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作者: 結城アポロ




長い間、桜の木が続いた。桃色というのは、嘘だった。黄色や、青の桜の花弁が、風に吹かれユラユラと舞っていた。足元には、薄く雪が積もっている。寒くはない。色とりどりの桜の花弁が、雪と一緒に、満天の星に照らされて、彷徨っている。

「夜なのに、こんなにはっきり桜が見えるなんて、変だよね。」黙って前を歩いていた彼がふいに言った。これほど鮮明な景色の中で、彼だけが輪郭すらも曖昧だった。

「ここは、綺麗なものだけが集められるんだ。もちろん、君も数に入ってるよ。」ゆったりとした足取りで、後をついていく。辺りは静かだった。桜の木は揺れているが、音はない。上空を、時折流星が横切ったが、やはり、音はない。足音すら聞こえなかった。自分に本当に足があるのか、不安になり、下半身を見下ろした。足は、あった。あったが、右足が不自然な方向に曲がっている。特に歩き難かったようには思わない。

「あぁ、それは」彼が振り向いた。振り向いたが、顔はよく見えない。

「君、怪我をしているんだよ。喉も潰れてるみたいだし。気づいてた?」

言われてから、確かに自分が声を出せない事に気づく。口を開いても、か細い嗚咽すら出ない。頭が重い、と感じた。

「もうちょっと先に行ったら、治してあげるからね」優しく微笑むと、彼はまた歩き始めた。自分も、後ろをついていく。


やがて、雪が止み、雑木林が見えた。宝石のような、光沢のある歪な形をした実をつけた木が、いつの間に空に浮かんだ月に照らされ、キラキラと光っている。手の平ほどありそうな大きな物から、ざらめ程の小さな物まで、大小様々な光が、細い枝にぶら下がっている。

「これは、食べられるんだ。飴がなる木なんだよ」彼が上機嫌に言った。「一個、食べてみな」と言ったかと思うと、あっという間に木に登り、光る実を枝から採ると、こちらに投げて寄越した。枝がしなり、実がいくつか音もなく地に落ちた。慌てて彼が投げた実を掴む。親指の腹ほどの小さな実だった。ルビーのような深紅色に、月の白い光が静かに溶け込んでいる。荒波に削られたような雑な球体は、見れば見るほど宝石に思える。

試しに、口の中へ入れた。舌の上にそっと置くようにすると、舌に触れた先から、じんわりと溶けていくのがわかった。爽やかな、纏わりつかない甘さが、鼻を抜けていき、匂いを食べているような、不思議な気分だった。口の中で飴を転がし、歯に当たると、カラカラと軽い音がする。月明かりを、月そのものを丸ごと食べている気がした。

「どう?」彼が首を傾げる。先ほどより、幾らか顔がハッキリ見えるような気がした。瓜実顔に、金色の髪がよく似合っている。目や鼻は、未だ見えない。

ほら、もう一つ、と彼がまた飴を差し出した。蜂蜜色の、先ほどと同じくらいの大きさの食べやすそうな物だった。中心に、桜桃のような赤い木の実が沈んでいて、より一層宝石のように見えた。この上なく美しかったが、自分は、いらないと首を振った。

彼はそれ以上勧めることはせず、そうか、と呟くと、飴を地面に置き、黙って歩き始めた。すると、ふいに飴がスッと宙に浮かび、地面を離れ、何事も無かったかのようにまた木の枝にぶら下がった。

「もう少し先に行ったら、足を治してあげるよ。声もね」彼が小声で言った。

それなら治してもらおう、と慌てて彼の後をついていく。


雑木林を抜けると、だんだん草花が増えていき、そのうち見たこともない花が一面に咲き誇る園へ出てきた。しかし、自分は花より、その奥の、緩やかに流れる小川に魅入られた。彼が、自由に見て回ってよい、というように頷くので、真っ直ぐにその神々しい川へ向かった。

