猫神様も恋をする 後編
―8―
空虚。
それだけが、和海を支配していた。
何も考えられない。
それほどに、猫神の存在は和海の中で大きくなっていたのだ。
「凛…」
溢れ出るこの気持ちは一体、何なのだろう?
「和海ー、そろそろ行くわよー」
階下から母の呼ぶ声が聞こえる。
…時間だ。
今日は和海が実家からアパートへと帰る日だった。
冬休みも残り僅かとなったこの日、母に最寄り駅まで送ってもらうことになっていた。
重たい身体を何とか持ち上げて、和海はのそのそと準備を始める。
予め荷造りしておいたボストンバックを抱え、机に置いてあった携帯を取って、力なく1階へと歩を進めてゆく。
「遅いわよ、和海!電車の時間、逃しちゃうでしょ」
「…ごめん」
「…どうしたの?最近あんた、おかしいわよ」
「……」
こういう時、母は意外と鋭かったりする。
心配そうにそう尋ねてくる彼女には申し訳ないが、こればかりは誰にも言えない。それに言ったところで、誰も信じてくれないに違いないのだから。
「…何でもないよ。それより、そろそろ行こう」
母の話を強引に終わらせると、和海はそのまま玄関のドアを開けた。
―9―
ガタン、ゴトンと緩やかに揺れる、電車内。
めくるめく変わる窓の景色をぼうっと眺めながら、和海は白昼夢を見ているかのようなふわふわした心地を感じていた。
(なんだろう…ここは、夢の中…?)
確かに電車独特の揺れを感じるのに、目に見える景色は何処と無く現実とは違う気がする。
まず電車に乗った時には僅かにいた乗客の姿が、何処にも見当たらない。
色の薄れた、モノクロな世界だった。
『和海…和海…』
頭の中に直接響くかのような、不思議な声。
何処か懐かしいような不思議なそれは、和海の意識を揺り起こす。
「…誰…?」
ゆっくりと、閉じていた目を開ける。
―いや、果たして本当に閉じていたのだろうか?
それが判らない程、和海はただぼんやりと電車に揺られていた。
『彼女を、頼みます』
「えっ…?」
何時から其処にいたのだろう?
和海の目の前に立った『何か』−そう形容するしかない−が、はっきりとそう告げた。
しかし何の事か聞き返そうとした瞬間、それはまるで風船が弾けるかのように唐突に消えた。
「まっ…!」
そう言って和海は大きく手を伸ばす。
―唐突に、世界が鮮やかな色を取り戻した。
「―…あ」
ガタン、ゴトン。
気付くと、元いた電車内で。
車内にいる他の乗客の視線が、痛い。
(はずっ!)
和海は慌てて席へと座り直した。
乗客の数が少なかったことだけが、和海の救いだった。
―10―
和海が電車を乗り継いで下宿先のアパートに帰ってきたのは、とっぷりと日が暮れた頃だった。
「やっば、もう暗くなってきてる…!」
最寄り駅を出た和海は、急ぎ足でアパートへと向かう。
予定では夕方前に着いて掃除や身仕度をしようと計画していたのだが、こうなってしまってはまた後日ゆっくりするしかないだろう。
スーパーで適当に買い物を済ませて、アパートに帰る。
2ヶ月程実家に帰省していただけなのに、懐かしさが胸一杯に広がる。
それほど冬休みが充実していたのだろう。
―全ては、あの猫神のせいだ。
自称神様の彼女は、ある日突然僕の前から姿を消した。
あれから数日しか経っていないのに、もう何年も前の出来事のように思える。
「…凛…」
「なんじゃ?随分と遅い帰りじゃったのう、和海」
「…ッ、?!」
何で。
どうして?
―だって、おかしい。
初めはあまりの虚無感に自らが作り出した、都合のいい幻かと思った。
…けれど、幻にしてはそれは、リアル過ぎて。
「……凛…っ!」
言いたいことは、たくさんあった。
でもどれも上手く言葉にならなくて、和海はただ目の前の少女の名を呼んだ。
そんな和海の言いたいことがわかったのか、猫神は事情を語りだす。
「今回の件で神に大目玉をくらってしまってな。説得に大分掛かってしまった」
「…神…説得…?」
「そう、説得。彼奴も話せばわかる奴だからな、少々手間取ったが、もう安心じゃ」
―それは、和海にとって全くわからない領域の話だった。
…けれど、そんなことはもう、どうでもよかった。
猫神が、帰ってきた。
その事実だけで、十分だった。
「…おかえり、凛」
「ただいま、和海」
唐突に終わりを告げた、神様との同居生活。
それはこれまた唐突に、再び始まった。
―終章―
猫神と人間の、不思議な同居生活。
これもまた一つの幸せな物語。
…けれど、問題はまだ何も解決されていない。
彼女の捜し求めるものとは?
彼の揺れる思いの正体は?
―答えは全て、まだ深い闇の中にある。