9.思わぬ来店
読み終わって絵本を閉じると、ブルーは考え込むような表情を見せた。
その顔を覗き込むと青い目と視線が合って、はっと我に返ったようすで耳をぴんと立てた。そして尻尾を振りながら彼はその口を開いた。
「ハンチが幸せになって良かったね」
「そうね」
絵本を抱えながら、私は静かに笑った。
この本の感想は人それぞれだ。
名作として売り出されてはいるが、人によっては駄作だと評価されることもあるらしい。多くの注目はハンチに集まる、というのは、これを買ったグラスホッパーの酒場で小耳に挟んだ話だ。タイトルページの罪のないクマたちを混乱させたハンチが、何のお咎めもなく幸せになることに疑問を抱く人も少なくないらしい。
私としては単純な性分な上に、トワイライト出身なものだから、同じ郷里のベリー売りが活躍するというだけで嬉しくなってしまうのだけれど、人の数だけ感想があるということなのだろう。とはいえ、大多数はこの話を好意的にとらえているようで、作者のバーナードの注目度もあがったらしい。
話もさながら、とても繊細で優しい雰囲気の画風も好まれている理由のひとつだ。
ベリー売りやクマたちはもちろん、ナイトメアもエニグマも、コヨーテまでもが愛らしく描かれている。アートとしても好まれているこの絵本は、旅の荷物になったとしても、やはり買ってよかったと思える一冊だった。
そんな絵本をどうやらブルーは気に入ってくれたらしい。表紙に描かれたベリー売りとハンチの姿を見つめ、尻尾を何度も振っていた。そして、木陰からにやりと笑うコヨーテの存在に気づくと、またしても不思議そうに首を傾げた。
「ねえ、ラズ。どうしてコヨーテって悪さをするんだろう?」
「うーん……どうしてかしら。他人を惑わすコヨーテっていうのは、コヨーテ族とは限らないそうよ。この絵本の後書きにもあるのだけれどね、昨日まで普通の人だったのにいきなりこの絵本のコヨーテのようになってしまうこともあるのですって」
「どうしてそうなっちゃうんだろう。ボク、そこがとても怖い」
「どうして……なのでしょうね。この絵本に限らず、人々の暮らしを混乱させるコヨーテの話はいっぱいあるの。ブルーはそういう話を聞いたことなかった?」
訊ねてみると、ブルーは耳を倒しながら答えた。
「思い出せないや。お祖母ちゃんもお母さんもいっぱいお話してくれたからね。でも、そういえば、確かにコヨーテってそういう奴らばっかりだったかも? ……よく分からないけれど、昔から語られているってことは、昔からそういうひとたちがいっぱいいたってことなのかな?」
「よく分からないけれど、そういうことなのかもしれないわね」
私はそっと同意して、絵本を鞄の中にしまい込んだ。そろそろ良い頃合いだ。急がなくては日が暮れて、クランのおへそが曲がってしまう。
絵本を読んで気分転換になったのか、私もブルーも足取りは軽く、バーナードが暮らしているという家へと向かうことが出来たのだった。
しかし、いくらドアベルを鳴らしてみても、バーナードは出てこなかった。
不在のようだ。結局、無駄足になってしまった。待てども待てども帰って来る気配はない。ここは出直してくる他ないだろう。
「また別の日に来るしかないわね」
がっかりしながらそう言って、私たちはクランの待つベリー市場へと歩き出した。
「残念だったね」
道すがら、ブルーは声をかけてきた。
「ボク、バーナードさんに会えたら絵本の感想を言おうと思っていたのに」
「あら、そうなの? なんだか気になるわね。なんて伝えるつもりだったの?」
好奇心のままに訊ねてみれば、ブルーは恥ずかしそうに尻尾を振った。
「ええ、なんだか恥ずかしいなあ。……でも、ラズになら教えちゃう!」
「光栄だわ」
「えへへ。あのね。コヨーテはとても怖かったし、ナイトメアも怖かった。クマのひとたちがケンカするのもね。でも、ナイトメアたちも悩んでいたんだって分かって、それがベリー売りさんのおかげで全部解決して本当によかったなって思った。タイトルページのクマたちも元通りになれたし、ハンチも幸せになれてよかった」
ブルーはそう言って、くすぐったそうに笑った。
「あとね。なんだか、そのベリー売りがラズで、ハンチがボクみたいって思っちゃった。どんな旅をしていたのかは分からないけれど、これから先、ラズと一緒にベリー売りとハンチみたいな楽しい旅が出来たらいいなって」
「ブルー……」
思わず私は足を止め、ブルーと目を合わせてしまった。無邪気に尻尾を振る彼は、あまりにも可愛すぎる。ブルーは照れ臭そうに笑い、私の目を見つめてきた。
「ありがとう。私も、ブルーと一緒にハンチとベリー売りみたいな旅をしてみたいわ」
そうなると、わくわくした楽しい気持ちでいっぱいになった。
バーナードと会えなかった残念な気持ちも少しはマシになるというものだ。
ブルーの率直な感想ならばバーナードも喜んでくれるのではないだろうか。能天気にもそんなことを思ってしまった。何にせよ、また明日か明後日、クランにお願いして店番を頼んで訪ねにいこう。
