第一章 視ヲ奪フ
じりじりと焼ける様な日差しが、アスファルトに濃い影を落としている。
女物の白い傘を片手に、楠木 薫ぐったりとした様子で坂道を登っていた。透ける様な長袖のブラウスとロングスカートという姿は遠めには若奥様そのものだ。だが、そのつややかな赤い唇からは容赦無い文句が次々と漏れていた。
「………暑すぎ。死ぬわよこんなクソ暑いと。……地球温暖化どうなってんのよ。で、何でアタシがこんなクソ暑い日に山の上にあるボロアパートに来なきゃいけないわけ。」
目の前に居る男を睨み付け言う。麦わら帽子を片手に持ち淡い水色のシャツを着た男――京極堂 白菊が振り返り微笑みを浮かべる。その顔がまた腹立つくらい涼し気で薫は舌打ちを何とか飲み込んだ。
白菊はペットホテルの水を薫に差し出した。
「何でって……僕が呼んだからだよ?」
コテンッと小首を傾げるその姿にまた舌打ちを飲み込んだ。
「アンタ、可愛い顔して言えば何でも許されると思ってんじゃないわよ。」
水をひったくるようにして受け取り、キャップを開けてゴクリと喉を鳴らし水を流し込む。そして目の前に聳え立つ建物へと視線を向けた。古びた外階段と、すすけた灰色の外壁。まるでそこだけ時代の流れに置き去りにされたかのようなアパートだった。
「ここが、消えたってこの住んでたアパートね?」
「うん。大学の後輩だったんだけどね…。同じ小説のサークルに入っていて週末に新作の原稿を見て欲しいって言われて会う約束をしていたんだけど連絡が取れなくなったんだ。で、最後にその後輩と話をしたって子に色々聞いてたら、その後輩が消えた日に電話をした人が居てね。その人が言うには電話中に突然何かに怯えて叫んでいたって。それから連絡が一切繋がらなくなって直ぐに警察に通報したらしいんだけど警察は家出だろうって取り合ってくれなかったらしい。」
「はぁ?警察ってば何してんのよ。」
「鍵は掛かっていてピッキングや押し破られて侵入された形跡が無い事から家出扱いになったらしい。」
白菊の説明を聞いていた時、薫の目が鋭くなり白菊の前に立った。白菊はその表情をみてアパートに目を向けた。
「いるの?」
「多分ね。絶対に、アタシの後ろから離れないこと。いいわね。」
薫のその表情、白菊がよく知っている顔だった。―――人では無い何かを感知した時の、霊能者の顔。
二人はゆっくりとアパートの中へ入る。鍵は白菊が事前に管理人から預かっていた。どうやって借りたのかは薫はあえて聞かなかった。どうせ聞いてもろくな事は無い。
室内は静かだった。生活感はあるがどこか空っぽな印象を覚えた。空気が濁っている。埃では無い。もっとこう……何かが居座っているようなそんな圧を覚えた。そして、部屋には何か特徴的な匂いが漂っていた。
「お香の匂い………かな。」
「いや……これは……墨の匂いじゃない?………白菊、そこ近づかないで。」
中に足を踏み入れようとした白菊を止めた。薫の視線の先には一枚の半紙が机の上に置かれていた。白く、滑らかな紙面には異様な文字列が並んでいた。ぐねぐねと歪んだ筆致。明らかに現代の文字では無い。意味不明な文体に黒々とした墨の文字が浮かび上がっている。
薫が半紙に近づき手をかざし霊力の流れを読み取る。霊力は今は微力だが強い怪異の気配がした。この半紙が白菊の後輩が行方不明になった原因だと考えられた。
「………これは怨霊ね。」
「怨霊…?」
「詳しい事は分からないけど、これは典型的な視認型呪物。この文字を書いたり読んでしまうと呪いが伝染するタイプ。」
その瞬間、部屋の空気がひときわ冷たくなった。咄嗟に薫が白菊の前に出て背中に庇う。半紙の文字から、じわりと墨のような何かが這い出して来る。人の手の形を模したような黒い指先・五本の指が机の上を這いながら此方に寄ってくる。紙から生える手が白菊に伸びる。薫は懐から塩の入った袋を取り出し勢いよく撒いた。墨の手は紙の文字の中に消えていき部屋の気配が消えた。




