そこでラズは力なく笑い、炎を見つめたまま呟いた。
「きっとドラゴンメイドの夢の中から優しく見守ってくれているわ」
その言葉にボクはぽかんとしてしまった。
ドラゴンメイドの夢の中。
ボクは少しずつその意味を理解していった。
生き物はこの大地に生まれる前、ドラゴンメイドの夢の中にいるらしい。ベリーが生えてくるように、木々や植物、そして生き物たちは誕生する。魂は夢を飛び出して現実へやってくる。だから、ドラゴンメイドはボクらの母であり、眠りながらずっと見守ってくれているのだ。そしていつか死んでしまう時、ボクたちは再びドラゴンメイドの夢の中に還るという。
生きている時に大地で出会った全ての人から忘れられてしまうその日まで、死者はドラゴンメイドの夢の世界で親しい人を待ち続ける。
それは真面目な姉さんが、かつて語ってくれたお話だった。
「ラズ……ごめんなさい。ボク、余計なことを言っちゃった」
「いいの。気にしないで。すごく昔のことだから」
寂しそうに笑いながら、ラズは膝を抱える。揺らぐ炎を見つめたまま、彼女は静かに語ってくれた。
「父さんが命を落としたとき、私はまだうんと小さかった。年上のブラック兄さんやグース姉さんだけを連れて、ベリー採集のためにこの森に入っていったの。置いてきぼりにされた私と双子の弟のクランはぷんぷん怒って待っていたのを今でも覚えているわ。帰ってきたら文句を言ってやろうって。……でも、父さんは帰ってこなかった」
何というべきか分からずに表情を窺うボクを、ラズはちらりと見つめてきた。
「『グリズリーは怖い?』って、ブルーは聞いたわよね。ええ、とても怖いわ。ベリー銃を使うことはそんなにないけれど、彼らの事はちょっと苦手。何故なら、父さんの命を奪った種族だから」
「命を……」
「そう。森に入られて怒ったのかしら。それともたまたま機嫌が悪かったのかしら。グリズリーが突然父さんたちを襲って、まだ幼かった兄さんや姉さんを連れ去ろうとしたのですって。そこで父さんが命懸けで守ってくれたの。グリズリーは仕留めたけれど、父さんも深い傷を負ってしまった。それで、そのまま――」
ボクは息を飲んでしまった。
この森にはいまもグリズリーがいる。言葉が分からないひとたちではないが、心が通じ合うかどうかは彼ら次第である。争いごとを避けたがるひとが多い印象だけれど、ラズが語ってくれたようなことだってあるのだ。
このトワイライトにボクが来てから、何人かの旅人がグリズリーの機嫌を損ねて命を奪われてしまっていた。彼らのようにラズの父さんも命を落とした。その出来事が、深く、とても深く、ボクの心に突き刺さったのだ。
「あの日のことは今も私たち家族の心の傷になっているの。とくにその場に居合わせた兄さんと姉さんのショックは大きかった。活発だったっていう姉さんはすっかり心配性になってしまったし、兄さんはちょっと乱暴になってしまったの。そして、それから数年後、兄さんはドラゴンメイド公認のベリー売りになると、姉さんに家の事を任せて飛び出すように村から出て行ってしまった。……それっきりよ」
ラズが肩を落とすと、何だかボクも寂しくなった。
「村の皆はね、ブラックはおかしくなってしまったんだっていうの。というのも、ある時から兄さんは『父さんが死んだのはコヨーテのせいなんだ』って言いだしたらしくて。グース姉さんともよくケンカをしていたそうよ。そして最後は『父さんを殺したコヨーテから、ドラゴンメイドを助けないと』って言って、飛び出していったの」
「コヨーテ?」
ボクは首を傾げてしまった。コヨーテといえば、オオカミにちょっとだけ似ているケモノだ。ケモノだけでなくコヨーテ族という人間もいて、やっぱりオオカミ族に似ている。けれど、ボク達よりもちょっと小柄でどこかヘラヘラした顔をしているのだ。
