1.猫たちの誘惑
サンドストーム。そこは、猫に支配された町である。
役場での全ての手続きを終えた私たちが感じたのは恐らく同じもの。
視線。視線。そして視線。ネコ系住民たちと一緒に当然のごとく暮らしているケモノのネコ――ナジャたちの好奇心いっぱいの視線である。
それを一身に受けていたのは誰かと言えば、私でもなければクランでもない。ブルーだった。
「何だかドキドキしちゃった」
役場を出るなり、ブルーは小声でそう言った。
心なしか動きがぎこちなく、背筋もピンと伸びているように思う。役場で屯していた十数匹ものナジャたちに見つめられていたのだから緊張するのも当然だろう。
ただのイヌならば、ここまで見つめられることはなかっただろうと思う。特に愛玩動物の登録をする支所ならば尚更のこと。しかし、ブルーは何処からどう見てもオオカミだ。それを隠せない以上、ありとあらゆるイヌやネコを見慣れてきたナジャたちであっても、やはり驚いたらしい。
あるナジャは、好奇心で目を輝かせながらブルーに近づいてきたらしい。私とクランが受付でネコ化したヒト族女性と雑談交じりに手続きをしていた間の事だ。ブルーに近づいてきたのは一匹の白猫だった。何処からどう見てもただのネコに見えたが、その表情はこれまで見かけたケモノのネコたちに比べて実に人間的で、振る舞いもまたケモノらしくはなかったらしい。
彼女はするりとブルーの身体に尻尾を巻き付け、身体をこすりつけると、目を輝かせながら声をかけたのだとか。
「ご機嫌よう、オオカミの坊ちゃん。サンドストームへようこそ」
妙に色っぽいその声にブルーが思わず固唾を飲むと、猫はくすくすと笑いながら去っていったという。
初めての体験にブルーは戸惑いと緊張を引きずったままであるらしい。
そんな彼の様子を気の毒かつ愛らしく感じながら、私は視線を合わせながら囁きかけたのだった。
「今からドキドキしていたら、心臓が持たないわよ。ここやモーニングに暮らすナジャたちは人懐こいし、色っぽいし、お喋りだし、商売上手だし、色んな意味で賑やかなネコばっかりなんだから」
「そうそう。だから気をつけなよ、ブルー」
クランもまた頷きながらキツネの顔に笑みを浮かべ、ブルーを見降ろした。
「奴らはおだてるのが超うまい。人を乗せる天才ばっかりなんだ。その口車に乗せられて、気づいたら一文無しにされたってことも珍しくはないからね」
「あら、クラン。あなたそんな目に遭ったことがあるの?」
呆れ半分、心配半分でそう訊ねると、クランは少し慌てた様子で首を振った。
「聞いた話だよ! まぁ、ブルーは身包みはがされる心配はないか。でも、ハートを奪われないように気をつけるんだぞ。あと、時間もな」
クランの忠告に私は苦笑した。
ナジャたちには砂塵の泥棒猫という愛称がある。面と向かって言うのは失礼な場合もあるので、影でこっそり囁かれている程度だが、旅人の間では有名だった。その由来は、彼らの愛らしさにある。
サンドストームに初めて足を踏み入れた観光客は、当初の予定以上の散財をしてしまいがちだという。何故なら、この地で人間に混じって商売をしているナジャたちの愛らしさにうっかりハマってしまい、彼らに少しでも気に入られようとあれこれ買いあさってしまうからだ。
そうでなくとも、ナジャたちとの交流は楽しいもので、滞在時間をついつい延ばしてしまう旅人も多いのだという。また、さらにナジャに心を奪われた者はネコ化の危険を承知でサンドストームへの永住を決めてしまうのだとか。
つまり、ナジャは人々からお金と時間と心を奪う恐ろしく愛らしい泥棒たちなのだ。
これまでサンドストームに何度か足を踏み入れたことのある私だが、どうにか心までは奪われずにここまで来た。心まではと言っていることから分かる通り、お金と時間については深く振れないでおきたい。クランのことをとやかく言えるわけではないのは、やっぱり血なのだろう。
だが、少なくとも今回は、長々と滞在することにはならない予定だった。
理由はお金だ。
サンライズでの商談は、今までに経験したことのない規模のもので、かなり緊張したものだった。
これまで、手持ちの商品用ベリーの全てが一時的ではあるけれど売り渡されてしまうなんて経験はなかったため、躊躇いもあった。それに、取引金額の額が額であったため、引け目を感じてしまったりもした。
それでも、ヴィンセントという人物は非常に誠実だった。考えなしにベリーを買い漁り、私たちにお金を渡そうという人ではない。私たちがベリー売りとしてそれぞれ持っているなけなしのプライドにも一定の理解を示し、その証拠として買い取るベリーの一つ一つの詳細な説明と、用途をはっきりとさせたうえで、定価より少し高い価格で全て買い取ってくれたのだ。
そして、売り上げの一部は私たちが持ち、あとはトワイライトの実家に定期的に支払ってもらうこととなった。分割であってもこれまでにない額なので、ヴィンセント直筆の手紙付だ。そんな話がとんとん拍子に進んでいったため、正直今も夢を見ているようだった。
