3.人間とケモノ
ベリー畑へと続く道なき道はどこまでも真っ暗だ。ここでの光は仄かなものしかなくて、ここを好んで故郷とする生き物たちもその加減の光が大好きなケモノばかり。いつもずっといるわけでないボクも、ここの暗さは心地よくて大好きだった。
けれど、人間は違う。人間は太陽や月の光がよく当たるところで暮しているからか、夜目というものが効かないらしい。ラズもいちいちベリーランプで辺りを照らさないと前が良く見えないらしくて、ボクがちょっと駆け足で行ってしまうと不安そうに先を照らしてきた。その度にボクは立ち止まり振り返る。
「ごめん、ラズ。早かったかな?」
「いいのよ。大丈夫。先へ進んで」
ラズは小声でそう言うと、足元に気を付けながら慎重に近寄って来た。
あたりはしんとしていて暗い。小声でのやり取りを心掛けたとしても、おそらく会話も敏感なケモノにとっては騒音と捉えられてしまうのだろう。とくに神経質なグリズリーにとっては、腹立たしい異音となるだろう。彼らと鉢合わせしないためにも、ボクがしっかりしていないと。
耳を澄ませ、音を立てず、忍び足で突き進む。それでも風の匂いは道しるべとなり、ラズの求める場所かも知れないベリー畑の在処を教えてくれる。
「こっちだ」
駆け出しそうになるのを抑え、ボクは早足で歩んだ。そんなボクに追いつくと、ラズは周囲を警戒しつつ、ボクに話しかけてきた。
「ねえ、ブルー。あなたは当然のように人間の言葉が話せるみたいだけれど、森のケモノや精霊たちとも話せるの?」
ボクは匂いに気を配りながら、質問に答えた。
「えっとね。話せる種族と話せない種族がいるよ。精霊たちはほとんど無理かな。ケモノの場合は……たとえば、さっき言った友達のアーノルドとは何度もお話しできる。あ、でも、アーノルドは人間の言葉を話せるから、その言葉で話しているんだ。あとは――グリズリーの一部とかかな」
「グリズリー……」
息を飲みながらラズは興味を示してきた。
「グリズリーもあなたとお話してくれるの?」
「お話してくれるというか、言葉は分かるって感じかな。彼らも人間の言葉を話すことがあるから。……そういえば、今気づいたのだけど、ボク、人間の言葉を話すケモノとしか話せないかも」
「犬や他のオオカミとは話さないの?」
「あまり話したことないや。この森にも猟犬が来ることがあるんだけどね、彼らとは吠え声の感じと視線とか表情とかボディーランゲージ、尻尾の動きとかでしか会話できないの。それと、故郷以外のオオカミとも。考えてみれば、話せない場合の方が多いかもしれない」
今更ながら気づくボクを見つめながら、ラズはぽつりと呟いた。
「やっぱりマヒンガなのかしら……」
またその言葉だ。
ボクはラズを見上げて、訊ねてみた。
「ねえ、マヒンガって何なの? 教えてくれる?」
「そうね、知らないっていうのなら、教えてあげる。マヒンガっていうのはね、主にスノーブリッジの雪山あたりで暮している人間の言葉を話すオオカミたちのことなの。その辺りの昔の言葉でそのままオオカミって意味らしいわ。マヒンガはとても誇り高いがゆえに、スノーブリッジの人たちとも対立しがちで、だからスノーブリッジの人達からは――」
そう言いかけて、ラズは口を噤んだ。バツが悪そうにボクから目を離すと、溜息を吐きつつこう言った。
「ちょっと喋りすぎたわね。とにかく、あなたみたいに人間と話が出来るオオカミのことをマヒンガっていうのよ」
「へえ……」
ボクは納得して、ラズに言った。
「じゃあ、ボク、やっぱりそのマヒンガってやつかも。だってボク、まさにスノーブリッジの雪山で生まれたんだもの」
思い出してみれば、すごく前の事だ。
その頃のボクは自分の育った場所の名前すら知らなかった。雪山から人間に見つからないように平原へと出て、気の向くままに歩んでたどり着いたのがこの朝焼けと夕焼けの優しい森だった。名前なんて気にしたこともなかったのだけれど、故郷にはスノーブリッジ、ここにはトワイライトという名前があるのだと、アーノルドが教えてくれたのだ。
