吐き出してしまえ!
(私)
私は飲み会があまり好きじゃない。あの独特の強引な雰囲気とか、無理にでも笑わなくちゃいけないような義務的な感じとか。普段話をしないような相手と近くの席になったらどうすれば良いのか分からなくなる。無理に喋っても、喋らなくても、なんだか気まずい空気になる事の方が多い。なにより。
なにより私は、必然的に飲み食いをしなくちゃならないのが一番嫌だ。お酒はもちろん、肴も高カロリーのものが多いから、体重を気にしている私にとってはまさに地獄だ。出席してもそんなに食わなければ良い、と言う人もいるかもしれないが、私はどうにも不器用な性格で、そういう事が上手くできないのだ。周囲の顔色を窺っている内に、いつの間にかに食べて飲んでしまっている。
運が悪い事に、ここ最近、その嫌いな飲み会が二回続いた。しかも両方とも避けられない。なにしろ、一つは私のお別れ会で、もう一つは私の歓迎会だったからだ。どういう事かというと、私は部署を移動して、それに伴う飲み会がそれぞれ行われたのだ。それにしても、わざわざその程度の事で飲み会を開かなくても良いと思う。私自身は嬉しくともなんともない。と言っても、皆は私の為というよりは、単に飲み会をやる為の口実が欲しいだけなのだろうけど。
飲み会が終わって家に帰ってから、私は二回とも台所でなんとか飲んで食べてきたものを吐き出そうとがんばったが、少ししか出はしなかった。多分、また太ってしまう。
あそこで、あんな返答をしなければ、私が部署を移動する事もなく、こんな目に遭わなくても済んだのに。わずかな量の嘔吐物を見ながら私はそう思った。全くついてない。ある日突然に、上司が「何かプログラムをやった経験のある人はいるか?」と、事務職の私達に向けてそう質問をしてきた。その質問にどんな意味があるのか、その説明は一切なかった。私は自分のサイトを作った事が一度だけあったので、「ホームページを作った事があります」とそう答えた。その質問に答えたのは私一人だけだった。素直に答えただけだったのだが、それがまさかこんな結果になるとは思いもしなかった。半ば詐欺だと思う。そう。私は何故かコンピュータ・プログラミングを行わなければいけない部署に移動になってしまったのだ。
不況の為の経費削減。人が余っている部署から、足りない部署へ。私は知らなかったのだが、社内人事は全体的にそのような方針を取っていたようで、それで私がいた部署でも誰かを人身御供に捧げなければいけなかったらしい。それで困った上司は、あんな質問をした訳だ。私はまんまとその罠に嵌ってしまったことになる。間抜けな話だ。もっとも、皆がどれだけその話を知っていたかは分からない。もしかしたら、本当に皆はプログラムなんかやった経験がなかっただけかもしれない(実際、その可能性は大きいと思う)。ま、どちらでもあまり関係ない。
会社。昼休み。私は昼食にソウメンを選んだ。コンビニで買って来たのだ。実を言えば、これだけじゃ足らない。でも、まだ飲み会で食べ過ぎてしまった事が気になっている。いや、それだけじゃない。最近の私の体重は増えてしまっているんだ。食べる量は減らさなくちゃいけない。いつもはダイエットで苦しみなんか私はしない。体重を減らしたくなる時期になると、不思議と私から食欲がなくなってしまうからだ。それなのに今回はおかしかった。食欲がほとんど衰えない。部署が変わった所為だろうか? 慣れない環境にストレスを感じているだとか。ただ、それだと反対に食欲がなくなりそうな気がしないでもない。
そんな事を考えながら自分の席でソウメンを食べていると、ふざけた歌詞の歌声が耳に入った。
「今日も、ソウメンゆだる~ 変わらない味。悪い意味で!」
隣の席の男の人。どうやら私と同じで昼食はソウメンらしい。そういえば、この人は昨日もソウメンを食べていた。
「ダイエットでもしているんですか? ソウメンばかりじゃ身体に毒ですよ」
私は自分を棚に上げてそう質問してみた。するとその男の人は情けなさそうな笑顔を作ってから、こう答える。
「いや、それがここ最近、妙に食欲がなくってさ」
羨ましい。私はそれを聞いてそう思う。どうして、ダイエットも何もしていない人に食欲がなくて、ダイエットしている私にこんなに食欲があるのだろう? そう思うと、何にも悪くないのにその男の人を私は憎らしく感じてしまった。と言っても、多分原因はそれだけじゃない。
この人と私は何か反りが合わないのだ。決して悪い人ではないとは分かっている。いや、むしろいい人なのだろうけど、なんだか接し難いのだ。言う事というよりも、考え方だろうか? 考え方がなんだか理屈っぽくて、ついていけない。きっと、表情には出さなくても、この人は私がこの人を嫌っていることに気付いていると思う。そう思っているからなのか、ますます私はこの人と話すのが億劫になり、それで隣の席だというのにほとんど口を開かない。今日は久しぶりに話しかけたのだ。男の人は、初めはなんとか私と会話をしようとがんばっていたようだが、そのうちに諦めてしまったようだった。少しは悪いと感じもするけど、この人は元々外部からヘルプでやって来ただけだから、直ぐいなくなる。それまでお互いに我慢すれば良いだけの話だ。
(僕)
「今日も、ソウメンゆだる~ 変わらない味。悪い意味で!」
昼食にソウメンを買ってきた。うどんかソバかで悩んで、結局はソウメン。一番安かったし、それに何よりすんなりと腹に入りそうだったからだ。実は食欲がない。自分でも驚くくらいに。
ソウメンは好きだけど、流石に毎日だと飽きる。それに、やっぱり身体にも悪いと思う。あと、おにぎりかなんかも一緒に食べるべきたったかもしれない。そう思っていると、
「ダイエットでもしているんですか? ソウメンばかりじゃ身体に毒ですよ」
と、隣の女の人からそう話しかけられた。避けられていると思っていたから少し嬉しく思い、僕はできるだけ親しげにしたつもりのぎこちない笑顔でこう返す。