そういえば、コヨーテに関する話は故郷でもよく聞かされた。彼らは友達の顔をして近づいてくるが、決して信用してはいけないのだとか。けれど、ボクは腑に落ちなかった。
「襲ってきたのはグリズリーだったんでしょう?」
「そうよ。でも、兄さんはコヨーテって言っていたんだって。たぶんね、そのコヨーテっていうのは昔話に出てくる怪人のことなのよ」
「怪人のコヨーテ? それって昔話に出てくるやつのこと?」
ケモノや人間のコヨーテ族ではなく、故郷のおとなたち――とりわけお祖母ちゃんなどが語ってくれたような存在のことだ。
ボクの反応に、ラズは少しだけ意外そうな顔をした。
「あら、ブルーも知っているのね? ええ、昔から語られていたそうよ。コヨーテはドラゴンメイドに住む人間たちに紛れ込んで、人々の猜疑心を刺激するの」
「猜疑心って?」
「恨んだり、疑ったり、妬んだりする感情のこと。コヨーテに煽動されて人々がいがみ合っていると、いつの間にかナイトメアっていう奴らが現れて大地やドラゴンメイドの夢の中で悪さをし始めるの」
「ナイトメア……」
繰り返すと、ラズは頷いて教えてくれた。
「ありふれた精霊の一種よ。ベリーに自我が宿ったって信じている人もいるみたい。この森にもたくさんのナイトメアがいるわ。ほら、見て」
指さす先で、黒い生き物たちがそっと身を隠した。
「今のがナイトメアよ。傍にいたのはきっとエニグマね。丸い形にベリーのように光る眼をしているのが小さなエニグマで、同じ体色で少し大きくて手足などがあるのがナイトメアっていうの」
ボクは納得して頷いた。彼らの事ならよく知っている。名前は知らなかったけれど、優しい暗闇の世界でひっそりと生きる謎の生き物たちだ。故郷の雪山にもたくさんいたが、悪さをするなんて知らなかった。
「悪い奴らだったんだ」
呟くボクに、ラズはそっと笑った。
「ただのおとぎ話よ」
そう断りつつ、ラズは教えてくれた。
「おとぎ話の世界ではね、ナイトメアに汚染された夢は、やがて大地の人々の夢にも伝染していく。汚染された夢を見た人は心に穢れをため込んで、どんどんおかしくなってしまうのですって。さらに悪い事に、夢で暴れられるとドラゴンメイドの機嫌もどんどん悪くなってしまう。そうして最後にはドラゴンメイドの怒りが災害を引き起こすのですって。だから、コヨーテはナイトメアの親玉とか、厄災の主犯も言われているのよ」
「つまり、ドラゴンメイドの悪者として、お兄さんもその名前をあげたのかな?」
「うーん、悪者……多分そういう事なんでしょうね。とにかく、兄さんは父さんの死をコヨーテの仕業だと考えたみたいなの。グリズリーがいつも不機嫌なことも、コヨーテが暗躍しているからだって。裏で糸を引っ張って、世界を混乱させようとしているその一環で、父さんは犠牲になってしまったのだって」
「ぜんぶコヨーテの仕業?」
「ええ、コヨーテによって疑いの心が強くなれば、生き物たちは本来持っている感情のなかで、もっとも残酷な面を見せ始める。自分さえ良ければという思いが、多くの悲しみを生み始める。そう言われているの。その裏側にあるのは不安や恐怖。生き残りたいという願いが、争いを生むようになってしまう。コヨーテはそんな願望を刺激する精霊でもあるのですって」
「どうしてそんなことをするんだろう……」
ボクは首を傾げながらも、ふと森での日常を思い出した。たしかに、グリズリーたちはそういうこともある。それだけではなく、ケモノたちはそういうことが多かった。言葉が通じても、通じなくても、普段から騙して騙されてと繰り返しているためか、互いに出方を窺わないといけない。その結果、ただそこを通っただけで命を奪われそうになることだって珍しくはないのだ。
けれど、その感情がコヨーテのせいだなんて考えたことはなかった。そうだとしたらとても怖い。
