6.聖熊ベネディクト
小鳥たちの世間話が盛り上がりだす早朝、私とブルーは宿を飛び出しタイトルページの町へと向かった。
タイトルページの朝支度は他の地域よりやや遅い。それでも、ベリー市場を除いた市場の朝は他の地域同様早く、魚介類や青果、肉類や花といった生ものを求めて住人たちが多数買い物に出ていた。
いつもならば宿の料理を頂くので行かなくてもいいのだが、本日は人探しということでそういった場所にも訪れた。けれど、いざ行ってみれば皆が忙しそうで訊ねる暇もない。
仕方ないので落ち着くまで、ブルーに町という場所を紹介する散歩に切り替えた。当初の目的とは違うけれど、これはこれでいつかしようと思っていたことだ。
タイトルページの住人の半数はクマ族なので、町の施設は大柄なクマ族たちに合わせて作ってあるし、穏やかな人物が多い。けれど、それでも、クマ族が集うと迫力があるものだし、道もあっという間に塞がってしまう。こういった光景はタイトルページならではなので、いい加減に旅慣れしてきた私であっても、眺めているだけで風情はあった。
ちょっと怖いと思ってしまうのは、何らかのトラブルでクマ族同士が口喧嘩をしている場面に遭遇した時だ。いくら人間のクマ族が知性的で穏やかであっても、その長い爪と牙、巨体から繰り出される強烈なパンチ力など、一つ一つが驚異的だと思うと、どうしても、亡き父のことを思い出してしまう。
人間のクマ族でさえそうなのだ。
ましてやグリズリーだなんて。
実を言うと、クランに反対されなくとも、私もまた気が重たいところがあった。
絵本作家のバーナード。代表作の『トワイライトから来たベリー売り』は、トワイライト出身のベリー売りである私から見て、大変良いお話だった。
しかし、グリズリーの血を引いていることから始まる作者に関する嘘か本当かもわからない噂の数々は、丸のみにするまいと思ってはいても、やっぱり気にしてしまう話ばかりだった。
でも、そういう時、私は母方の祖母の話を思い出すことにしていた。
トワイライトの家で病弱な母としっかり者の姉――ついでに犬のサンと猫のデュー――と一緒に私たちの帰りを待っている祖母は、ドラゴンメイドに伝わる昔話にとても詳しかった。建国のお話や建国後のお話は勿論、建国前に先住民たちが語り継いだというお話もよく知っていて、幼い頃から私たちに聞かせてくれたものだった。
中でもよく聞かせてくれたのが、ドラゴンメイドの主要町に伝わる賢人たちの伝説だった。その中の一つが聖熊ベネディクトの伝説である。
私とブルーはタイトルページの大広場へ訪れた。
朝の忙しさが少し落ち着くと、そこでのんびり過ごす人たちの姿も見られるようになる。そこには噴水があって、その中央にはベネディクトを模した銅像が建立されている。グリズリーかと見まがう大きくて逞しいクマだが、その表情はとても穏やかだった。
「このひとが、聖熊ベネディクト?」
ブルーの問いに、私は頷いた。
「そうよ。かつてドラゴンメイドが今よりも小さな国だった時代、この大地の危機を救ってくれた勇者がいたの。その勇者にクマの王様として協力したというのが、ベネディクトよ。力が自慢だったけれどそれでいて慈愛に満ちていて、愛と正義について説きながらクマとクマ以外の者たちとの交流を深めていたのですって。勇者に協力した以外にも、先住民の多くと移民との関係を取り持ってくれたそうよ」
その昔、ベネディクトは若き勇者に説いたという。
『悪は必ずしも初めから悪として生まれるわけではない。生まれながらに引き継いだ血がその性質を決めるのはほんの僅かに過ぎない。人々の営みに対立がある限り、ナイトメアの種はそこらにばらまかれ、時に理不尽なまでに人を襲うだろう。
そんな時、絶望から人々を救うのが誰かの愛と正義である。力を持つ者。力を操る者。その力で世界を救いたいならば、とくに覚えておきなさい』
祖母の語る話はやや難しく、幼い私はあまり理解できていなかった。
悪い人は最初から悪い人だったように思えてしまうし、その悪意が向けられれば背景なんて考えられる余裕もない。父を奪ったグリズリーがどうして狂ってしまったのかを知ったところで、そのグリズリーを許すなんてことはきっとできないだろうから。
それでも、ベネディクトの話は私の心に深く住み着いていた。
人々を惑わし、騒動を煽動する悪人のことをこの国ではコヨーテと呼ぶけれど、全てのコヨーテやコヨーテ族がそういう性格であるわけではないように、全てのグリズリーが父を殺した者のように乱暴なわけではない。
そう何度も自分に言い聞かせるたびに、私はベネディクトの話を思い出した。
凶暴なクマもいれば、慈愛に満ちたクマもいるのだと。
「ベネディクトか」
ブルーは呟きながら大きなクマの像を見上げていた。
「人間に愛を説くクマの長。そっか……ボク、この話知っているよ。お母さんだったか、お祖母ちゃんだったか、それともお姉さんだったかな……とにかく小さい頃に聞いたことがあるのを思い出した」
「マヒンガの伝承?」
私はブルーに訊ねてみた。
「どんなお話だった?」
「似たようなお話だったよ。でも、ベネディクトって名前じゃなかったかも。愛を知るクマの長とだけ言われていた。相手は勇者じゃなくて竜の恋人だったかも。眠っている竜母の元に向かおうとする人間の青年に、愛の大切さを教えるの。ベネディクトのお話とはちょっと違うかもしれないけどとても似ているから同じお話かもって」
「そうなんだ。たしかに同じお話かもしれないわね」
勇者であれ、恋人であれ、ある人物にベネディクトらしきクマが愛を説いた。類似した話はいっぱい残っていて、そのどれにもズレがある。トワイライトで祖母が語ったベネディクトのお話も、タイトルページで目にしたベネディクトの逸話とはちょっとしたズレがあった。口伝なんてそんなものだ。時代や語る人の価値観が入り込むものなのだろう。
だからこそ、タイトルページでは文字が重要だった。
ベネディクトはたくさん言葉を残していたし、愛を広めるためには身一つでは足りない。とくに彼の人柄に惚れた移民たちはその言葉を出来るだけ正確に伝えるために、タイトルページを本の町にしてしまったのだ。
こうして今ではたくさんの本が生まれる場所になった。
多くの表紙の生まれる町として成長し続けて、ドラゴンメイドだけでなく異国からもさまざまな作家がやってくるほどの地域になった。
フィクションも、ノンフィクションも、タイトルページから発信されていく。文字で大勢に何かを伝えたい人はもちろん、頁をめくることに取りつかれている人もまた、誰もが一度は憧れる本の聖地とまで呼ばれている。
そして、ここで誕生した名作の一つが『トワイライトから来たベリー売り』だったわけだ。グリズリーの血を引くというバーナードの作品。いったいどんな人物なのだろう。
期待と不安の入り乱れる中で、私はブルーと一緒にしばしベネディクトの像を見上げた。
彼が愛を説いた時代、シュシュとグリズリーの差は曖昧だったという。それが本当なら、必要以上に怖がることはないだろう。
あまり緊張は薄れなかったが、私たちは気を取り直してバーナード探しを再開した。