「いや、それがここ最近、妙に食欲がなくってさ」
それに女の人は何も返さなかった。軽く怒ったような表情で、それからズルルと黙ってソウメンを食べる。ソウメン。奇しくも同じソウメンだ。そう言えば、この人も毎日ソウメンばかりな気がする。少なくとも、昨日はそうだったはずだ。
どうしてだろう?と思って、質問をしかけてやめた。表情から、明らかに僕を避けている感じが滲みでていたからだ。話かけるなオーラが出ている。そんなに怒られるような事を言っただろうか?と悩んで思い返す。いや、元々僕はこの人から嫌われているんだ。どうしてなのかは分からないけど。
ここに僕はメンテナンスの仕事でやって来ていた。業務用のアプリケーション。今までのプログラムに、新しい機能を付け加えるお仕事。何故か僕はこの類の仕事を請ける事が多いものだから、仕事自体には何のストレスもなかった。程度の差こそあれ、どのプログラムも基本的な考え方は同じで、後は“感じ”さえ掴んでしまえば、苦なくプログラムを読む事も作る事もできるようになる。普通は、一つのアプリケーションで、構造は同じにしてあるものだから、慣れてしまえば、それほど大変じゃない。ところが、今回の仕事はいつもとは勝手の違う点が一つあった。
「新人が一人いるんだが、プログラムの書き方を、教えてやってくれないか?」
現場に入る前にそう言われた。これも、実は時々ある事で、新人教育を押し付けられてしまうんだ。ただ、僕はそれをそんなに大変だとは思っていなかった。なにしろ、「少しの経験はあるらしい」と、そう言われていたから。経験者なら分からない部分だけ補ってやれば、後は放っておいても平気なはずだ。しかし、話はそう簡単にはいかなかったのだった。その新人さんはなかなか、手強かった。そして、もちろん、その“新人さん”こそが、僕を嫌っている隣の女の人で、嫌われている事も含めての、彼女との付き合いこそがいつもとは勝手の違う点だった。
おかしいと思い始めたのは、二三日経った辺りから。経験者なら簡単に理解できそうな部分を間違えている。僕は少し戸惑ったけど、どうしてそれじゃいけないのかを軽く説明してから「分かった?」とそう確認を取った。その女の人は何も返さなかった。僕はそれを分かったという意志表示だと解釈して(正直、追求するのも気が引けたから)、それで話を終わりにした。ところが、それからも同じ間違いを犯す。理解していない。理解できない事自体は大きな問題じゃない。ただ、理解しないまま進めてしまったのは大問題だ。プログラムのバグを増やしてしまうし、それに何より本人が成長しない。それで僕は少しきつく叱った。理解できていないのなら、ちゃんと言って質問しなくちゃ駄目じゃないか、と。女の人は、なんだか納得いかないような表情で僕を見ていた。こんな事もあった。ずっと悩んでいるものだから、何をしているのだろう?と思って尋ねてみると、ここが分からないと言う。見てみると、設計書の内容とプログラムの内容が食い違っていた。僕は「ああ、これは多分、設計書が間違っているのだね」と、そう教えてみた。すると彼女は怒り始めてしまったのだ。
「これで、どう仕事をしろって言うのですか?」
と、そんな事を言っている。
どうも、彼女の中の常識では、設計書とは絶対に正しくなければいけないものであったらしい。気持ちは分かるけど、と思いつつ「こんな事はよくあるんだよ」と、そう宥めてみた。が、彼女は治まらなかった。
「これじゃ進められません! 大体、もしかしたら、プログラムの方が間違っているかもしれないじゃないですか」
と、設計書を書いたのが僕ではないにも拘らず、僕が悪いみたいな口調で言ってくる。
「うん。でも、仕事だから進めなくちゃいけないんだよ。どちらが間違っているのか分からなかったら、少し処理の流れを整理してみよう。おかしな点があったら、多分、そっちが間違えている。その内容を簡単にまとめて、確認のメールを送る。返答がくるまでの間で、別の仕事をしておけば良い。
確かに問題はある訳だけど、その問題の大きさを把握して優先順位を決めれば、後は原因は何かって事を追求して理解して、それを取り除く手段を考えるだけだからさ。テキスト通りにやるのじゃ通じない仕事なんだよ、これは。ちゃんと自分の頭で考えないと」
彼女はそれを聞いてようやく、渋々ながら納得したようだった。そこに至って僕は確信していた。この女の人は、プログラム未経験どころか、プロジェクトに参加した経験もなさそうだと。何しろ、参考資料や設計書が間違っている事なんか、実際の現場では日常茶飯事なんだ。いちいち、細かい間違いに怒っていたら仕事にならない。よっぽどの事がない限り、お互い様で、済ませるのが一番なんだ。
そして、そんな日常を繰り返す内に、僕は次第に彼女から嫌われてしまった。僕としては、普通に教えていただけなのだけど。そして更に、その辺りから、僕の食欲はなくなってしまったのだった。いつもとは勝手が違う事も手伝って、それは僕にとって大きなストレスになった。
どうも、また“何か”を食べてしまったらしい。僕には妙な体質があって、眠っている内に何かを食べてしまう事があるのだ。それが具体的に何なのかまでは分からない。霊なのか、誰かの想いなのか。人には説明できない何か、としか表現できない。
とにかく、早くに解消しないと本当に身体を壊してしまう。どんな性質を持ったものなのか、まずはそれを見極めなくちゃいけない。
(私)
私には、どうやら循環性の気分障害の傾向が少なからずあるようだった。日常生活には何の問題もないのだけど。
躁鬱病以外にも、循環性の気分障害は多くが知られているらしい。私の場合は、何故かダイエットをしたくなる時期と、ほとんど気にならなくなる時期とがある。そう言うと、「それは病気じゃない」と人によっては笑いそうだが、それは各時期の代表的な特徴であって、全体的な話という訳じゃない。
