1.勇者を決めるために
長い道のりだった。途方もなく続くと思われた螺旋階段だったが、その終わりは急に訪れた。
最後に残した心のわだかまりを解消できたからか、異様に心は軽くなっていた。だが、浮かれてはいられない。その最期の空間に足を踏み入れた途端、緊張感がどっと押し寄せてきた。
デイドリームと呼ばれた今までの道のりとは違って、そこはだいぶ明るい場所だった。
奥では扉が固く閉ざされている。そして、その前に、彼はいた。開く気配のない扉を見つめている。扉の横の壁際には、マルが寝かされていた。まだ目を覚ましてはいなかったらしい。
「……兄さん」
緊張を必死に抑え、私はその背中に声をかけた。
彼は驚きもせず、ただゆっくりと振り返ってきた。周囲は明るく、温かいはずなのに、その視線を受けた瞬間、寒気が襲ってきた。
黒いその目に見つめられ、私は怯みそうになる。だが、必死に耐えて、私は彼に向かって告げた。
「帰ろう」
ブラックは眉間にしわを寄せた。その足元にはハンチがいる。窺うように私を見つめ、そして不安そうにブラックを見上げていた。
アーノルドが私の肩からそっと飛び立ち、マルのもとへと向かう。気を失っている彼女に寄り添うと、彼はブラックに向かって告げた。
「とんでもないことをしたものだ。ドラゴンメイドがそう導いたとでも言うのかい?」
やや感情的なその言葉にブラックは動じず、私から目を逸らさずにその口を開いた。
「多少強引だろうと候補が一人しかいなければ竜母さまとやらも諦めがつくだろう。そう思ったのだけれどね」
苦笑を浮かべたかと思えば、今度はベリー銃を私に向けてきた。
「やめた方がいい」
アーノルドが冷静に忠告する。
「また眠らせたところで候補が減るわけではない。ドラゴンメイドの決定がなければ、マルは扉を開けないのだよ」
「そうだな。候補が減らない限りは……」
不穏なものを感じ、私はすぐさまベリー銃に手をかけた。
まさか、とは思う。こんなにも強引に、大勢の人を惑わしていたとしても、家族だから。優しくて、遊んでくれた兄だから。まさかとは思いたい。けれど、怖くなったのだ。
候補が減らなければ。それはつまり、私を眠らせる以外の方法を取るつもりではないのか。そんなことはないと信じたい。信じたいけれど、不安の方が強かった。
ブルーが身構え、唸りだす。彼もまた不穏な空気を感じ取ったのだろう。そんなブルーに対し、ブラックは悲しくなるほど冷たい眼差しを向けてきた。
「何の説得も聞く気はないぞ。俺は俺の信じる手段を取るだけだ」
ブラックの言葉にアーノルドが言葉を飲み込む。
気を失ったままのマルの傍に佇み、彼は私たちを見比べた。ブラックは私に銃口を向けたまま、さらに言った。
「ラズ。心配をかけたのは詫びよう。そして、ずっと避けてきたことも。巻き込みたくなかったんだ。そして今もその気持ちは変わっていない。だから、お前に求めていることはたった一つだ。勇者候補であることを放棄し、俺を認めろ。その相棒にも認めさせるんだ。そうすれば、俺たちは戦わずに済む」
その言葉に、ブルーが戸惑いを見せた。私をちらりと振り返り、そして、再びブラックへと目を向けた。
「その条件を飲まなかったら、ラズをどうするつもりなの?」
恐ろしいその問いに、ブラックは淡々と答えた。
「その気を変えてみせよう。俺にはもう躊躇いはない。この世界を変えるためなら、その心身に深い傷を負わせることも俺は厭わない」
そして、ブラックはベリー銃の銃口をブルーへと向けたのだった。
私は凍り付いてしまった。兄の意図することが、すぐに理解できたのだ。彼は分かっている。私にとっての弱点が何なのか。手っ取り早く私を降参させる手段を知っているのだ。
今の私にとってわが身よりも大事なのがブルーなのだ。そのことを、兄は理解している。
彼は躊躇わないだろう。私が言うことを聞かないならば、本当に撃つつもりだ。
眠らせるだけだろうか。いや、そうではない。ではポイズンベリー弾で苦しめるつもりだろうか。私は怖かった。それすらも、運が良い場合だと感じてしまったのだ。
ひょっとしたらあの銃口から飛び出すのは、ベリー弾ではないかもしれない。命を奪うことに特化した鉛玉がブルー目掛けて飛び出すかもしれない。
息を飲む私を見つめ、ブラックは少しだけ微笑みを浮かべた。
「記憶していた通り、お前は優しい子だね、ラズ」
かつての兄によく似た声色で、ブラックは語り掛けてきた。
「ずっと心配してくれていることも、探してくれていることも、分かっていたとも。会いたいと何度も願ったし、お前の託した言葉に心が動かされそうになったことだってあったとも。だが、お前の愛を感じれば感じるほど、俺はむしろ前だけを見つめようとした。そして、ナイトメアたちに慕われるまでに、勇者の候補に近づけたんだ。あとは向かうだけだ。ラズ、分かってくれ。俺がいけば、皆助かる。それに、二度とこういうことが起きないようにできる」