とにかく、そのお陰でお金の心配はしばらく必要ないため、ここでのベリー売りとしての仕事といえば、ベリー市場のスタッフに挨拶をする程度で済む。
一か月近く滞在して日々営業に追われる事もないのだと思うと、解放感だけではない落ち着きのなさも感じはするけれど、有難いという気持ちの方が大きかった。ここでの主目的はカレンやライオネルに会う事なのだから。
サンドストームの役場で受け取った郵便物の中には、実家からの手紙のほかにカレンからの手紙も混ざっていた。カレンの手紙には、ここ三か月ほどの予定が書かれており、サンドストームとモーニングのそれぞれの拠点と住所が書かれている。
彼女は今、モーニングの古代遺跡の象徴でもあるクリスタルフィッシュの調査を続けているという。スノーブリッジでの研究結果はやはり大きな影響を及ぼし、相変わらず調査は順調だと書かれていた。ただし、ブラックについては進展なしだった。少なくともクリスタルフィッシュの近くにはまだ来ていないのだと。
そんな。来ていないなんて。
手紙を読みながら、私はぽかんとしてしまった。まさか、まだゴーストライクにいたのだろうか。それにしては、全く町で見かけられなかった。けれど、追い抜いてしまった可能性はある。予定外に早く町を出ることになったから。
けれど、仕方がない。これもまたドラゴンメイドの導きなのだろう。それに、いつかは必ずここに来るはずだ。そう思うことにして、私たちはとりあえずカレンたちの拠点へと向かったのだった。
ふたりの研究所は、とてもコンパクトな平屋だった。ドアベルを鳴らしてみれば、スノーブリッジで見た通りの元気で陽気なカレンが出迎えてくれた。
「いらっしゃい、また会えて嬉しいわ!」
そう言って、彼女は興奮気味にネコの尻尾を揺らし、私たちを招き入れてくれた。背後にはライオネルもいる。二人とも変わりはないらしい。スノーブリッジで別れたままの二人の様子に、久しぶりに会う緊張も一瞬で解れ、ブルーはすっかり尻尾を振りながら招かれていった。
一方、クランは違った。キツネの耳を倒し、緊張気味な表情で、やけに私にくっついてくる。
私は苦笑と共にカレンに向かって言った。
「紹介します。彼が手紙に書いていたクランです。本当は私の双子の兄弟なんだけれど、見てわかる通り――」
「綺麗な毛並みのキツネになっちゃったのね」
カレンは困り顔でそう言うと、クランに近寄って丁寧にお辞儀をした。
「初めまして、クラン君。私はカレン=ストロベリー。もともとは東の大陸からの移民の子孫――つまりヒト族だったんだけれど、生まれつきこの姿をしているの。よろしくね」
「よ、よろしくお願いします」
毛を逆立てながらクランはカレンと握手をする。
そこへライオネルがぬっと近づいてきた。差し出されるゴツゴツしたクーガーの手に戸惑いつつ、クランはライオネルとも握手を交わす。
「ライオネル=スローだ。生まれつきのクーガー族。ベリー地質学を専門に研究をしている。カレンのパートナーでもあるんだ。公私共にね」
「ど、どうも」
ライオネルは笑っているが、クランの笑みは引き攣っている。
キツネになる前のクランならばそんな印象はなかったのだけれど、ひょっとして内心はいつもこんな風に緊張していたのだろうか。キツネになってしまったことで、毛の逆立ちや耳の動きで、その表情以上に内心が露わになっていた。
だが、カレンもライオネルもそんなクランの様子に深く触れたりはしなかった。ふたりとも節度ある大人なのだろう。感心していると、さらに家の奥からこちらにやってくる者がいた。
ボブキャット族の男性だ。眼鏡をかけ直しながら、彼はブルーを見つめ、さらにクランへと目を向ける。
「ほうほう」
何やら感心しながら近づいてくると、何度か頷きながら彼はクランに言った。
「つまり、あなたが盟友の言っていたキツネ化患者さんってわけだね」
「あなたは?」
クランが耳を倒しながら訊ねると、カレンが慌てて口を挟んできた。
「こちらはケネス博士。フォード先生からお話は聞いたかしら。あたしの恩師で、クリスタルフィッシュ研究の第一人者なの」
ケネス博士。その名前に私はハッとした。
ウィルオウィスプでフォード博士が言っていた名前だ。クリスタルフィッシュを研究しており、ブラックは彼を訪ねるためにサンドストームへ向かったと。
私は固唾を飲んで、ケネス博士と握手を交わし、軽く挨拶をした後で訊ねたのだった。
「私の兄であるブラック=ベリーが、ワタリガラスの一族の使いとしてケネス博士を訪ねようとここへ向かっていると聞いていたのですが知りませんか?」
「ああ、僕もその報せは聞いておりました。それとなく待ってはいたのですが、残念ですが、まだそれらしき青年とお話をしていません」
「そうですか……」
では、やっぱり追い抜いてしまったのだろう。覚悟はしていたが、がっかりしてしまう。
表には出すまいと堪えたけれど、きっと表情にも出てしまっていたのだろう。カレンがすぐに気遣って、私の背中をそっと支えてくれた。
「積もる話はソファに座ってからしましょう。ね?」
明るい声に背中を押され、私たちはお言葉に甘えることにした。