アーノルドのお陰で、ボクは少しだけ人間というものに興味を持った。ドラゴンメイドを最初にドラゴンメイドと呼んだのも人間たちだったと聞いて、面白い生き物たちだと素直に思ったのだ。その興味のお陰だろうか。ラズと話すのはなんだかワクワクすることだった。
「普通はね、年頃になったオオカミは戦士か子守を引き受けるの。で、ボクは優しすぎるから戦士じゃなくて子守になりなさいって言われていて、そうしようと思っていたの。でも雪山から見渡せる平原があまりにも広くて美しくて、その先にどうしても行ってみたくなって、それで独り立ちさせてもらったんだ」
「――そう。追い出されたわけじゃなかったのね。ごめんなさい」
「ううん、いいんだ」
声が弾んでしまいそうなのを必死に抑え、ボクは人間たちの笑顔……に近いと勝手にボクが思っている表情をラズに向けてみた。その気持ちが伝わったのだろうか、ラズはそんなボクを見てにこりと笑ってくれた。
「優しいのね」
そう言って、少し切なげな目で周囲の暗闇を見つめた。
「それにしても、静かだわ。生き物の吐息すら聞こえてきそうなくらい。虫たちの声も遠いし、小鳥たちも歌わないなんて。まるで皆、眠っているかのよう」
「眠っているのかもね。ここでは皆、癒されにくるから」
「癒される?」
「うん。言葉が通じずとも、暗黙の了解でここは癒しの場所になっているんだ。暮らしているのは暗闇を愛する生き物ばかりで、そんな生き物たちの静かな営みが、優しい闇の世界を生み出している――ってアーノルドが言っていたんだ。グリズリーもここではそんなに暴れないんだよ。彼らも森の外での喧騒を忘れるためにここに来るらしいから」
「あのグリズリーが……信じられないわ」
心底驚いた様子でラズはそう言った。
「やっぱりグリズリーは怖い?」
「そりゃあそうよ。グリズリーといえば旅のベリー売りが命を落とす理由の一つだもの。怖いに決まっているわ」
「ベリー銃もグリズリーの為に持っているの?」
「そう。でもまあ、実際にはグリズリー以外の相手に対して向けることが多いけれどね」
「そうなの? 例えばどんな相手?」
「人間よ」
あっさりとしたその答えに、ボクは目を丸くしてしまった。
人間が、人間を? それはボクにとって、あまりに意外な答えだったのだ。
彼らは食物連鎖に巻き込まれることを拒み、一定のルールの下で集団生活を始めた者たちだと聞いている。二足歩行により前脚を自由に使える手へと進化させ、言葉と技術の開発で意思疎通を円滑にし、ドラゴンメイドの大地に文明を築いていった。
アーノルドはそう教えてくれた。故郷のおとな達が馬鹿にしていた人間たちも、アーノルドにかかれば興味深い知的生命体なのだという。生きるための知恵は豊かさに繋がり、生きる事に余裕の生まれた彼らは争うことも少ないのだと。
だからボクにとって不可解でもあったのだ。
「人間を撃つの?」
「撃たなくて済むことも多いわ。でも、実際に引き金を引いたことは何度もある。これもベリー売り――いいえ、ベリー売りに限らず旅人が命を落とす理由の一つなの。人間の中にもね、金目の物を強奪するために命懸けで襲い掛かって来る輩がいるのよ」
「そうなんだ」
仲間同士で殺し合いをするのはケモノだけだと思っていた。
今日を生きていくのが精一杯だから、オオカミは縄張りに入ってきた者を襲う。食べるためでなくとも、敵を排除するために命を奪うのだ。この森ではグリズリー同士がときどき激しい殺し合いをしている。それも自分の食べ物を確保するためだとアーノルドが言っていたのだ。
「人間たちもボクたちケモノに似ているんだね」
「同じ生き物だもの。便利な暮らしをしていても、皆が裕福に、善良に、暮らせるわけじゃない。言葉は通じても心は通じないってことはいっぱいあるの。そんな時、最後に自分の身を守るのがこのベリー銃。ポイズンベリー弾とフレイムベリー火薬に何度助けられたことか」
「大変なんだね」
思ったままにそう言うと、ラズはボクをランプで照らしながら訊ねてきた。