ダイエットをしたくなる時期は、周囲の目が気になって仕方なくなる。軽い不安を常に抱えていて、その所為で仕事にも行きたくなくなるのだけど、その不安の所為で却って真面目に朝早く出勤してしまう。会社から見捨てられるかもしれない、と半ば脅迫的にそう思ってしまうのだ。もちろん、頭ではそれが馬鹿な考えだと分かっている。でも、それに気分が追いついてこない。そういえば、飲み会が特に嫌いになるのもこの時期のような気がする。
そうじゃない時期は、逆に全てがどうでも良くなってしまう。特に不安も感じないのだけど、なんだか真面目にやる気が起きなくて、朝は遅刻してしまいがちになる。もっともこれは理性で抑えて、あまり酷い状況に陥ってはいない。周囲から気にされてもいないと思う。少なくとも今までは、誰からも注意を受けてこなかった。
この変化に気付いている人は、多分誰もいない。先にも述べたけど、日常生活が送れなくなる程じゃないんだ。ただ、皆は私が痩せ始めると、またダイエットを始めたな、とそう思ってはいるようだ。
ダイエット。確かにそれは事実だけど、半分だけしか正解じゃない。本当はダイエットをするつもりがなくても、勝手に痩せ始めるのだから。食欲がなくなって。だから、今回は奇妙に思っていた。ダイエットをしたくなる時期なのに、食欲がある。
プログラムをやる仕事というのは、どうもうつ病に罹る割合が多いらしい。健康保険の種類によってはわざわざうつ病対策の講習が開かれるくらいだとか。それで、もしかしたらその影響かと疑ったのだが、同じ職場の人間にそれとなく話題を振ると笑われてしまった。
「この程度じゃ大丈夫ですよ。そういう話は聞いた事があるけど、休日なしで深夜まで残業した上で、何も仕事が進まないとか後戻りするとか、そういう酷い状況下でした。病気になっちゃった人が出たのは」
なんでも、今回の仕事はメンテナンスで、基になるプログラムがあるからそれを参考にでき、比較的楽に進められる上に、期限もそんなに厳しくはない。という、どうやらかなり楽な部類に入る仕事らしい。
私は一応相槌を打ちながら、それでも内心では、“そうは言っても人によるのだろう”とそう思っていた。その人がどんな性格で、どんな状況に置かれているかで変わってくるはずだ。ただ、そう思いながらも、仕事が原因でこうなったのじゃないだろうと私は半ば確信していた。
“なにか”
“なにか”がない。
それは、私から“なにか”が欠落してしまったのを感じていたからだった。ダイエットの時期なのに食欲があるのは、多分、その“なにか”がないからなのだろうと思う。
そんな事を考えていると、何故かふと隣の男の人の顔が浮かんだ。
どうして?
少し驚いて隣を見てしまった。男の人はその私の視線に、不思議そうな顔で応えた。私が嫌っている事に気付いているからだろうか、態度がわざとらしい気がする。どうにも気を遣わせてしまっているらしい。少しは悪いと思わないでもない。ま、どうせ直ぐにいなくなるのだけど。罪悪感を誤魔化すように、私はその後でそう思った。すると、その男の人はそのタイミングで、思い出したようにこんな質問をしてきたのだ。
「そういえば、僕が出て行くと、君が僕のやっていた部分を引き継ぐ事になるだろうけど、大丈夫かな?」
私はその言葉に驚く。何しろ、この男の人の担当部分は、この人が経験豊かというだけあってとても難しいのだ。私は慌ててこう返した。
「そんな話、聞いてません!」
「聞いてないって、僕と関連する部分をやっているのは君だけなんだから、当然そうなると思うけど…… 普通は」
私はそれを聞くと、少し考える。考えもしなかったけど、確かにその通りだ。私以外の人はほとんど関わっていない。
「どんな事を、やらなくちゃいけないんですか?」
恐る恐る私はそう尋ねてみた。
「まず、もし僕がバグを残していたら、対応しなくちゃならない。ま、これはないように最善を尽くすけどね。それと、また何か仕様変更が入ったら君が手を入れる。だからそれまでに君は僕のやっていた範囲を把握する必要があるんだ
なに、スケジュールはそんなに厳しくないからできると思うよ」
その人はそう返してきた。確かにスケジュールの余裕はある。難しい部分かもしれないけど、時間をかけて教えてもらえば分かるのかもしれない。少なくとも、この人はそう判断しているんだ。でも、問題はそんな点じゃないんだ。それはこの人としっかりコミュニケーションを取らなくちゃいけない事を意味している。苦手なこの人と。
本当に最近私はついてない。
その時、そう心の中で強く思った。
(僕)
二日ほど早めに自分の仕事を終わらせて、テストに入るまでの期間を空けた。隣の女の人に僕の範囲を教える為だ。
今なら最初の方みたいな失敗はしない。素人だと分かっているから、それなりの教え方ができる。彼女自身も少しはプログラムを経験しているから、理解力も増しているだろう。それに、初めて教えた時は、時間の余裕がなかったけど、今はその時間もある。がんばって作ったのだけど。
彼女の方にも予め話を通して、時間を作ってもらっておいた。納得した上で、教わるのだから、いくら僕を嫌っていたって邪険にはしないはずだ。今まで接してきて、それなりにちゃんとした人だとは分かっている。
始めてみると、流石に彼女も危機感を覚えているようで真面目に聞き入ってくれた。要点を教えて、実際にテストをしてみる。プログラムを順に教えながら、実際に動かしてみる。データ作りは彼女にやらせた。理解を深める為だ。これなら、実感し易いはずだ。何か手を入れる時に、彼女自身でテストが行えるようにもなるはずだし。
やっている最中に、バグを一つ見つけた。出てはいけない文字が出ている。僕は良い機会だと思ったから、「このバグを自分で解決してみて」、とそう言った。彼女はそう言われて困っているようだった。
「恐れる必要はないよ。まぁ、面倒ではあるけどね。まず、こういう場合は原因が何かを追求するんだ。それが基本」
「原因?」