そんなことを考えながら、私はブルーと一緒にベリー市場へと戻ったのだった。
店にお客がいることはすぐに気づいた。私とクランの共有のお店の前で、山のように大きな背中をしたクマ族の男性が座っていたからだ。
男性はクマ族らしい黒い毛並みだが、それにしても大柄だった。まるでグリズリーのような……と、その姿に圧倒されていると、クランが私に気づいて手を振ってきた。
「あ、帰ってきたみたいです。おおい、ラズ!」
クランの言葉に、客人が振り返る。その姿はまさにクマそのものだ。服を着ているが、森で出くわすグリズリーにしか見えない。黒い体毛だけれど、もしかしたら近い先祖にグリズリーがいるのではないだろうか。
私は息を飲んで店に近づいた。ブルーも心なしか心配そうに付き添ってくれている。彼の存在に勇気を貰いながら客人の前に立ってお辞儀をすると、彼もまた立ち上がって頭に乗っていた小さな帽子を脱いだ。遥か頭上より見下ろされると、さらに緊張は強まった。こんなに立派な体格をしたクマ族は初めてだった。
恐怖を必死に誤魔化しながらクランの横へと回り込むと、彼はそっと耳打ちしてくれた。
「サイコベリーとフォースベリーが一つずつだってさ。どちらも俺の分は在庫を切らしちゃっててさ、ラズの分は勝手に売り払えないってんで待っていたところなのさ」
「サイコベリーとフォースベリーが一つずつね」
すぐに一個ずつケースから取り出すと、客人の前に並べてみせた。
青く輝くサイコベリーに、黄色く輝くフォースベリー。どちらもブロンズ級でぎりぎり扱えるベリーだ。売買には公認ベリー売りの許可が必要で、かつ、正当な所有者によるものでなければいけないとベリー法で定められている。
「お待たせいたしました。どちらも署名をしていただくことになります。ご購入は初めてでしょうか?」
問いかけると、客人はゆっくりと椅子に座り、大きな手でベリーに触れた。
「ああ……サイコベリーは前にも何度か。でも、フォースベリーは初めてです」
「そうですか。ではまず、サイコベリーの方から手続きしましょう。こちらにサインをいただけますか?」
そう言って、書類とかぎ爪専用ペンを素早く取り出して客人に渡した。クマ族のように長い爪をした人間向けのペンである。それをどうにか器用に握り締め、客人は慣れた様子でサイコベリーの売買契約書に理由を書き、サインをした。
理由は実にシンプルだった。仕事のため。職業は作家だという。作家に限らず、クリエイティブな仕事をしている人間の多くが、サイコベリーを同じような理由で購入する。
サイコベリーにはリラックス効果がある。長時間、部屋に閉じこもりがちで作業をするような仕事で、知らず知らずのうちにためた心理的負担を解消するのに効果的とされているためだ。
かつて、このベリーは糸紡ぎの蜘蛛の実と呼ばれていた。このベリーの力を借りれば、蜘蛛が見事な巣をつくるようにあらゆる創造の力が手に入るのだと先住民たちを中心に信じられていたという。しかし、時代を経てそれは迷信に過ぎないとされはじめている。このベリーにおけるリラックス効果こそが、もともと才能のある人々の想像力を豊かにしているに過ぎないというのが、最新の研究での結論だった。
いずれにせよ、サイコベリーが大活躍していることには変わりはない。アイデアがひとりでに湧いてくるような驚くほど不思議な力がなかったとしても、ストレスを解消させるという効果は現代のドラゴンメイド人には有難いものであるからだ。やや高額で、面倒な手続きがあったとしても、タイトルページの作家たちによく売れるのは公認ベリー売りの常識でもあるので、ここに来るまでにたくさん用意しておいたのだ。
それにしても、作家とは。いかにもタイトルページらしいお客だ。
私は何気なく客人の筆の進みを見つめていた。客は理由を書き終え、項目を読み、最後にその名前を記していく。
バーナード=ブラック。
その綴りが目に入ったとき、私はぽかんとしてしまった。
いまも鞄の中に入っている絵本。『トワイライトから来たベリー売り』の作者の名前と全く同じであることにじわじわと気づいて、私は思わず声をあげてしまった。
「バーナード=ブラックさん?」
私の声にバーナードもまた驚いたように顔をあげた。クマ特有の円らな瞳がこちらを見つめてくる。私は慌てて鞄から絵本を取り出した。
「も、もしかして、この絵本の作者のバーナードさんですか?」
すると、バーナードははにかむように口元に笑みを浮かべた。
「あ、はい。確かにボクの本です。本物のベリー売りさんにもお読みいただいているなんて、ちょっと恥ずかしいけれど嬉しいですね。ありがとうございます」
私は興奮を抑えきれずにいた。
まさか訪ねにいった相手がこの店にやってくるなんて。偶然に感謝しながら、私は咳払いをしてバーナードさんに問いかけた。
「あ、あの。実は私、あなたにお訊ねしたいことが――」
「ラズ」
とそこへ、別の咳払いが聞こえてきた。クランである。
「まずはお会計」
こればかりは、ごもっともだった。




