モテモテで困っちゃうぜ
迸る鮮血が茶色の地面に叩きつけられて、暗いシミを作る。それに気を取られて、今、何が起こったのかさえ欠片も分からなかった。いや、この状況を理解したくない、したらダメだと思う自分が確実にいた。
それでもスローモーションのように、鎧を着た人がそのシミに突っ伏すように倒れていき、二メートルを超えるクマのような獣が目の前にいると、考えずとも大方の状況が呑み込めてしまう。
「危ないっ!」
どこからか声が聞こえて、それとほぼ同時に、目の前の獣が大きな爪を振りかざした。――――こんなところで、死ぬのか。俺。
考えるにも行動するにも時間は足りず、動くもの全てがゆっくりに見え、爪が段々と俺へと近づいてきて、近づいてきて、近づい、て――。
「……?」
大きな爪が俺の体を切り裂いているはずが、しかし、いつまで経っても何も起こらない。自分の体に痛みはなく、苦しみもない。ゆっくりと、いつの間にか閉じてしまっていた目を開けてみる。
馬鹿デカい獣の爪のうちの一つが、鼻先数センチというところまで迫っていた。
「……は?」
いや、それはいいんだ。いやいや決して良くないけど、怪我をしてないことに素直にホッとした。今日ほど鼻が高くなくて嬉しいと思うことはこの先ないであろう。
……違う、違うんだ。ここで大事なのは、『迫っていた』ということであって、じゃあ誰かが止めてくれたってことで、マジ救世主! とか思って心をトゥンクさせながら爪を止めた剣の柄の方を見るとさ、俺なのよ。俺の手なのよ。俺の腕が若干プルプルしながら爪を押さえ込んでんのよ。
ねえ、どういうことなん? 俺って剣扱えたのん? 刃物なんて木刀か包丁しか握ったことないんですけど!
そうだよそれよりもなんで剣持ってるの俺!? 現代っ子の装備と言えば携帯、スマホなのに剣になってるよ! そういや女神さまと会った時から持ち物無かったような気がするけど!
ああもうよく分かんない! あんまり力を込めてないのに獣と対抗出来てるし、この状況自体がよく――――
「ガアアアアアアアアアアアアアア!!」
「ちょっとうるさいよ男子ぃぃぃぃぃ!!」
俺以上にせっかちな獣の動きは、さっきの攻撃同様にゆっくりと捉えることが出来た。目を血走らせて再度爪を振り下ろす獣に対して、『斬る』と念じた瞬間、俺の腕は獣の動きの幾倍速く剣を振り下ろす。まるで自分の体ではないかのように、俊敏に動作がこなされていく。
これがかの有名な袈裟斬りだろうか。獣の肩口から入り込んだ刃は、俺の体が獣の横をすり抜けて進むのと同時に、斜めに斬り下ろされていく。
どでかい獣の真横を通る緊張と、スッと入った太刀筋とは裏腹に感じた、確かな肉の重みと骨を断つ嫌な感触が手汗となって現れる。
現状に頭が追い付かなくて、俺も咄嗟にわけの分からないことを口走ってしまったが、それらが頭からすっぽり抜けるほどには、気持ちの悪い感触だった。
なんとなく、自分の手を見てしまう。
見た目に特に変わったところはなく、握ったり開いたりしても違和感はない。長い間、恋人として俺を慰め続けてきてくれた右手その手である。
際立って力があるわけでも器用であるわけでもなく、慰める一点特化のヒーラー職のようなこの手が、あの獣を倒した…………、のか。
獣はピクリとも動く気配を見せず、体を斜めに半分にするかのような切創からは未だに血が滲みだしている。
まず現実で直に見たことないほどの体躯、そしてそれを俺が倒し……殺したという事実。人間でないにしろ、恐らく害獣のような存在であったにしろ、この事実に若干の恐怖を覚えてしまう。
「――――」
「……ん?」
俯きがちになりながら、自分の手と獣だけに意識が向かっていた俺に、誰かの声が聞こえてきた。
それを聴こうと意識を外に広げると、同時に五感を通じてポツポツと情報が入ってくる。
……おお、森だ! ……おお、道だ! ……お、おお空だ?
確かにこんなに生い茂りまくりの森は自分が住んでいた地域では見られなかったが、それでも地方に行けば存在し得そうな森であった。
空は見た目そのまま、道に関しては……、そこそこ広いのにコンクリートじゃないのかー、ぐらいの感想。それでも整備されてて見た目には綺麗ダネ、うんうん。
……こうやってほのぼのしてないと、不意に赤とか血とか思い出して突然ゲロぶちまけそうなんだよなあ。
「──あの」
「うひゃほっいぃぃぃぃい!?」
「だ、大丈夫ですか?」
俺に声をかけてくれたのは、美少女であった。紛れもない美少女であった。圧倒的美少女であった。
腰まで伸びる金髪に爛々と光る碧眼、小さな口にシュッと伸びながらも丸い鼻をしている。これを確認するのに僅か一秒。
白を基調としたドレスには水色のラインがいくつか走り、可愛らしい花も添えられている。これも一秒。
……こんなに挙動不審な様子を見せているのに、目の前にいる美少女は動く気配をちっとも見せない。
どうやら、スキルの『キヅカイ』や『クウキヲヨム』を取得していないようだ。俺の国だと強制的に身に付けさせられるんだけどなぁ……。
「あ、あのぉ……?」
「はっ、はい! 大丈夫ですガンバリマス!」
「そ、それなら良かったです」
はわわとでも言いそうな美少女はにぱーっとした笑顔を見せて、俺の心を揺さぶる。なんだ、何が目的だ!
……というか、なんで話せてるんだろ、俺。チートの中に自動翻訳機能でも搭載してるのか?
説明書が欲しくなったけど、あったらあったで読まない気がするのでやめておこう。まあいずれ分かることだろうし今はいっか。
「私達を助けてくださり、ありがとうございます。普段はああいった獣は出ないので、私達も油断をしていました……。貴方様がいてくださらなかったら、どうなっていたことか。本当に、ありがとうございます」