「そう。バグに限らずなんでもそうだけど、問題解決の基本は、原因を突き止めて、それをどうにかする事だから。もっと言っちゃうと、法則の成り立ちを理解して、それを当て嵌めれば答が出る、てな感じで、どんな事にも言えるのだけど」
「理解ができなかったら、どうするんですか?」
「その場合は、トライ&エラーでいくしかない。やってみて、駄目だったら次を試すって感じだね。ただ、このやり方だと確実性が低い。解決したように見えて、実は影に大きな問題が潜んでいる場合もあるし時間もかかる。テストも念入りにしなくちゃ。だから、これは本当にどうしようもなかった時だけの手段だね」
「それでも駄目だったら?」
「降参するしかないけど、その場合は、できるだけ早めに、上に報告する必要がある。黙っていて、寸前で判明、なんて悲惨な事態だけは避けなくちゃいけない。早く報せてくれれば、対応策も執れるんだよ」
そう言われて、彼女は黙ったまま頷くと真剣な顔でプログラムに取っ組み合いを始めた。バックアップは取ってあるから、そんなに緊張する必要もないし、それに簡単に解決できるバグでもあるのだけど。
僕はその姿を見ながら安心していた。真っ当に話を聞いてくれている。一時はどうなる事かと思ったけど、これなら引継ぎも上手くいきそうだ。新人の教育という仕事も果たせるだろう。そして、安心したからなのかどうかは分からないけど、僕はその晩、久しぶりに食欲が沸いたのだった。ずっと食べたかった(食べたかったのに、食欲がないというのも変な話だけど)焼肉弁当を買った。もしかしたら、食欲がなくなったのは“何か”を食べた所為なんかじゃなかったのかもしれない。豪快に焼肉を、胃袋の中に放り込みながら僕はそう思った。しかし、異変は食べ終わった後で起こったのだった。
何故か、猛烈に吐き気を催して、僕は台所に行って口を開けた。だけど焼肉は出て来なかった。その代わりに、物質じゃない“何か”が、口から吐き出される感覚が。もちろん何も見えなかった。しかし、吐き出されたものは、それから僕の足元に転がるとこう言ったのだ。
『そんなに食べたら、太っちゃう。止めてよ』
それは、小さな子供の姿をしていた。
なんだか、今回のは厄介そうだ。それを見て僕はそう思った。
(私)
母から手紙が来た。随分と久しぶりなので少し驚いた。私はこの人に思い出らしい思い出は何もない。別に嫌っている訳ではなかったのだけど、なんだか上手く馴染めなくて接点があまりなかったのだ。この二人目のお母さんとは。
手紙には、至極当たり前の儀礼的な言葉が書き連ねてあった。なんで、こんな手紙を寄越したのかと訝しく思いながら読み進めていると、父の事に触れ始め、それとなく結婚を匂わせるような内容になった。
そういえば、こういう人だったか。
それで私はそう思い出す。
二人目の母親は、とても常識的な人で世間体を気にするタイプなのだ。恐らく、私がいつまで経っても結婚しないのが気に食わないのだろう。もしかしたら、父親もそれを望んでいるのかもしれない。
父。
そして私は今度は父親を思い出した。いつも、どこか疲れたような顔をしていた父親を。
父が二人目の母親にこんな常識的なタイプを選んだのは、一人目の、私の本当のお母さんで懲りたその反動だったのかもしれない。ママは、少し変わった人だった。気まぐれ屋で、やや少女趣味の傾向があって、なんというか、子供みたいな人だった。だけど、私はそんなママが大好きだった。
ママはよく私に服を買ってくれた。あまりにたくさん買うものだから、父はよくそれを注意していた。でも、いくら注意されてもママはそれを止めなかった。私が成長すると、それに合わせて服も買い換える。季節に合わせて、たくさん揃える。私もそれが楽しくて、喜んでいた。買い物も楽しかったし、服を使っての遊びも好きだった。部屋の中でよく私とママとでファッション・ショーのようなことをやったのだ。私は友達とは遊ばず、そうやってママとだけ遊んだ。いや、ママが友達だったのだ。
「ダイエットなんで、まだ早過ぎるよ。第一、少しも太ってなんかいないじゃないか」
父親はそんな私とママによく小言を言った。その頃は、私とママはダイエットの真っ最中だったのだ。目的は、服の似合う体型になること。とても可愛い服があって、その服を着こなす為に、私はダイエットをしていたのだ。ママもそれに付き合ってくれた。ダイエットが成功した時は、二人でお祝いをした。その服を着て、外に遊びに行くのだ。ご褒美に、とても美味しいケーキ屋さんに連れていってくれた。本当に楽しかった。でも。
私が中学生になった頃、ママは急に私の前からいなくなった。父と離婚したのだ。もちろん、その気配に私は気が付いていた。だけど、不安は感じていなかった。きっとママは私を連れていってくれる。そう思い込んでいたからだ。信じて疑っていなかった。ママと一緒にいられるのなら、私はそれだけで満足だったのだ。だけどママは私を置いていった。説明もなく挨拶もないまま、突然に消えた。
後には、つまらない父親と、新しい常識的な母親と、それと数え切れないくらいの量の服だけが残った。服だけがあっても、そこにママがいなければ何も楽しくはなかった。私はその服を全部処分した。そして、私はママを憎んだ。私を捨てたママを。
「あの人にとって、あなたは着せ替え人形のようなものだったのよ。飽きちゃったのね、きっと。多分、今頃は他の違う人形を探しているのじゃないかしら?」
これは二番目の母親の言葉だ。
離婚前に何度かママと会っていた二番目の母親は、どうやらママを快くは思っていなかったらしい。理由はなんとなく分かる。明らかに性格の反りが合わない。二番目の母親には、ママが理解できなかったのだろう。この手のタイプの人は、自分に理解できないものを攻撃するような気がする。私はその言葉に何も返さなかった。
捨てられた事はショックだった。憎んでいたのも本当だ。だけど、それでも、ママが悪く言われるのを聞くと、心が痛んだ。
私のママは、今はどこで生きているのだろう? もし、私があの人にもう一度会うとしたら、私は何と言うのだろう?
