2.兄を名乗る者
グラスホッパーで滞在する宿は、博士がアフタヌーンから手配してくれた場所だ。いつもお世話になるところよりもワンランク上の宿で、宿泊費が高い分のサービスが整っている。
サンライズでしばらくお世話になったクラウド家の豪邸に比べたら、まだ親しみ深い方ではあるけれど、知らなかった贅沢をうっかり知ってしまった時のような、後戻りのできないような心地よさがあり、逆に怖くなってしまった。
真に怖いのはベッドで眠る事だ。ブルーと一緒に旅をするようになって、度々、ちょっとした贅沢で評判の良い宿を利用することはあったけれど、これまで眠ってきたベッドと比べても寝心地の良さそうな手触りをしていたのだ。
もしもこの心地良さに慣れてしまったら、後々、くたびれた毛布にくるまって眠ることがさぞかし苦痛になるだろう。
そんな期待と不安がぐちゃぐちゃに溶け合った気持ちと共に、私たちは宿に戻った。と、そこで、ワピチ族の受付担当より言伝を貰ったのだ。
「サンドストームから、ですか?」
問い返すと、彼女は少々不審そうな表情で頷いた。
「はい。お客様のお兄さまを名乗る方でしたが……その、あまり似ていらっしゃらない方で……とにかく、店内の喫茶店をご案内しております。宿泊手続きもついでにと思ったのですが、どうやら同室をご希望なさっていらっしゃるようで」
「私たちと、ですか」
問い返し、私は首を傾げた。
兄を名乗る者。そう言われて私が思い浮かぶ相手は二人だ。いや、兄はひとりなのだが、しつこいまでに兄を騙るファミリーのことを忘れてはならない。
カシスとグロゼイユには兄という存在はいないようだし、ブルーの親族が宿を利用するとは思えない。全くの他人の悪戯であるという可能性を無視するならば、クランか、もしくはブラックということになるだろう。
どちらの可能性もあるけれど、私はそわそわしてしまった。もしも、ブラックだったとしたら。そう思うと、居ても立ってもいられなかった。
「もしも、ご確認が出来た時は、改めてご一緒にいらしてください。その際に、ご必要でしたら、お手続きいたしますよ」
ワピチ族の受付に、私はそっと礼を言った。
さっそくブルーと、カシスとグロゼイユも連れて、私の兄を名乗る者が案内されているという喫茶店へと向かう。時間のこともあって客入りはまあまあだが、ステージがあり、カメレオンのピアニストによってしっとりとした曲が演奏されている。その雰囲気は異様にムードがあり、一応はまだ子どもであるカシスとグロゼイユを連れて入店していいものか一瞬迷ってしまう場所だった。セクシーすぎる踊り子が見当たらないことは幸いだ。
さっそく店内を見渡してみれば、隅っこでニヒルな笑みを浮かべながらグラスを傾ける男が一人。ブラックではなく、兄を騙る者だった。
「クラン」
私よりも先にブルーが近寄っていく。
クランはようやく気付き、片手をあげた。相変わらずのキツネの姿。悲しいけれど受付が不審がるのも当然といえば当然なのかもしれない。
カシスとグロゼイユを引き連れて、私もまた彼の座っている席へと座り込んだ。
「どうしたの、クラン。モーニングにいたんじゃなかったの?」
心配になって小声で訊ねると、クランはやけに高揚した声で答えた。
「それがさぁ、聞いてよ、ラズ。急に色々変わっちゃってね。いやあ、ワタリガラスの一族の長老方って気まぐれさんなのかなぁって、ひゃひゃ」
「ちょっと、酔っ払っているの?」
肩をパシパシ叩きながら、私は彼に問いただす。
「クラン、このまま酔いつぶれるのは勘弁してよね。明日には私たち、霊廟に行かなきゃいけないんだから」
「知ってる知ってるー。ホワイトバイソンだろう? だから、俺も一緒にーって思ったのによ。なあ、ブルー。世間はキツネに冷たすぎる! もっと優しくしろーい!」
大声をあげるクランに、私はぎょっとしてしまった。
待っている間にきっと数杯は飲んだのだろう。よく見れば、キツネ族やキツネ化症候群が大好きなフォクシーベリーが入っているらしい。
イタチ族の店主がやけにニヤニヤしながら、開いたグラスとお皿を片付けに来た。
「お客さん陽気になってきたねえ。そうそ、世間はちょっとズレたものに冷たすぎる! 堅苦しい世の中なんて酒で流しちまいたいってね。お嬢さんもちょびっと飲んでいかれませんか? おチビちゃんたちとワンちゃんには……美味しいジュースで」
「あ、あの、私もジュースでお願いします!」
ここで予定が狂うのは勘弁願いたいところだ。
いつもならばクランが二日酔いで苦しむのは自業自得だけれど、何故ここへ来たのかという理由を少しでも考えるならば、今回に限っては自業自得で片付けてしまうのはちょっと怖かった。
「全く、クランったら」
呆れていると、クランは隣で急に嗚咽を漏らしだした。
「え、クラン、泣いているの? 一体どうしちゃったのよ」
「だってさぁ、俺、ちゃんとケネス博士の裏書とか持ってきてんのよ。身分証になるやつ。それなのに、あの受付の姉ちゃん、俺の顔見るなり、キツネ族の方ですかーて。キツネ化症候群なだけでヒト族ですがって言ってやったのにさ、防犯の為にあとで妹さんと一緒に来てくださいってさぁ」
「それは同じ部屋を希望したからでしょう? 別にクランのことを特別に不審がったってわけじゃないと思うわよ」
「でもさあ、こういう事ばっかだったんだぜ? モーニングからサンドストーム。サンドストームからアフタヌーン。アフタヌーンからグラスホッパー。何か知んないけど、最近、世間でキツネに関するデマ? そういうのが流れているらしくて、俺がキツネってだけで犯罪者を見るような目で見つめてくんの。ヒト族の見た目の時は快適に旅してきたのにさぁ。俺がただキツネだからって疑いやがってさあ」
泣き上戸になる彼の姿に、カシスとグロゼイユは困惑した表情を見せていた。
恐らく、大人がこんなに駄目になる姿を初めて見たのだろう。カラント博士やラブ博士がこういう姿を見せるとは到底思えない。私も見せたくなかった。よりによって身内の姿というのが恥ずかしかった。
「分かったから。そろそろ落ち着いてよ、クラン。ここに来たのも理由があったからなんでしょう? ワタリガラスの一族の人たちが何だって?」
必死に問いかけると、クランは何度も頷き、キツネの顔に愉快な笑みを浮かべながら答えた。
「あのねえ、ラズちゃん。クランお兄ちゃんはねぇ、やっぱりあれだよ。あれ。ブラックの野郎は許せねえ。うん、許しちゃいかんよ、あれは。むにゃむにゃ」
「え、ちょっ――」
願い虚しく、キツネの尻尾はだらりと垂れた。
水色の目は瞼で隠され、両耳は赤毛に隠される形で力を失っていく。いびきをかき始める彼の姿に放心していると、ブルーが鼻先を近づけ、何度かニオイを嗅いでから呟くように言った。
「眠っちゃったみたい」
そうみたい。
力が抜けて、私はソファに寄り掛かった。
しっとりとしたカメレオンのピアノが心に沁みる。運ばれてきた飲み物を前に放心していると、カシスとグロゼイユがそっと飲んでいいか訊ねてきた。黙ってそれに頷いて、私も自分の頼んだトマトジュースに手を伸ばし、飲んでみる。
しっかりとアルコールが入っていた。