果たして、川は近くで見ると、なお一層、美しかった。透明な水がただ流れるだけの窪みが、美しいように見えた。先ほどの飴の木や桜の花弁のように、この川もまた光っていた。じっくり見ると、川の底にポツポツと光の粒が沈んでいるのが見えた。取って近くで見たいのは山々だが、この川を汚してしまうような気がして逡巡していると、彼が無造作に手を川の底へ突っ込んだ。彼の顔は、先ほどより明瞭に見えた。

彼が川から手を出すと、その手には丸い水晶のような透明な氷を持っていた。丸い氷の中心で、赤い何かが炎のようにチラチラと淡く光っている。

「この中に入ってるのは、星だよ。」

彼は氷に包まれた星を柔らかい雑草の上に置いた。「昨日の夜、空から降ってきたんだ。」

にわかには信じがたい話だった。こんな手の平の上で転がせる星があるのか、と思っていると、彼が「あるよ」と言った。

「宇宙は広いから、こんな小さい星だってある。食べられる星だってある。世界は広いし、宇宙はもっと広いから、何だってあるんだよ。」そう言うと、氷の星を両手で包みこんだ。彼の体温で、氷が徐々に溶け始め、水滴が指の隙間から滴り落ちている。「君も、溶かしてみなよ。綺麗だから。」と言うと、彼は自慢気に丸い氷を差し出した。宝石に触れるように用心して両手で受け取る。そしてすぐに手を放してしまった。割れる、と慌てたが、氷に包まれた星は重い音を立てただけで、ヒビ一つ入らずに草花の間に転がった。

氷の星は予想以上に冷たかった。触れた先から凍りつきそうなほどの、痛いほどの冷たさだ。実際、指先がしばらく硬直して動かなかった。

雪に触れた時とは全く違う、神経質な、おかしな言い方だが、温かみのない冷たさだった。彼が素手で持っていられるのが信じられない。彼は無心で氷の星を溶かしていた。暫く経ってから、「この星はさ」と彼が口を開いた。

「この星は、このままでも綺麗なんだけど。やっぱり、氷に覆われてるから、淡く光るだけなんだ。だから、誰かがこの氷を溶かしてあげないと」彼は喋りながらも、上の空のようだった。どこか遠くの方を見ている。自分も辺りを見渡してみた。周りには高い山も無ければ、建物も無い。一面の星空を実際に見たのはこれが初めてかも知れないと思うと、妙に悲しかった。

「みんな、大概この星の冷たさに嫌気がさして、すぐ諦めるんだけど。たまに、辛抱強く氷を溶かそうとする人もいて…あ、ほら、見て」

彼が急に嬉しそうに声を上げるので、慌てて彼の手を覗き込んだ。一瞬の奇跡を見逃したくなかった。

小さい、ビー玉のような星が、溶けた氷の中心で光っていた。先ほどのような淡い光ではなく、はっきりと形をもった赤い光だ。ロウソクの火を思い出した。誕生日ケーキのロウソクの火を吹き消すように、彼が星に息を吹きかけた。星はふわりと浮かび上がると、ゆらゆら揺れながら夜空へ上がっていき、やがて見えなくなった。

「氷の星を溶かして、星を夜空に浮かび上がらせる人がいるから、あんなにたくさんの星が空にあるんだよ。君は一面の星空を見たことがないみたいだけど、それは、高い建物とか、濁った空気に隠されてるからだろうね。よく夜空を黒に喩える人がいるけど、やっぱり、夜は黒より、青だ。」

高さの揃っていない、背の高い雑草に埋もれるようにして寝転がった。しばらく夜空を見上げていた。涼しい風が額にかかった髪を撫でていき、名前も知らない花たちが一斉に揺れた。

寝てしまおうか、と目を閉じた時、彼が「行こう」と立ち上がった。目を開くと、彼の顔はほとんど辺りの景色と変わらないほどはっきり見えた。目鼻立ちが整っている。整いすぎている気さえした。薄い唇には血の色がなかった。それで、急に恐ろしくなった。