ママがいなくなってから、私は地味に生きるようになった。人付き合いもそれなりに。付かず離れずの距離を保って。そんな生活をするのが上手くなった。服も当たり障りのない無難なものをできるだけ選ぶようにした。そしてある日に、私は自分に気分障害のような傾向がある事に気が付いたのだ。振り返ってみると、随分と昔から思い当たる点がある。
原因は分からない。心理的なものなのか、体質的なものなのか。それとも、その両方なのか。
いや、気分障害自体は、そんなに問題じゃないのかもしれない。日常生活を送る上で困るような事は何一つ起こってはいない。問題があるとするのなら、その症状としてダイエットをするようになる点だろうか。体重が、体型がとても気になる。ただ、放っておいても勝手に食欲がなくなるから苦痛はない。そのはずだった。
昼休み。
今日も私はソウメンを選んだ。正直、もっと他のものも食べたいのだけど。どうして、今回のダイエットは食欲が沸くのだろう?
今日も、ソウメンゆだる~ 変わらない味。悪い意味で!
「はぁ」
溜息を漏らしながら、私は隣の男の人が歌っていた、あの変な歌を心の中で歌った。これじゃ足らない。隣の人といえば、最近になって私の印象は少し変わった。理屈っぽいのは相変わらずだが、丁寧にプログラムを教えてくれる。印象も少し柔らかく感じた。どうにも、常識の型に嵌った感じの、私の父親のようなタイプではないらしい。
ふと、隣を見てみる。
そこで気が付いた。隣の人が食べているのが、ソウメンではなく、タコライス弁当である事に。思わず、こう尋ねる。
「食欲、沸いてきたのですか?」
するとその人はニコニコと笑いながらこう言って来た。
「なんとか、ね。
良かったよ。身体を壊してしまうところだったから」
何があったのだか。そう思って、ふと下を見て驚いた。なんと子供がいる。女の子だ。誰の子? どうして職場に子供がいるの? そしてもっと驚く点が。
この子、誰かに似ている。
更に、その子が着ている服は可愛いフリフリのついた、いかにもママが好みそうなものだった。そうしている内に、その子と目が合ってしまった。
そして。
『あなた。ちゃんと食べないと、却って太っちゃうわよ』
と、目が合うなり、その子は私に向けてそう言ったのだった。
(僕)
「どうして、太ったら駄目なの?」
と、牛乳を飲みながら僕は尋ねた。するとその子はこう答える。
『お洋服が着れなくなっちゃうから』
「お洋服?」
『お洋服』
見ると、確かにその子は高そうな服を着ていた。可愛く似合っている。やや少女趣味過ぎる気がしないでもないけど。
僕はそれを見ながら、冷蔵庫の前で今度は食後のフルーツを口に運んだ。
『だから、太るって!』
その子はそれに文句を言う。
「これくらい普通だよ」
僕はそれに返しながら、この子が一体何者なのかを考えみた。と言っても、ヒントは今のところ、子供の癖にダイエットをしたがっているという点と、少女趣味の高そうな服を着ているって点くらいだから、考えようもなさそうだけど。
「それに、今までずっとあまり食べてなかったから、その分ね」
僕はそう答えてから訂正した。
「いや、この発想は危険か。ダイエットして却って太るパターンの典型だ」
と、そう言いながらやっぱりそれでもフルーツを食べた。
『じゃ、どうして食べるの~!』
ややヒステリックになりながら、その子はそう怒る。どうにも、ダイエットに相当の拘りがあるようだ。
ダイエット。
そこで僕は思い出す。
ダイエットと言えば、僕の隣にいる女の人もどうやらダイエットをしているみたいだった。毎日、ソウメンを食べている。
そう思ってから、目の前の子をじっと見てみた。彼女と何か関係があるかもしれないと考えたのだ。それから首を振る。
彼女はとても地味だ。こんな高そうな服と縁なんかなさそう。
『どうして、食べちゃうの?』
僕がフルーツを食べてしまった事で、女の子の機嫌は完全に悪くなってしまったようだった。それで仕方なく僕はこう説明をし始めたのだ。
「食べないで痩せるダイエットは、危険なんだぜ。却って太っちゃう可能性が大きいんだ」
すると、女の子は目を丸くした。
『どうして?』
「そうだね。ちょっと想像してみてくれないか? 君は、筋肉と贅肉じゃ、どっちがエネルギーをたくさん使うと思う?」
『筋肉』
「正解。当たり前だけど、筋肉の方がエネルギーをたくさん使う。ところが、食べないでいるとこの筋肉が失われてしまうんだ。これが何を意味するか分かる?」
女の子は少し考えてからこう言った。
『エネルギーを使う量が減っちゃうって事?』
「そう。エネルギーを使う量が減ると、当然、エネルギーは余る。その余ったエネルギーは脂肪になる。つまり、太る。
食べないで痩せるダイエットは、太り易い体質を作ってしまうって事だね。また、飢餓を経験すると、人間の身体は脂肪を蓄え易くしてしまうというのもある。
分かったかな? 食べないで痩せるダイエットは危険なんだよ。運動して痩せる方が良い」
そこまでを聞くと、女の子は不思議そうな顔をしてこう尋ねてきた。
『あなたは何か運動をしているの?』
「してるよ。毎日、風呂に入る前に腹筋と背筋と腰まわりの筋肉を鍛えてる。だから、食べないでいるなんて事はしない」
一応、そう説明してみたけど、僕が運動をしているのはダイエットの為というよりは、健康の為だ。プログラマという職業は、運動不足になりがちな上に長時間座り続けるから、肩こりや腰痛が悩みのタネになる。その対策の為には筋肉をある程度はつけなくちゃいけない。それで僕は、腹筋や背筋を鍛えているんだ。
