5.受け取るか、受け取らないか
ヒト族の女性。異様に青白い肌に、薄い色の目と髪の毛。その顔立ちはヴィンスと何処か似ている。いや、もっと似ているとすれば、すぐ隣に立っているヴェロニカの像によく似ていた。
そんなことがあるだろうか。
しかし、彼女は現にそこにいた。目にしているのはボクだけじゃない。クランも彼女の姿を凝視していた。
「これは……夢なのか?」
呟くクランの隣に走り寄り、ボクは彼に言った。
「夢だとしたら、ボクたち同じ夢を見ているみたい」
身体がぞわぞわする。
ヴェロニカの姿をした何者かの鋭い視線を受けて、ボクは形だけでも身構えた。戦える勇気なんて微塵もなかったけれど、正体不明のこの人物がラズをここまで引き寄せたのは明らかだったからだ。
ラズはまだ目を覚ましていない。目は開いているけれど、瞳がよどんでいる。きっと心はまだ眠っているのだろう。
「あんたは何者なんだ?」
クランが恐る恐る彼女に訊ねた。
「ラズをここまで連れてきたのは、あんたなのか?」
すると、ヴェロニカの姿をしたその人物は、薄っすらと笑ってみせた。
「私以外に誰がいる。呼び寄せたのはその娘一人のつもりだったのだが、おまけ付きとは。面倒くさいが、仕方がないね」
彼女はそう言って、眼を光らせた。
ボクの知っているヒト族はそんなことしない。これは生きている者なのだろうか。それとも、あらゆる語り部が語り継いできた精霊の類なのだろうか。混乱していると、彼女はニヤリと笑ながらこちらに告げた。
「私が何者かなど、ここに招かれた者ならば分かるはず。そうであろう、キツネのベリー売り」
「ヴェロニカ=クラウド?」
クランの問いに、彼女はさらに笑みを深める。その反応にクランの困惑もまた深まった。
「そんなはずはない。だって、ヴェロニカは大昔の人間のはずだ」
「ああ、その通り」
ヴェロニカはあっさりと認めた。
「私は生きている人間ではない。肉体は滅び、この石像の下で朽ち果てている。けれど、私はまだ存在している。サンダーバードより罰を受けているのでね」
「罰?」
思わずボクが訊ね返すと、ヴェロニカは黙って頷いてから答えた。
「かつてこの地で多くを惑わし、混乱の中心となった罪による罰だ。その理由がたとえ自他の利益の為であろうと、その結果、流れた血はおびただしく、とても無視できるものではない。よって、私は肉体が滅んだあとも、トーテムベリーの一部として心を留め、ゴーストライクを見守り続ける罰を受けることとなったのだ」
そう語る彼女を見つめたまま、ボクもクランも茫然としてしまった。
やっぱりこれは夢なのだろうかと思いかけた最中、クランが我に返ってヴェロニカの亡霊に向かって訊ねた。
「あんたが本当にヴェロニカだとして、一体全体、何の用事でラズをここまで誘い出したりしたのさ」
ボクもハッとして彼女を睨みつけた。
何者であろうと、ラズを怪しい術でここまで誘き出したのは確かなのだ。もしもまっとうな理由ならば、夢うつつの状態で呼び出すなんてことがあるだろうか。ラズに何らかの危害を加えるつもりだったら、ただじゃ置けない。
しかし、そんな勇ましい気持ちを抱くボクたちを何処か見下すようにヴェロニカは微笑みを浮かべるのだった。
「勿論、大切な用があってのことさ。ついでに少しだけその若い血をいただこうとは思ったけれどね」
そう言って彼女は尖った牙を見せてきた。
ヴィンスは言っていた。ヴェロニカが吸血鬼というのは周囲の人々がそう語ったからだって。しかし、元のヴェロニカがどうであれ、今の彼女はまさしく多くの人々が想像する吸血鬼そのものであるらしい。
「冗談じゃない!」
クランが毛を逆立てて、ラズの身体を引き寄せた。
「一滴だってやるもんか。どうしてもって言うのなら、俺の……あ、いや、やっぱり、こっちのオオカミの血で我慢してくれ」
「え、ボク? そんなぁ!」
突然生贄にされて、ボクは涙目になった。
血を奪われるなんていう覚悟があるはずもない。その鋭い牙で噛まれれば痛いだろうし、貧血どころじゃないだろう。新しい土地へ冒険に出ることとは比べ物にならないくらい不安になってしまう。
ラズのためだと分かっていても、覚悟には時間がかかりそうだった。