怯えていることに気づいたのか、彼が不思議そうに首を傾げた。それすら作り物じみているように思えた。

「ほら、行こうよ」彼に強く腕を引かれた。焦っているようで、彼の整った顔が引きつっていた。


突然、劈くような犬の鳴き声が聞こえた。彼の声以外の音を初めて聞いたような気がして、狼狽える。彼も、驚いていた。

ちょうど、さっき自分が見惚れていた川のほとりに、青色の犬が座っていた。海のような深い藍色の毛並みが綺麗に整っている。しかし、遠目からでも分かるほど、所々白い毛が目立った。年老いて、くたびれた、美しい犬だった。

「どうしたの、行こうよ」自分が青い犬に目を奪われていると、彼が焦ったように語調を強めた。

青い犬は、吠え続ける。威嚇するような、諭すような、緊迫した吠え方に聞こえた。

「もうちょっと先に行ったら、綺麗な海が見えるんだよ。底には珊瑚の見事な花畑がある。砂浜は銀色で、いつもキラキラ光っているし」

犬が、ふいに黙ると、着いてこい、という風に頷いた。自分も、なんだか着いていかなければならないような気がした。

「その先の小屋に着いたら、足を治してあげる。声も、喋れるようにしてあげる。お菓子もあげる」

彼は、再び吠え始めた犬を追い払うことも出来ずに、必死に自分に語りかけてきた。

青い犬は、先ほど自分が歩いてきた道を引き返すように走り出した。帰るぞ、と言われた気がした。

自分も、そうだ帰ろう、と思った。

「そっちへ行くと、足は曲がったままだし、声も出ないままだぞ。」彼は、呪うようにそう言った。しかし、自分には、足が曲がっているのも、声が出ないのも、留まる理由には

ならないように思えた。

「美しいものばかりじゃない。手の平に収まる星なんてないし、飴のなる木だってない。桜だって、桃色のものしかないよ。」

美しいものばかりではない。それが妙に自分を安心させた。自分は手に収まらない星が、好きだった。店頭に並んだ紙の箱に詰められた飴が好きだし、当たり前のように咲き、散っていく桃色の桜も好きだ。

そう思うと、何の未練も無かった。彼の腕を振りほどくと、思い切り地面を蹴り、逃げた。犬の後を追いかけ、曲がった足を引きずりながら疾走した。彼が後ろで何かを叫んだ。


走り出してからも、彼に追われているような気がしてならなかった。青い犬に着いていき、雑木林を抜けてから、ようやく落ち着いた。胸を撫で下ろす間もなく、青い影を追いかけて、小川を越え、夜空の下を飛ぶように走り、飴の木の雑踏を駆け抜けた。枝や蔦が引き留めるように手を伸ばすのを避け、あっという間に虹色の桜並木道へ戻る。

息を整えながら、ふと今度は桜の木々の梢達が触れ合う音が聞こえる事に気付いた。彼が耳を塞いでいたのだな、と思う。

青い犬はそこで立ち止まった。手を伸ばし、ぎこちなくその背を撫でる。夜というのは黒より青だ、と彼が言ったのを思い出す。なるほど、この犬の青は確かに夜に似ているのかも知れなかった。

すると急に、青い犬の姿が朧げになった。初めに見た彼のように。犬が消えるのが恐ろしくなり、何度も瞬きを繰り返す。4度目の瞬きで、犬はとうとう見えなくなり、5度目に目を開けた時、自分は無機質な白い部屋にいた。


なんだなんだ、どうしたどうした、と周りがザワザワとしている。ゆっくり目を開けて、自分を囲んでいる人たちを見渡す。見知った顔に、あれ、この人は、と思い出す前に、わぁっと歓声が部屋に溢れた。自分は、長い間意識を失っていたらしい。

皆銘々に自分の顔を撫でたり、どこかへ電話をかけたり、涙を流したりと忙しなく動き回る。よろよろと、誰かが覚束ない足取りで自分に近づいて来た。安堵より、未だ悲しみを滲ませた眼が、自分の顔を覗き込んだ。


「なぁ、お前、飛び降りるなんて…」

シワだらけの顔を歪ませて、父親が嗚咽交じりに呟いた。


自分は、ただ、開け放たれた窓の外で桃色の桜が揺れる音をぼんやり聞きながら、夜色の犬の姿を探していた。


読んでいただき、ありがとうございます!

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