「何をするつもりなの?」
訊ねる私に、ブラックは空虚な笑みと共に答えた。
「ベリーをなくすんだ」
その言葉に、ブルーも私も戸惑ってしまった。
ベリーをなくす。どうして信じられよう。ベリーのないドラゴンメイドだなんて。
じわじわとその意味を考え、恐ろしくなった。当たり前に享受しているベリーの恵みがなくなれば、世の中はきっと大混乱に陥るだろう。
そんな恐ろしい願いを抱えていたなんて。
「どうやってなくすつもりなんだい?」
アーノルドの問いに、ブラックはため息交じりに頷いた。
「たった一つの願いとして、俺はベリーの生まれる仕組みを閉ざす。ドラゴンメイドを滅ぼし、もう二度と目覚めないように願うんだ。そうなれば、この大地のベリーは生まれなくなる。その代わり、彼女の目覚めもなくなり、勇者も必要なくなる。素晴らしいじゃないか。もう誰も、別れを経験しなくて済むんだ」
ブラックの言葉に、アーノルドもまたため息交じりに答えた。
「ああ、そうだね。その通りだ。だが、そうなれば、これまでのような秩序は失われる。この国は他国と同じような環境になるだろう。すなわち、我々ワタリガラスはただの鳥と変わらなくなるし、多種多様な人間たちの中でも、ヒト族以外の種族たちは世代を重ねるごとにケモノと変わらなくなっていく。何故なら、我々が言葉を喋り、文明を共に築けている理由もまた、ベリーのもたらしてきた奇跡であるためだ」
冷静に語るアーノルドの言葉に、私は絶句してしまった。
本当の意味で、世界が変わってしまう。命は守られたとしても、秩序は乱れてしまうだろう。これまでの、当たり前がなくなってしまう。ベリーがない世界だなんて。
だが、ブラックは冷たい表情で頷いた。
「それでいいんだ。多くの種族がケモノになってしまったとしても、ヒト族の暮らしは変わらない。俺はそれでいいと思っている。いずれ人間のように暮らせなくなったとしても、彼らが滅ぶわけではない。それよりもベリーを巡って起こり得る争いや、目覚めに際しての勇者の犠牲をなくせる方がいいだろう」
「本気で言っているの?」
恐ろしくなって、私は訊ねた。
勇者の犠牲というものを肯定しているわけじゃない。けれど、だからと言ってベリーをなくしてしまうなんて。アーノルドのいうようなヒト族以外の全ての種族に影響するような願いが叶ったならば、ここは私の愛したドラゴンメイドではなくなってしまう。
そんな恐ろしい事を、どうして認めることが出来ようか。
「ドラゴンメイドに生まれ、ベリー売りになっておきながら、その破滅を願うなんて。本気で言っているの?」
震えながら訊ねると、ブラックもまた私に向かって問いかけてきた。
「お前こそ、本気で俺を止めたいのか?」
無表情のまま、彼は私を見つめてくる。
「ベリーがなくなれば、コヨーテは生まれない。コヨーテが生まれなければ、それを起因とした心の暴走はなくなる。覚えているだろう? 父さんがグリズリーに殺されたのも、コヨーテのせいなんだ。ベリーを巡って疑心暗鬼になってしまったグリズリーたちを煽動していた奴がいたんだ。ナイトメアを使い、今も人々とグリズリーの関係を悪くしていっている。それも、一人ではない。この国のあちこちにコヨーテはいる。その背景に、ベリーは必ずあるんだ」
私は黙って聞いていた。
グリズリーたちのことは、父がその犠牲となってしまったあの頃よりも分かっているつもりだ。彼らは人間を憎んでいる。その背景は複雑で、一口で説明できるものでもない。
いうなれば、ゴーストライクのグレート・アナコンダのメンバーのようなもの。そんな彼らを煽動している者こそがコヨーテで、その誕生には私利私欲が絡んでいる。この国の場合、そのほとんどはベリーにまつわるものだった。
元凶がなくなれば、というのが兄の考えなのだろう。
「ベリーがなくなれば、コヨーテなんて生まれない。愛に飢えた哀れな彼らは現れず、コヨーテも誕生しないんだ。そうなれば、父さんを奪ったものはこの世界からなくなる。それでもお前は素晴らしいと思わないのか? コヨーテを憎んでいたのは、他ならぬお前だったじゃないか。なあ、ラズ!」
強く呼びかけられ、私は動揺してしまった。
ブラックの目を見つめていると、昔の記憶が蘇ってきた。まだ幼く、殆ど覚えていないような時期の事。コヨーテにグリズリー。その単語に恐ろしいものを抱くより少し前の事。
我が家が今よりも明るくて、安心感も強かった時期の記憶だ。父の生きていたあの頃の光景が、鮮明に浮かんできた。




