4.コヨーテの試練
階段はしばらく続いた。先程までよりも長い段数を降りた気がする。辺りはさらに暗く感じ、生暖かさも増した。
そして時折、地震とも違う揺れを感じるようになった。何かとてつもなく大きな生き物の吐息――いや、寝息のようなものに思える。
揺れるたびに、ラズがそっと立ち止まり周囲を窺った。ボクもそれに倣い、じっと収まるのをまった。エニグマやナイトメアは全く気にしていないらしい。
いつものことなのだろうか。むしろ、怯えた様子のボクたちの反応を不思議がっているようだった。
歩みは進み、これまでにも通ってきたような広い場所に出た。
そこにも壁画はやっぱりある。ラズがベリーランプで照らすと、途端に二足歩行のオオカミのような生き物と目が合って、どきっとしてしまった。
まじまじと見つめ、少しだけ理解する。おそらくこれはオオカミじゃない。コヨーテだ。その証拠に、周囲にはエニグマやナイトメアたちがいた。コヨーテと思しきその獣の手には、ベリーらしきものが輝いていた。
「これは、聖なるコヨーテを描いたものだ」
アーノルドもまた壁画を見つめ、語りだす。
「絵の解説はまちまちで、コヨーテが人々に試練を貸そうとしている姿だとも、コヨーテの試練を受けた者が失敗し、自身もコヨーテになってしまった姿だとも言われている。いずれにせよ共通しているのは、コヨーテが人々を試す存在だという事だ。周囲にいるエニグマとナイトメアの生みの親だとも信じられている」
散々聞いた話でもある。怪人コヨーテが人々を混乱させ、エニグマやナイトメアを大量に生み出すきっかけを作るのだと。
たったひとりのハンチを育て、愛に飢えさせたまま放置するというのはバーナードの絵本にもあったけれど、そうでなくともコヨーテは、あらゆるお話を掻きまわす厄介ものだった。けれど、ボクは知っている。コヨーテというものは単なる悪役ではないことを。
アーノルドはボクたちに向かって話した。
「伝承によれば、コヨーテはドラゴンメイドの目覚めによる世界のリセットを望んでいるという。それを無理に止めてしまうのは自然への冒涜であるのだと。グリズリーたちの価値観は、彼の言葉に由来しているとも言われているね。ゆえに、コヨーテは勇者候補をとくに惑わそうとするのだという。そうして敗北した勇者は、時と場合により、自らもコヨーテになってしまい、勇者の資格を失うのだ」
誰しもコヨーテになり得る。
そんな話を何度も耳にした。悪い心というものは、誰にでも宿るものであり、決して他人事ではないのだと。だから、ボクたちは常に警戒し、心の中にコヨーテが入り込もうとするのを防がなくてはいけないのだと。
コヨーテは神聖な力で、ボクたちに教えてくれているのだ。自分の中に知らず知らずのうちに生まれた欲望や、本心を見つめさせ、悪意を自覚させるのだ。そう教えてくれたのは、群れの大人たちだった。
「コヨーテに憑かれやすいのは、自分だけはそうならないと固く思いこむ者だと言われているよ」
アーノルドは言った。
「何か自分にとって思い通りに事が運ばなかったり、自分では納得のいかない行動をする者や同じ価値観を持たぬ者に出会ったりしたとき、我々はついつい憤ったり、嘲ったりしてしまうものだ。これもまた、コヨーテの侵入だと言われている。早めに気づけば、すぐに帰ってもらうことは出来るが、気づかないままだと悪化してしまう。そして、コヨーテに居座られた者は、やがて自らもコヨーテになってしまうのだ」
そして、アーノルドは部屋を見渡した。とても微かではあるけれど、寝息が聞こえる。もしくは、大きな生き物のうめき声にも聞こえる。この先に何かがいる。それを示しているような声に、ボクはぞっとしてしまった。
その覚悟は本物なのか。
ラズがここへ足を踏み入れる時、飛び込んできたのはとっさの事でもあった。理由なんて後付けで、とにかくラズと離れたくない一心だった。
けれど、足を踏み入れた今、ボクは覚悟を決めなくてはいけない。この先へ向かうことの意味、ラズについて行くことの意味をよく理解していないといけない。
誰しもコヨーテになってしまう可能性がある。そのことを、その意味を、ちゃんと分かっていないと。
この先、万が一にでも、ラズとの別れがあった時に、ボク自身がコヨーテになってしまわないために。
「あと少しだ」
アーノルドが階段の先を見つめながら呟いた。
「ブラック君も扉の前で待っている。ドラゴンメイドの選択がどちらに傾いたとしても、後悔はしないと言えるならば、階段の先へ進みなさい」
アーノルドの言葉に、ラズは頷き、あっさりと歩みだした。ボクもその後に続く。エニグマやナイトメアたちと共に、ボクたちはさらに深い闇黒の先へと降りて行く。
この先で、ブラックは待っているのだ。誰が選ばれたとしても、ボクの望むような未来――マルがいつか見てくれた未来はもう実現しないのかもしれない。
それでも、ボクは決めている。ラズがもしもドラゴンメイドの夢の中を歩むならば、ボクもすぐ傍で眠り、共に歩みたいと。
だが、口では簡単に言えても、心身は震えている。
まるで崖から飛び降りなくてはいけないような気持ちだ。ボクは何度も深呼吸をして、ラズの後を追いかけた。ラズはどんな気持ちで歩いているのだろう。
アーノルドを肩に乗せ、淡々と進んでいく彼女の姿は、いつも以上に冷静で、落ち着いているようにも見えた。