「ナイトメアがいるのなら、コヨーテも本当にいるのかな?」
ボクは心配になってラズに訊ねた。だが、ラズは半信半疑で笑みを浮かべる。
「どうかしら。だって昔話だもの。過去にコヨーテだったと言われている人たちはいるわ。それは例えの話だけれどね。世界で初めてコヨーテと呼ばれた人物は、本物のコヨーテ族の男性。コヨーテが怪人の代名詞になった原因の人でもあるわ。それ以外は色んな種族の人たち。でも、彼らが実際にナイトメアを操っていたかどうかは定かじゃないの。大混乱を引き起こしたのは確かだけれど」
そこで一つため息を吐くと、ラズは切なげに炎を見つめて呟いた。
「兄さんは、きっと心の整理がついていないのだわ」
炎の向こうをじっと見つめながら、ラズはぼんやりとしている。
「だから理由を探している。単なる事故ではないと信じて、行き場のない怒りをぶつけようとしているのよ。好きにさせておけって村の人たちは言うけれど、でも、私はどうしても兄さんに帰ってきてもらいたいの」
「……そっか。じゃあ、ラズはブラックっていうそのお兄さんを探しているんだね」
「そういうこと」
微笑みながらラズは首を傾ける。
「ブルーも一応覚えていて欲しいの。真っ黒い髪と真っ黒い目をしたヒト族の男で、名前はブラック=ベリー。背は高めで、ちょっとぶっきら棒なところがあるけれど、喋るオオカミであるからといって、突然ブルーを撃ったりはしないはずよ」
「分かった。ボク、見かけたらどうにか伝えてみる。『ラズが心配していたよ。一度はお家に帰りなよ』って」
笑顔でそう言って、ふとボクは気づいた。
そんな未来があるとすれば、それはラズと別れてしばらく経った後の事だ。そこから生まれたのはほんの少しの苦い気持ち。今こうして喋っている時間もいつか終わるのだというその気づきは、ボクを妙にそわそわさせた。
そうとも知らず、ラズは嬉しそうに笑った。
「ありがとう、とても助かるわ。でも、気を付けてね。人違いってこともあるから。くれぐれも人間のことを甘く見ないでね」
「だ……大丈夫だよ。ボク、人目を避けるのには慣れているからさ……」
そう言って、ボクはどうにか笑顔を作ってみた。それ見たラズもまた目を細め、ボクをじっと見つめてきた。
「笑うオオカミなんてあなたが初めてよ。家にはケモノのイヌやネコがいるのだけど、どちらも笑ったりはしないもの」
「ちゃんと笑えてる?」
ボクはそう確認してから、表情を戻した。
「アーノルドに教えてもらったんだ。こうやって人間は笑うんだって。言葉だけじゃなくて表情も人間にとっての大事な言語なんだって」
「そのアーノルドってあなたの名付け親だったわね。人間の事をよく知っているのね。ワタリガラスって言っていたっけ。お話をするってことは、きっと、人間と暮らしているのだわ」
「そうかも……たぶんね」
頷いてみて、ボクは今更気づいた。そういえばボクはアーノルドのことを何も知らない。いつも突然やってきて、一方的にお喋りするものだったが、よくよく考えてみれば彼が話すのはいつも世間のお話だ。
彼自身は何時も何処で何をしているのだろう。不思議だった。
「ねえ、ブルー。ブルーって名前を付けてもらう前は、名前はなかったの?」
訊ねられたボクは、ラズをじっと見つめてしまった。
「えっと……実はあったんだけど、でも山から出て行くときにお父さんとお母さんに預けてきたの。またその名前を返してもらう時は、家族に戻る時だって。だから、ボクはブルーなんだ。まだ帰るつもりはないからね」
「そっか。じゃあ、ブルーでいいのね」
そう言って、ラズはくすりと笑った。
「でも気になるわ。群れを去った時に預けてきた名前って。マヒンガ……オオカミじゃなくても、その名前を知れる機会ってあるの?」
「分かんないや。でも余所のひとでそういう機会があるとしたら、結婚する時かな」
