5.不機嫌な弟
首輪をつけたブルーを前にクランは頬杖を突いていた。もしも彼に尻尾があったなら、苛立った猫のようにぶんぶん振り回していただろう。そのくらい、クランの不機嫌は伝わってきた。
私は隣に座りながら、そんな弟を何度も宥めたのだった。
「もういいじゃない。クランが面倒を見るわけじゃないのよ。お金だって出さなくていいし、お世話だってしなくていい。私のパートナーなんだから」
「へん!」
するとクランは鼻息を荒くして、今度は腕を組んでブルーを睨みつけた。
可哀想なブルーは耳を伏せて上目遣いでクランを見つめている。家族になったというのに、さっそくいびられるなんて思いもしなかっただろう。
「もう、クランったら。小舅じゃないんだから睨みつけるのはやめてよね」
「小舅だって? 冗談でもそういう例えはするんじゃない! とにかく気に入らない。気に入らないったら気に入らない!」
「面倒臭い人ね。ブルーが可哀想でしょう。何が気に入らないのよ」
呆れながら訊ねると、クランは頭を掻きながら考え込んだ。
「それは……えっと……――あ、そうだ! なんでオオカミなのに犬登録なんだよ!」
「獣医さんが認めてくれたからよ。マヒンガだろうと健康と気性が良ければ問題ないんですって。そう違いもないっていうし」
「く……。い、いや、そんなの適当過ぎる。そうだ。役場が適当過ぎるよ! どうして人間の言葉を喋るのに犬登録なんだ? いくらマヒンガでも失礼すぎるだろう!」
「あのクランさん」
そこへブルーが口を挟んだ。
「ボク、別に気にしていないです」
「うるさい、おだまり!」
「ひゃん!」
噛みつかんばかりの怒声に、ブルーはすっかり委縮してしまった。
可哀想に。どっちが猛犬注意か分からない。
ともかく、クランの不機嫌はなかなか治らなかった。オレンジ色の髪をかき上げながら、澄み渡った昼空のような目は赤くないのが不思議なくらいメラメラと輝いている。
感情的になりやすいクランの性格は、ずいぶん前に亡くなった父方の祖母にそっくりなのだという。赤毛に水色の目の印象的な人で、東の大陸でこっそり魔術を使っていた魔女の家系といわれていたのだとか。
本当かどうかは分からないけれど、もし本当に魔女だったのなら、喋るオオカミくらい祖母なら手懐けただろうに、クランはなかなか向き合ってくれなかった。
「なんでそんなにブルーを嫌うの。いい子なのになあ」
隣で文句を言うと、クランはキッと私を睨みつけてきた。
「妹の心配をするのが兄の務めだからだ!」
「またそれ? もう私もあなたも子どもじゃないんだから、そろそろ姉妹離れしてくれないと困るわ」
「し、姉妹離れだと……こいつめ……」
歯ぎしりをするクランを、私は軽く揶揄ってやった。
「悔しかったら、私の納得するような文句の一つでも言ってみなさいよ」
安い挑発だったが、クランはあっさりと食いついてきた。こういうちょろさは幼い頃からちっとも変わらない。
クランは云々と考えた挙句、ブルーを指さした。
「なんでブルーなのに赤い首輪なんだよっ!」
その勢いづいたひと言を受けて、ブルーは首をかしげてしまった。
さんざん考えて出てきたのがそれ、なんていう冷たい言葉はひっこめた。クラン自身の表情を見ていれば、どちらに分があったかなんてすぐに分かった。クランはそれっきり口を閉ざすと、私からもブルーからも目を逸らし、無言で人の流れを見始めてしまった。
そして喧騒だけが流れてしばらく。タイミングを見計らっていたのか、クランはぽつりと呟いた。
「ま、まあ、俺も赤ずきんと赤い首輪でお揃いなのは、統一感あって悪くないんじゃないかなって思うけどさ」
頭を掻いて視線を逸らす。その仕草は彼なりの降参の意味でもあった。
勝負はついた。
私は満足してブルーにお菓子をあげた。勝利のお菓子だ。心配そうに私たちを見つめていたブルーだったが、突然のお菓子は嬉しかったようで、気兼ねなく食べ始めた。こうしていると飼い犬となんら変わらないブルーの姿を横目で見ると、クランもようやく気持ちが落ち着いたのか、それ以上はブルーに関して文句を言わなくなっていた。
だが、クランの面倒臭さがいきなり改善されたわけではない。彼は軽く舌打ちをしてから私に向かって言った。
「しょうがない。そのワンコロは認めてやるよ」
「別に認めてもらう必要なんてなかったんだけど、まあいいわ。ありがと」
「それはそうとして、話を戻そうかラズ」
「話……?」