僕の説明を聞くと、女の子は僕の体型をマジマジと見つめ、妙に納得したような顔になった。多分、僕の言った事が本当かどうか確かめたのだろう。そしてそれから、腹筋を鍛え始めた。本当の肉体を持っている訳じゃないだろう彼女が、それをやって何か意味があるのかは分からない。分からないけど、僕はそれを放っておいた。無理して止めさせるようなことでもないし。
次の日になっても、まだその女の子はいた。朝飯を食べている僕に向けて、『朝ごはんもやっぱり食べた方が良いの?』と、そう質問をしてくる。
「きちんと、朝昼晩で食事を取る習慣はとても重要だね。短期間だけ、無理なダイエットをして痩せようとする人がいるけど、これは根本的に考え方を間違えている。
体型っていうのは、その人の生活習慣がそのまま現れるんだ。だから、長期間続けられるようなものじゃないと意味がない。長くやっていると身体を壊してしまうような類のダイエットは、全て問題があると考えた方が良いだろうね」
『生活習慣?』
「そう。生活習慣。適度な生活習慣を取っていると、自然と身体がその人にとってベストな体重になるように調整してくれる。
セットポイント説っていうのがあるのだけど、それによると、どうもそういう事が起こるらしいよ。
逆にその枠を超えてのダイエットは、意味がなくて、結局、元の体重に戻ってしまうのだとか。ほとんどの場合」
『ふーん』
そのまま出勤の準備をし、いよいよ出かけようかという段になって少し僕は驚いた。女の子が一緒について来ようとしていたからだ。
「ちょっと待って。君も一緒に来るのかい?」
すると、女の子は心外だと言わんばかりの表情になって抗議をするようにこう言った。
『当たり前でしょう? 私だって、あそこで働いているのだから』
それを聞いて、僕は目を丸くしてしまった。一緒に、働いている? とすると、僕に思い当たるのは一人だけだ。
(私)
『あなた。ちゃんと食べないと、却って太っちゃうわよ』
その女の子からそう言われて、私は固まった。その反応を見てか、隣の男の人がこう話しかけてくる。
「やっぱり、君には見えるんだ」
「見えるんだって何の話ですか? 一体、この子は誰の子ですか?」
「この子は人間じゃないよ。恐らくは、君がダイエットをしたがる原因に関わる“何か”だ」
「何か? それって、つまり生霊とかそういう意味ですか?」
「分からないよ、僕には。“何か”としか答えようがない」
私は彼の態度が妙に落ち着いているのが気になった。確かに、私達二人の他には誰もこの子は見えていないようだ。少しも騒ぎになっていない。もし見えていたら、大騒ぎになっているはずだ。つまり、この子は彼が言うように、人間じゃない“何か”なのだろう。それにしても、彼は妙に落ち着いている。もしかしたら、彼は似たような体験をもう何度もしているのかもしれない。
『ちゃんと食べないと駄目だって』
私が黙っていると、女の子はまたそう言って来た。
「この子の言ってる事は間違っていないよ。何しろ、僕が昨日、その子に教えた事だから」
男の人がそう続ける。私はその言葉を無視してこう問い質した。
「妙に落ち着いていますけど、あなたは、こんな体験を他でもしているのですか? こういう、説明できない何かに触れ合うという」
それを聞くと、彼はポリポリと頭を掻いて、それから「ふぅ」と軽く溜息を漏らすと、こう答えた。
「信じてはもらえないかもしれないけど、まぁ、そうだよ。何度も似たような体験をしている……」
それから、その男の人の語った話はちょっと信じられないようなものだった。何でも、彼には妙な特異体質があって、寝ている間に説明のできない存在を飲み込んでしまう事があるのだとか。そして、場合によってはそれはこんな形で現れもする。信じられないけど、信じるしかなさそうだった。何しろ、目の前には実際に信じられない存在がいるのだから。
『食べなくちゃ駄目だよ』
女の子がまた言った。私はそれにこう答える。
「食べなくてもいいの。私はダイエット中なんだから」
それから彼を見ると、私はこう言った。
「一体、この子に何を教えたのですか?」
澄ました顔で、彼はこう答える。
「ダイエットの基本を教えただけだよ」
「ダイエットの基本って何ですか?」
「適度な運動が重要ってこと」
私はそれを聞くと反論した。
「運動に関わる消費エネルギーは、そんなに量は多くないはずです」
ところが、それを聞くと彼はこんな説明をしたのだった。
「その通りだけど、ちょっと違う。運動に関わる消費エネルギーは少なくても、筋肉がある事によって基礎代謝に用いられるエネルギー量は多くなる。要するに、筋肉がある方が、痩せ易くなるのだね。
運動で重要なのは、それ自体のエネルギー消費量よりも、運動によって筋肉がつく点なんだ。因みに、食べる量を減らすと、筋肉が減っちゃうから、消費エネルギーも減って、太り易くなる。その子がちゃんと食べないと太るって言っているのはその事だよ」
私はその説明に渋々ながら納得した。
「問題を解決する場合の基本は何でも一緒。原因を解明して、それを何とかする事。人間の身体にどうして脂肪がつくのか、その仕組みを知らないままでダイエットをやっても上手くいかないよ。いや、表面上は上手くいったように見えても、裏に他のもっと大きな問題が隠れてあるかもしれないんだ。言ったろう? トライ&エラーは危険だって」
それからその男の人は、続けてそう説教してきた。私はそれで自分の父親を思い出す。嫌な気持ち。しかし、それから彼はそれを吹き飛ばすような笑顔でこう続けたのだ。
「まぁ、前置きはこれくらいにして、この子の事を考えてみよう。どうして、この子が僕の許に現れたのか。