何となくそう答えて、ボクはすぐに顔が熱くなった。
結婚。軽い気持ちで口にしたその単語に、何だかとても恥ずかしくなってしまったのだ。妙に隣を意識してしまう。どうしてだろう。恥ずかしく思いながらラズを恐る恐る窺ってみれば、当然ながら彼女は全く気にしていなかった。
「結婚か……。じゃあ、私には機会がなさそうね」
そりゃそうだ、とボクは思った。
人間のお嫁さんなんて現実には聞いたことがない。もちろん、お婿さんも。オオカミ族だって二足か四足か、髪の毛と呼ばれるタテガミがあるかどうか、服を着ているか着ていないかの違いしかないはずなのに、お付き合いなんて考えられないほど隔たりがあるのだ。況してやヒト族だなんて。
バカバカしい妄想だと笑おうとしたが、何故か笑えなかった。何故だかとても切なくなったのだ。違うということがとても寂しくなる日が来るなんて。
「もしも……なんだけどね」
ボクはもじもじとしながらラズに言った。
「もしも、ボクたちのこともうちょっと知りたかったら、もっとお話しできると思うよ。それに、この森のことも。この森は第二の故郷だからね。人間たちが普段知らないこともボクは知っている。そうだ。トワイライトに戻ってきたときにさ、何か困ったことがあったら、森に向かってボクの名前を呼んでよ。色々と案内してあげられると思うからさ」
「ありがとう。頼もしいわね」
小さく笑いながらラズは言った。
明るくて、優しくて、親しげな声だった。それなのに、何処となく距離を感じてしまうのは何故だろう。ボクは分かっていた。
ラズの目的はお兄さんを探すこと。ベリーを売ることよりも多分そっちの方が大きいのだ。だから、ベリー採取以外で寄り道をしている暇はあまりないし、況してやここに残り続けるなんてこともないのだと。
「あのさ……トワイライトにはあとどのくらいいるの?」
「明日には森を抜けるつもり。ベリーロードに戻ったら、真っすぐタイトルページに向かって、そこで一か月滞在しながらベリー売りのお仕事をするの」
「明日にはタイトルページに……」
ボクは息を飲んだ。もう少しこの森でベリーを採取するのかと思ったからだ。けれど、そうじゃない。ボクはその事実を胸に、少しだけ森の外に思いを馳せた。
タイトルページという場所は、アーノルドによれば、森を南東に抜けてベリーロードを歩いた先にある町の名前だ。グリズリーを意識した防壁に囲まれていて、そこにはクマ族を中心とした多くの人間たちが暮らしているらしい。
トワイライトとは近くて遠い。ボクには未知の場所だった。
「よ、よかったらさ、森を抜けるまでお見送りしようか!」
ラズの視線を受けて、ボクは焦りながら理由を付け加えた。
「ほら、グリズリーだっているし。ベリーロードに戻ったあとも、安心は出来ないよ? でっも、ボクが一緒だったらグリズリーもきっと近づいてはこない。喧嘩になるのは避けたいはずだからさ!」
ボクはドキドキしながらラズの反応を窺った。
断られたくないという思いが強すぎて、挙動がおかしくなってしまうのだ。しかし、ラズはそんなボクを温かい目で見つめてくれた。
「ありがとう。ぜひお願いするわ」
穏やかな声で彼女は言った。
ボクは少しほっとした。どうやらお別れの時間はまだまだ先になりそうだ。そう思うと安心して尻尾がぶんぶん揺れてしまった。故郷では尻尾でお尻を隠すのが礼儀だったけれど、ラズは怒ったりしない。そこがアーノルドみたいで嬉しかった。
きっとボクたちはいい友達になれる。
そう思いながら、ボクはラズと夜通し語り合った。暗闇にベリーの輝き、そして焚火の揺らめきに照らされながら、その横顔にふと見惚れてしまった。ふたりで過ごす夜はあっという間に更けていく。程よい眠気に見舞われながら、ボクはラズと語らいながら、何度も何度も心の中で願っていた。
どうかこの夜がもっと長く続きますように。