しかし、ボクの不安を余所に、ヴェロニカは首を振った。
「マヒンガの血はいらない。私が欲しいのはヒトの血だ。それも、懐かしい香りのする血。その娘こそ相応しい。サンダーバード……延いてはドラゴンメイドが選んだ人物の血など、何百年と飲む機会はないだろうからね」
「ドラゴンメイドが選んだ?」
ふと気になって訊ね返すも、ヴェロニカは答える代わりに目を光らせた。途端に、ラズを抱きかかえていたクランが仰け反る。不思議な力が働いて、弾かれてしまったのだ。そのすきにラズは再び立ち上がり、茫然としたままヴェロニカのもとへと歩みだした。
ボクは慌ててその行く手を遮り、ヴェロニカに向かって叫んだ。
「ヴェロニカさん、お願いやめて!」
どうにかこうにか願いを込めてボクは彼女を見上げた。
「ラズを傷つけるのはやめて。じゃないとボク……」
「じゃないと、何だい?」
鋭い眼差しで睨まれ、ボクは怯みかけながら息を飲んだ。
喧嘩は苦手だし、相手は実体があるかどうかも分からない存在だ。トーテムベリーの一部だって言っていたっけ。ウソか本当かは分からないけれど、戦って勝てるような相手じゃないだろう。
だから、ボクは必死に考えた。考えた末に飛び出してきたのはこんな答えだった。
「ボク、ヴェロニカさんの像におしっこしちゃうから!」
闇夜にボクの叫びが木霊した。
念のため、断っておこう。ボクにだって恥じらいはある。
一般的なケモノのイヌやオオカミは違うかもしれないけれど、故郷のオオカミたちはちゃんとトイレがあって、そこで用を足していたし、縄張りを示すのはニオイではあったけれど、強烈なモノ――つまりおしっこなどではなかった。
なので、つまりはボクだって恥を覚悟での勝負だったのだ。幸いにも、その勝負はうまくいったようで、ヴェロニカはしばしの沈黙の後、見下すようにボクを見つめつつも肩の力を抜いた。と同時に、ラズの身体からも力が抜け、その場に倒れ込みそうになって、クランに抱き留められた。
内心ホッとしているとヴェロニカの不満げな声がボクに向けられた。
「私の記憶が確かならば、マヒンガはもっと高尚なお方々だったのだが、どうやらそこにいるのは町中の野良犬に毛が生えた程度の小僧らしい」
彼女はため息交じりに目を逸らした。
「分かった。そこまで嫌がるのならば、諦めてやってもいい。今の私は血の飢えに悩むこともない。ほんの興味に過ぎないのだから、ここでむやみに憎まれ、可愛い子孫たちに迷惑をかけてまで欲しがるものでもないさ」
そう言うと、彼女は再びボクたちに美しい目を向け、手のひらを広げたのだった。
「だが、こちらは別だ。邪魔をするならば、オオカミにキツネ。お前たちの選択にゆだねるしかないね」
彼女の手のひらには何かが輝いていた。ベリーの欠片のように見える。しかし、それが何のベリーなのかボクには分からない。クランならば分かるだろうか、或いは眠ったままのラズならば。だが、少なくともクランの方は目を凝らしながら首を傾げていた。彼にもそれが何のベリーか判断できないらしい。
「これは、サンダーバードからそこにいる娘へ託すように言いつけられたトーテムベリーの欠片だ。今の私の一部であり、ゴーストライクの大地とドラゴンメイドを結ぶ大切なベリーでもある。これを受け取るか受け取らないか、夢の中で判断させよとサンダーバードは言っていた。お前たちが邪魔をするならば、お前たちに選択させるしかない」
「トーテムベリーの欠片? サンダーバードだって?」
クランが胡散臭そうに繰り返すと、ヴェロニカは眉間にしわを寄せた。
「信じるも信じぬも勝手だが、受け取るかどうかだけはこの場で決めなさい。言っておくが、このベリーはその娘にとって必要なものとなる。ドラゴンメイドの夢を良きものにしたいならば、受け取るべきものだ。しかし、受け取れば、いずれこの大地を襲う困難と無関係ではいられなくなるだろう」
「困難って? 一体何が起きるの?」
ボクの問いに、ヴェロニカは暗い表情でこう答えた。
「それについて私から語ることは禁じられている。私が出来ることはただ一つ。この欠片をその娘に託すことだけなのだ」