大丈夫、心配しなくて良いよ。何度も言うけど、基本は同じだから。原因を解明して、それを何とかすれば良い。バグを取り除くみたいな感じでね。それに、こういう問題を解決すると、大体の物事は前よりも良くなって、上手く進むようになるものなんだよ。少なくとも、僕の経験上はそうだった」
“大体の物事は前よりも良くなって、上手く進むようになる”
そんな台詞は、父親の説教には一回も登場した事はなかった。父は何でも型に嵌める事ばかり考えていたから。世間体とか、常識とか。そういう事しか考えていなかった。この人は、私の父とは違うんだ。それで、私はそう思った。そしてだからなのかもしれない。私は素直にこの人に相談してみる気持ちになったのだ。ダイエット。間違いなくこの子はママに関わる私の何らかの感情から発生している。
(僕)
夜中。仕事が終わってから、軽く食事できる店に入って、彼女の話を聞いた。僕の許に現れたあの女の子が何者なのか、どうも彼女には思い当たる節があるようだった。
話を聞いてみると、複雑な事情があるのだと分かった。自由奔放で常識に囚われない子供のような母親と、常識的な父親と継母。自分の好きな母親が、自分を見捨てたというショック。そして、それに伴う母親への憎悪。また、父親と継母に対してある小さいけれど確かにある嫌悪。更に、どうも彼女には気分障害の傾向があるらしかった。そんなに重いものではないらしいけど。その気分障害の時期の一つに、彼女はダイエットがしたくなるのだそうだ。その時期は食欲がなくなるらしいのだけど、今回は何故か食欲があるとも言っていた。
「それでずっと忘れていたのだけど、最近になって思い出したんです。そういえば、子供の頃、ママと一緒にダイエットをやったなって。父はそれを諌めましたが、結局は目標まで体重を落としました」
彼女はそう言うとウーロン茶を飲んだ。コロンと氷が鳴る。食事も、彼女はサラダと豆腐くらいしか食べていない。理屈では、既に食べないで痩せるダイエットは駄目だと納得したはず。でも、恐らくは感情が追いついていないのだろう。
僕は、軽く溜息を漏らした。足元では、無邪気に子供の頃の彼女が遊んでいた。僕はそれを見ながら言う。
「この子が何なのかは、それで大体分かったね。まぁ、母親に甘えようとしている子供の君だよ」
半ば予想していたのかもしれないが、それでも彼女はその言葉に怯えたようだった。
「君は母親を憎もうとしながら、それでもその反面では、母親の存在に縋ろうとしているのだと思うよ。そして、その気持ちを必死に隠して生きてきた。
無理にそんな地味な服を選ぶ必要なんて、本当はなかったのじゃない? 君が敢えてそんな姿をしているのは、君を着飾らせようとした母親への反発かもしれない。でも、そうやって反発しようとするのは、君の中で母親が重要な意味を持っているからだよ。反動形成って知ってる? 自分の抱いている願望とは反対の事をしてしまうって精神分析学の用語なのだけど」
その僕の話には、彼女は何も応えなかった。だけど、しばらく経ってから、まるで独り言のようにこう言った。
「私はずっと、ママに甘えたくて仕方なかったのでしょうか?」
「さぁ? ただ、君がダイエットしたくなる時期に感じてしまう、見捨てられるかもしれないっていう不安の根には、間違いなく母親と別れなくちゃいけなかった、その経験があるとは思うよ。
君の気分障害は、体質的なものなのかもしれない。けれど、それがそんな形で現れるのは、多分、その経験の所為だ」
相変わらず、無邪気に足元で子供の頃の彼女は遊んでいた。ママのご機嫌を取る為に、彼女は可愛く着飾ろうと、服の似合う自分になろうと懸命になっている。健気だ。
「私はママを憎んでいた」
また、独り言のようにそう彼女は言った。しかし、それからこう続ける。「いえ、違うのかもしれない。本当は、ママに否定された自分をなんとか護ろうとして、そう思おうとしていただけなのかも」。自分に言い聞かせるようにして。そしてその後で、店員に向かって注文をした。
「あの、すいません。お茶漬けをもらえますか? 梅茶漬けを」
僕はそれにこう言葉を添えてやる。
「そうかもしれないね。自分を捨てた母親を認めてしまうと、その母親から認められる事で自分の価値を作ってきた子供の君は、自分をどう位置付ければ良いのか分からなくなってしまう。だから、母親を否定しようとしたのだろう」
その言葉に彼女は頷いた。
「だから私は、なんとかママから離れようとした。ママがやったのとは逆に、地味な姿でいようとしたり、無難に生きたり。でも」
また、ウーロン茶を飲み、それから続ける。
「本当はずっと、ママを求めていた」
そう言った彼女の瞳には、何か力が蘇っているように僕には思えた。答えが見えて、カタルシスが起こったのかもしれない。
「君は気付いていないみたいだから、補足すると、君は本当は母親から見捨てられてなんかいなかったのかもしれないよ。子供の頃の君に理解できなかったのは無理もないけど、君の母親の経済力は低かったのじゃないかな? とてもじゃないけど、君を抱えて生活できるような境遇じゃなかったのかもしれない。もちろん、貧乏生活覚悟ならそれも良かったかもしれないけど、君の事を想うとそれもできなかった……」
それを聞くと、彼女は顕著に反応した。
「なんで、そう思うのですか?」
「挨拶も何もなしに、君の母親は君と別れたと言っていただろう? 君を溺愛していたはずなのに、その行動は明らかに不自然だ。なら、会ってしまうと別れる決心が揺らぐからだと思った方が正しい気がする。