「一匹狼だって大変そうじゃない。いつもご飯はどうしていたの? オオカミって群れがないとなかなかご飯にありつけないって聞いたことがあるけれど」
「わあ、オオカミじゃないのによく知っているね」
ボクは感心してしまった。ラズにもアーノルドのようなお友達がいるのだろうか。それとも、ラズ自身がアーノルドみたいに博識なのだろうか。
「そうなの。故郷を旅立ったのは良いけれど、ひとりぼっちじゃ狩りなんて出来ない。大好きだった鹿の肉だって故郷を出て以来殆ど食べたことないや。すでに死んでいる誰かのお肉や弱っている生き物の肉ばっかり。あ、でもね、森を抜けた先の小高い丘に羊がいてね。そこの羊を攫って食べることもあるよ」
「まあ、それってトワイライトの村の羊じゃない」
驚いた様子でラズがそう言った。
「知っているの?」
「ええ、あの村は私の故郷だもの。羊は村人たちの大事な財産なのよ」
「じゃあ、あの羊たちって家畜っていうやつなの?」
「家畜を知っているのね? その通りよ。そういえば、この間帰った時に村の人たちが怒っていたわ。羊泥棒がいるって。きっとグリズリーのせいに違いないって。まさかあなたが犯人だったなんて」
「……どうしよう。ボク、悪い事しちゃってたんだ」
耳を倒してボクはラズを見上げた。
彼女の故郷ということは、このまま捕まって突き出されるなんてことになりやしないか。気になる女の子にそうされちゃうのはとても辛い。それにただでは済まないだろう。
スノーブリッジの故郷でだっておとな達にはさんざん言われたのだ。人間の飼うケモノには手を出さない方がいい。彼らを敵に回すととても面倒で恐ろしいことになるからと。
「村の人たちに謝りに行った方がいいかな?」
「やめた方がいいわ」
ラズは困った顔でそう言った。
「これから先は丘の羊を狙わないことね。近々、優秀な牧羊犬を連れてくるって言っていたし、見つかったらきっと謝る前に銃で撃たれてしまうかも」
「そっか。じゃあ、今度からは気を付けるよ」
美味しい羊たちだったけれど、しょうがない。そんな言葉を飲み込んで、ボクは先へと進む。頭の中にあるのはこれから先の生き方についてだった。羊はそれだけ手ごろな獲物だった。彼らを諦めるとなると、グリズリーの食べ残しや弱った生き物が中心になる。果たしてボクは生きていけるだろうか。ちょっと自信がなかった。
暗い気持ちで歩いていると、ラズがそっと話しかけてきた。
「ブルー。ひょっとしてだけど、食べるものに困っているの?」
「え……? えっと――」
素直に答えるべきか迷ってしまうのは、オオカミであるが故の意地だろうか。しかし、不安の方が強い今はそんな誇りも薄れてしまう。誇りなんて守ったところでお腹は満たされないもの。だから、ボクは素直に頷いたのだった。
「実はそうなの……」
「まあ、それならそうと早く言ってくれればいいのに」
ラズはにこりと笑い、屈んでボクに視線を合わせてきた。
「ベリー畑についたら道案内のお礼にイイコトを教えてあげる。きっとこれから先の森での生活に役立つことよ」
「イイコト?」
「そう。ベリーに関すること。あなた達、オオカミの主食としてぴったりのベリーもいくつかあるのよ。それとも、ブルーは知っているかしら」
「ううん、ボク、ベリーのことはよく知らないの。食べちゃいけないベリーは故郷のおとな達が教えてくれたけれど」
「そうなの。だったらきっといい情報になるわ。期待していて」
ひとり上機嫌になるラズを見て、ボクは一つの気づきを得た。
そうか。ベリーって人間だけじゃなくてボクの役にも立つかもしれないのだ。アーノルドから色々と聞いていたけれど、それがボクの日常と結びつくことがなかった。どうあってもボクはオオカミで、ベリーは植物や果実のようなもの。毎日できれば新鮮なお肉が欲しいボクにとって、ベリーという選択肢は極限まで現れないものだった。
そんなボクの常識を、ラズは変えようとしている。
アーノルドの噂話で聞くのとはまた違う、生の人間の文化に少しずつ触れていくことは、まさに未知の楽しみだった。