困惑してしまった。受け取れば、困難と無関係ではいられなくなる。そんなものを受け取るかどうかラズ本人ではなくボクたちが決めるなんてことが出来るだろうか。
クランはすっかり警戒心を露わにしていた。何しろ、いつだってどんな時だって、ラズを心配している人だ。その反応も当然だった。
「受け取ればラズは危険な目に遭うっていうのか?」
噛みつかんばかりのその問いに、ヴェロニカは冷静に頷いた。
「その可能性も高いだろう。しかし、受け取らなかったとしても、危険が待っているのは同じだ。それに、サンダーバードによれば、この欠片をその娘に託そうと決めたのはドラゴンメイドでもある。選ぶのは本来ならば本人だが、きっとその娘ならば迷わずに受け取っただろう」
「どうしてそう言えるの?」
ボクが訊ねると、ヴェロニカは何処か寂しそうな表情で答えてくれた。
「その娘がいつも抱いている強い願いを叶えることにもなるからだとサンダーバードが言っていた。ドラゴンメイドはいつも夢を通してこの大地で生きる全ての者達を見つめている。その上で、もっとも相応しい願いを持っているのは彼女だと判断したのだ」
ヴェロニカの自信は揺らぎのないものだった。しかし、ボクとしては具体的な説得力を感じることは出来なかった。多分、クランも同じだろう。彼はますます警戒して、ラズを引き寄せて近づかせまいという態度を露わにしていた。
しかし、そんなボク達の態度なんてヴェロニカには関係ない。彼女はベリーの欠片をこちらに見せたまま、じっとボク達を見つめていた。
受け取るか、受け取らないか。
ラズの代わりに決めなくてはいけないという重みを感じつつ、ボクはふとヴェロニカを見上げて訊ねたのだった。
「ねえ、ヴェロニカさん。それって絶対にラズじゃないといけないの?」
「必ずというわけではない」
「じゃあさ、ボクじゃ駄目?」
即座に訊ねると、背後からクランの咎めるような呼びかけがあった。けれど、ボクは振り返らずにヴェロニカだけを見つめた。
ラズが常に抱いている強い願い。それはきっとブラックのことだろう。家族を再び一つにしたいのが彼女の願いで、それが、精霊たちによってトーテムベリーが授けられる理由であるというのならば、ボクにだって負けないほど強い願いがある。それは――。
「ボク、ラズの力になりたいんだ。ラズの為なら、どんな困難にだって負けない自信がある。もしも、それをボクが持っていて、ラズの願いも叶うのならば、ボクはそれを受け取りたいんだ」
じっとヴェロニカを見つめながら、ボクは言った。
大地を襲う困難とは何だろう。それと無関係ではいられなくなるとは一体どういうことなのか。いずれ分かる日が来る。その時に、ボクは後悔せずにいられるだろうか。いられる、という自信はあった。仮にラズが自分の判断で受け取ったとしても、ボクはきっとラズの困難を半分以上、一緒に抱えることを選んでいただろうから。
ヴェロニカはじっとボクの目を見つめていたが、やがて、ベリーを乗せた手のひらをそっと握り締めた。直後、握られたベリーが輝いたかと思えば、光の粒となってヴェロニカの指の間から零れ落ち、無数の虫のようにふわふわと飛びながらボクの傍までやってきた。そして、ボクの鼻先に集まると、ぱちんと弾けて消えてしまった。
呆気にとられていると、ヴェロニカはボクに向かって言った。
「その想い、サンダーバードに届いたらしい。若きマヒンガ、朝日が昇れば君のもとにベリーが現れるだろう。それはヴァンパイアバットの欠片。今の私の身体の一部であり、決して失くしてはいけないものだ」
「ヴァンパイアバットの欠片……」
光の弾けた鼻先が仄かに温かい。その感覚だけはリアルなまま、周囲の景色が段々と歪み始めてきた。ここは夢だろうか、それとも現実なのだろうか。ぼんやりとした空間の中で、ヴェロニカの眼差しと声だけがはっきりと伝わってきた。
「良いか、マヒンガ。その娘の力になりたいならば、忘れてはいけないよ。ヴァンパイアバットと共に、ベリーロードを歩み続けなさい」
その言葉を最後に、ボクの視界は真っ暗になった。
深い闇の中で段々と気が遠くなっていく。やっぱりこれは、夢だったのだろうか。そんな疑問もまた闇の向こうへと攫われていった。