問い返すと、クランはごんと商品棚を叩いた。
「グリズリー案件だよ!」
「あ……」
絵本作家のバーナードである。
忘れていた、というか、反対されていることを忘れていた。これ以上話したところで平行線だ。彼が何と言おうと明日か明後日は丸一日を使って有名作家を訪ねるつもりだったし、店番してもらえなかったらもらえなかったで店休するまでなので問題なかった。
しかし、クランの方は問題大有りのままらしく、議論は再び強制的に始まったのだった。
「何度も言っているでしょう。もう決まったことなの。それに、本当にグリズリーかどうかは会ってみないと分からないじゃない」
「会ってみてからじゃ遅い! パクっと食べられたりでもしたら」
「大袈裟だし失礼な人ね。長い間、人間の町で人間として暮らしている人がそんなことすると思う?」
「そういう事件だってたまにはあるだろう、このお気楽人間!」
まあ、善人のふりをしない悪人なんていないことは分かっている。ベリー銃に頼って危機を回避したことは何度かあるけれど、その際も初めから悪人の顔を晒していた悪人なんていなかったものだ。
とはいえ、最初から疑いすぎるのもどうなのだろう。もしもの時の為にベリー銃はあるわけだし、使わないで済む可能性だって当然あるわけで。しかし、クランときたら初めからバーナードのことをグリズリーだと思い込み、かつ、グリズリーは人間を食べると信じ込んでいるようだった。
困ったものだ。何て言えばいいのだろう。そう思いながら考え込んでいると、お菓子を食べ終わったブルーが不思議そうに私たちを見上げてきた。
「ねえ、グリズリーって言った?」
小声で彼は問いかけてきた。
「人間の町にもグリズリーが住んでいるの?」
私はブルーの頭を撫でながら、そっと答えた。
「あくまでも噂だけれどね。人間のクマ族はシュシュと呼ばれていたらしいのだけれど、伝説によれば、シュシュとグリズリーはもともと同じ一族だったそうよ。だから、滅多にないことではあるけれど、クマ族の中に片親がグリズリーだという子が生まれることもあるのですって。……そういえば、グリズリーともお話をするってブルーは言っていたわね」
「うん。グリズリーも言葉を話すからね。森には乱暴なひともいたけれど、大抵は面倒なトラブルなんて避けたいから、お互いに気を使って誤解のないようにしていたよ。一匹だけでもオオカミとは喧嘩したくないんだって」
ブルーはそう言って、あ、と思いついたように私たちに向かって提案した。
「あのさ、もしよかったら、ボクがラズの護衛をしようか。ベリーロードを一緒に歩いたようにさ。そしたら、万が一、そのひとが悪い人だったとしても、ケンカにはならないかもしれないよ?」
そう言って胸を張るブルーを前に、私とクランは思わず顔を見合わせてしまった。
「ワンコロ、お前がかぁ?」
そう言ってクランは立ち上がり、ブルーの傍へと近寄っていった。品定めをするようにブルーの姿を見つめ、太い脚と牙を見ると、厳しい口調で命令した。
「気をつけ!」
きりっと耳を伸ばしてブルーは座った。足を揃え、背筋を伸ばし、そうしていると軍用犬や猟犬のような迫力があった。それもそうだ。オオカミなのだから。クランはふむふむと肯き、ブルーを正面から見つめた。
「もっとキリッと。厳しい眼差しで」
「こうかな?」
逞しい犬のような表情をするブルーに、クランは渋い声で頷いた。
「まあ、さすがに様にはなるかもしれんね」
そうして、クランは席に戻ると、深く息を吐いてから私に向かって告げた。
「仕方ないな、行ってこいよ。バーナードだかベルナルドだか知らんが、さっさと行ってあの親不孝男の情報でも掴んで来いってんだ。一日でも二日でも店番は俺がしてやらぁ。ただし、夕方までには帰ってくるんだぞ、いいな?」
口は悪いし、面倒臭い。父親気取りの弟だが、それでも私は笑ってしまった。
いつもクランはこうなのだ。私がベリー売りになるときも、旅をすると決めたときも、いつも彼は反対し、そして最終的には認めてくれた。そのやり取りは煩わしいことがあるけれど、どれもこれも情の裏返し。理解し、認めてくれた後は、それなりにサポートしてくれる本当は優しい弟なのだ。
クセのある家族愛を受け取りながら、私は彼に小さく言った。
「ありがとう、クラン。助かるわ。お礼にタイトルページのクマ印ホットサンドを買ってきてあげる」
すると、クランは恥ずかしそうに顔を背け、「別にいいけど。チョコレート味な」と小さく答えたのだった。