子供みたいな人だから、そんな行動パターンはないと君は思い込んでいたのじゃないか? いや、ずっと母親の事を考えないようにしていたから、気付いていなかっただけかもしれない」
その僕の話を聞いている最中に、彼女は目に涙を溜め始めた。そして、そう僕が言い終ると、こう一言。
「ママ…」
ふと気付くと足元にいたはずの子供の頃の彼女の姿は、消えていた。
(私)
「ママ…」
彼の話を聞きながら、私はママがどんな人なのかを思い出していた。確かに、ママには経済力なんかないはずだ。どんなにがんばっても、私に辛い生活を強いる事になる。それに惨めな自分の姿だって見せたくはなかったはずだ。父との間で、どんな話し合いがあったのかは分からないけど、ママが自分の思いを抑えながら、養育権を父に譲ったのは想像に難しくない。そしてだからこそ、ママは私に会わずに去ったし、それから私にもう二度と会おうとはしなかったのだと思う。
大人になった今なら、ママの気持ちを理解できる。でも、長い間ママを想うことを避けていた私は、そんな事にも気付けないでいたんだ。
私は多分、本当は避けてはいけないものを避け続けてきたのだろう。もしかしたら、その結果として現れたのが、あの子だったのかもしれない。
「問題を解決するには、原因を追究することですか。今、初めてその意味を実感できたような気がします」
それから私は彼に向けてそう言った。そういえば、どうしてあの子は彼の許へ行ったのだろう?とそう思いながら。
「それはちょっと困るな。バグ解決で実感してもらわなくちゃ」
彼は笑いながらそう返す。それから、こう続けた。
「精神分析学の用語で、カタルシスってのがあってね。これは、自分を悩ましていた本当の原因に気付いた時に、精神の浄化作用が起こるってものなんだけど、実はこれだけじゃ解決に至らないケースが多いって事が知られている。一時的な効果しかないんだね」
私はちょっと考えると、それにこう返した。
「原因を“なんとかする”部分が抜けているからですね」
「まぁ、多分そうだね。原因が分かっても、それを取り除かないと問題が解決できないのは当然の話。
ただ、これから先が厄介なんだ。何故だと思う?」
「さぁ、分かりません」
「人間の心は直接観察できないだろう? だから、仕組みを理解しないままそれをやるしかないからだよ。
つまり、トライ&エラーでやっていくしかないって話。これが、また長い道のりらしいんだ。なにしろ、自分を見つめて変えていくってのはかなりの時間を要するし、大変な作業だから。
ただ君はもう大丈夫かもしれない。少なくとも、それをやる為の能力は身に付けているような気がする」
そう言うと一度彼はそこで言葉を切り、一呼吸の間の後で少し笑うこう続けた。
「プログラミングはちょっと心配だけどね」
「それは言いっこなしです」
ちょっとおどけてそう返しながら、私はどうして子供の頃の自分が、この人に吸い込まれたのか分かった気がした。多分、こうして色々な事を教えてくれるこの人に、私は親的な存在の姿を重ねていたのだろう。だから、初めは嫌悪していた。そして子供の頃の私はこの人の許へ行った。でも、親の役割を重ねつつもそれでもこの人が親とは違うと分かって、多分それで、子供の私はこの人から吐き出されてしまったのだ。
そのうちに、先に頼んだお茶漬けがやってきた。もうママに捨てられる恐怖は感じなくて良い。いや、そもそも食べないで痩せるダイエットは行うべきじゃないのだけど。とにかく、もう無理して食べないでいる必要はないんだ。
そう思うと、私は思い切りお茶漬けを口の中にかき込んだ。彼は笑ってそれを見ていた。
それから数日後、彼が当初の予定通りにこの職場を離れる話を聞かされた。
あれから一度も彼と一緒に食事をするような機会はなかった。私は少し派手な服を着るようになっていて、その変化について彼が何かを言ってくれないかと期待したけど、何もなかった。別れる前日になっても、やはり何もなかった。
私は電話番号を彼から聞いた。もしも、バグがあったら質問をしたいから、という理由で。彼は快く教えてくれた。ただ、バグがあって欲しいと願ったけど、それはなかった。流石に外部から来た専門家だけのことはある。わざと、私と話をする為にバグを残す、なんて事をしてくれていないかとも少し願ったけど、そういうタイプでないのは分かっていた。
何の用がなくても、電話をしてしまおうかと少し悩んだけど、悩んでいる内に時間が過ぎ、どんどんと電話をし辛くなってしまって、結局は私は電話をしなかった。
彼も電話を期待してくれていないかなんて、そんな淡い想いを抱きつつも、時間は過ぎ、やがては彼の事を思い出す機会も少なくなっていった。
(僕)
彼女の着ているものは、一緒に話をした次の日から少しずつ派手になっていった。ただその方がむしろ自然な気がして、似合っているように僕には思えた。
彼女があの日に何を吐き出し、何を乗り越えたのかは分からない。分かっているのは、恐らくはもう彼女は大丈夫だろう、という事だけだ。
あれからの毎日を、彼女に接しながら、僕はそう思っていた。
予定通りに、僕がこの職場から出て行くのが決まった。充分にヘルプの役割を果たしたと思うから後悔はない。彼女から電話番号を聞かれて、少し驚いた。もしもバグがあったら質問したいのだそうだ。今までにも何度かこういう事があったけど、実際に電話がかかってきたのは数回しかない。恐らく、電話はかかってこないだろう。
ただ、僕は少しだけ期待してもいた。プログラムの質問なんかじゃなくて、個人的な理由で彼女が電話をかけてくれる事を。
もちろん、そんなのは僕の身勝手な妄想の類なのだろうけど。