妹に「死神公爵」を押し付けられましたが、彼が唯一触れられるのが私だったようで、溺愛が止まりません~今さら「聖女の力」と言われても手遅れです~
その日、私は愛する婚約者と、実家での居場所のすべてを失った。
「というわけだから、お姉様。カイル様は私がいただくわね」
伯爵家の応接間。
豪奢なソファに座り、鈴を転がすような声で残酷な宣告をしたのは、二つ下の妹ミレーヌだった。
彼女の隣には、昨日まで私の婚約者だったカイル様が寄り添っている。
「すまない、オルタンシア。だが、君のような地味で魔力のない女より、次期聖女と名高いミレーヌの方が、僕の将来にふさわしいんだ」
カイル様は申し訳なさそうな顔ひとつせず、そう言い放った。
私は、膝の上で握りしめた拳に力を込める。爪が食い込んで痛い。でも、心の方がもっと痛い。
「……わかりました。婚約破棄、受け入れます」
「物分かりがよくて助かるよ。ああそれと、君の行き先も決めておいたから」
カイル様がテーブルの上に一枚の書状を投げ出した。
そこに記された家紋を見て、私は息を呑む。
漆黒の盾に、絡みつく茨。
それは、「死神公爵」と恐れられるジークハルト・フォン・ヴァイオレット公爵家の紋章だった。
「ヴァイオレット公爵……!? 近づく者すべてをその瘴気で腐らせて殺すという、あの……」
「そう! 公爵家から『魔力持ちの花嫁』を要請されていたのだけれど、私が嫁ぐなんてありえないでしょ? だからお姉様、譲ってあげる」
ミレーヌがふふっと笑う。
それは結婚ではない。生贄だ。
魔力のない私が、強大な魔力を持つ公爵のそばに行けばどうなるか。
数日で身体が蝕まれ、死に至るだろう。
「……私が死んでもいいと、そう仰るのですか」
「あら、人聞きが悪い。公爵夫人になれるのよ? 感謝してほしいくらいだわ」
両親も、黙って頷いている。ああ、この家に私の味方は最初からいなかったのだ。
私はゆっくりと立ち上がった。
涙は流さない。これ以上、彼らに惨めな姿を見せたくない。
「わかりました。ヴァイオレット公爵のもとへ参ります」
「せいぜい長生きできるように祈っているよ、オルタンシア」
嘲笑う彼らに背を向け、私は部屋を出た。
もう二度と、この敷居を跨ぐことはないだろう。
◇
王都から馬車で三日。
深い森の奥に、ヴァイオレット公爵邸はあった。
屋敷の周囲には黒い霧のようなものが漂っており、御者は震えながら「こ、ここまでで勘弁してください!」と私を門の前に降ろして逃げ帰ってしまった。
重い鉄の扉を開け、手入れのされていない庭を歩く。
肌がピリピリする。これが噂の瘴気だろうか。
屋敷の扉をノックすると、顔色が悪く、防護マスクのようなものをつけた老執事が出てきた。
「……どちら様で」
「本日よりこちらに嫁ぐことになりました、オルタンシアと申します」
「なんと……本当にいらっしゃるとは。すぐに旦那様にお伝えします。ですが、決して旦那様には近づきすぎませぬよう」
案内されたのは、広大だが冷え切った謁見の間だった。
部屋の最奥、数段高くなった玉座のような椅子に、その人はいた。
ジークハルト・フォン・ヴァイオレット。
銀の髪に、血のように赤い瞳。
この世の物とは思えないほど美しいが、その全身から溢れ出るどす黒いオーラは、視認できるほど濃かった。
「……帰れ」
第一声は、氷のように冷たい拒絶だった。
「金なら払う。実家に送り返してやるから、今すぐ私の視界から消えろ」
「そういうわけには参りません。私は生贄として差し出された身。帰る場所などないのです」
私が一歩踏み出すと、ジークハルト様が顔をしかめた。
「死にたいのか! 俺の周りには致死性の魔力が常に漏れ出している。普通の人間なら、五分といられずに血を吐いて倒れるぞ」
「……」
確かに、空気が重い。
けれど、不思議と苦しくはなかった。むしろ、実家にいた頃の針の筵のような空気より、ずっと清浄に感じる。
「平気、です」
「は?」
「貴方の魔力、私には効かないようです」
私はさらに歩を進める。
執事が「お嬢様、それ以上は!」と悲鳴を上げるのを無視して、私はジークハルト様の目の前まで進み出た。
そして、玉座の肘掛けを握りしめている彼の手――手袋越しでも震えているその手に、そっと自分の手を重ねた。
「ッ!?」
ジークハルト様がビクリと肩を跳ねさせ、私を振り払おうとする。
けれど、私は離さなかった。
「……あたたかい」
私の口から、自然とそんな言葉が漏れた。
恐ろしい死神の手。けれどそれは、誰かのぬくもりを求めて凍えている、ただの人の手だった。
「な、ぜだ……?」
ジークハルト様が、信じられないものを見る目で私を見つめる。
「痛くないのか? 苦しくないのか? 吐き気は? めまいは?」
「ありません。ただ、少しドキドキしています」
「お前……名前は」
「オルタンシアです、ジークハルト様」
彼はゆっくりと立ち上がり、おそるおそる私の頬に触れた。
手袋を外し、素手で。
ひやりとした指先が、私の肌を滑る。
「……触れられる。燃えない。腐らない……」
彼の赤い瞳が揺らぎ、そこから一筋の涙がこぼれ落ちた。
次の瞬間、私は強い力で抱きしめられていた。
「ずっと……ずっと、一人だった。誰にも触れられず、怪物として生きるしかないと思っていた」
耳元で聞こえる声は、震えていた。
「オルタンシア。俺の救い。……もう、絶対に離さない」
その言葉は呪いのように重く、そして甘く、私の心に絡みついた。
◇
それからの生活は、まさに劇変だった。
私がそばにいると、彼の暴走する魔力が中和されるらしい。屋敷の黒い霧は晴れ、使用人たちもマスクを外して働けるようになった。
何より、ジークハルト様の溺愛ぶりが凄まじかった。
「シア、あーんして」
「ジーク様、食事くらい自分で食べられます」
「だめだ。俺が食べさせたい。君が可愛すぎて、片時も目が離せないんだ」
仕事中も私を膝の上に乗せ、寝る時も同じベッドで抱き枕にされる。
冷徹無比と言われた公爵様は、中身はただの甘えん坊だったようだ。
ドレスも宝石も、今まで見たこともないような最高級品が次々と贈られた。
そんなある日。王宮で建国記念パーティーが開かれることになった。
公爵夫人として、私もジークハルト様と共に参加することになる。
「行きたくないなら、断ってもいいんだぞ? 俺たちが揃って出れば、騒ぎになる」
「いいえ、参ります。貴方の隣に立つのにふさわしい妻だと、証明したいですから」
それに、ケジメもつけたかった。
◇
煌びやかな王宮のホール。
私がジークハルト様にエスコートされて会場に入ると、音楽が止まり、静寂が広がった。
「あれは……死神公爵?」
「隣にいる美女は誰だ?」
「まさか、あの捨てられた姉か?」
ざわめきの中、見覚えのある二人が近づいてきた。
カイル様とミレーヌだ。
しかし、二人の様子はおかしい。カイル様はやつれ、ミレーヌのドレスは以前よりも質素なものだった。
「お、お姉様!? 生きていたの!?」
ミレーヌが素っ頓狂な声を上げる。
「ええ、見ての通りよ。ごきげんよう、ミレーヌ、カイル様」
「な、なんで……! 死神のそばにいて無事なわけが……」
「おい、オルタンシア!」
カイル様が焦ったように割り込んできた。
「君がいなくなってから、家の商売がガタガタなんだ! 帳簿の管理も、取引先との交渉も、全部君がやっていたなんて聞いていないぞ!」
「あら、引き継ぎ書は置いていきましたけれど? ミレーヌには無理でしたか」
「うるさい! とにかく戻ってこい! 今なら側妻にしてやってもいい!」
呆れてものが言えない。
私が口を開こうとすると、腰に回された腕にぐっと力が込められた。
ジークハルト様が一歩前に出る。
その瞬間、ホールの空気が凍りついた。
「……私の妻に対して、ずいぶんな言い草だな」
殺気。
純粋な死の気配が、カイル様とミレーヌを襲う。
「ひっ、あ、あ……」
二人は腰を抜かし、その場にへたり込んだ。
周囲の貴族たちも青ざめて後ずさる。
「このオルタンシアは、私の唯一の愛し子だ。彼女に触れていいのは私だけ。彼女を侮辱する者は、この国から消えてもらう」
ジークハルト様はそう宣言すると、皆が見ている前で私の前に跪き、手の甲に口づけを落とした。
「愛している、シア。君を捨てた愚か者たちには礼を言わねばな。おかげで君という宝石を拾えたのだから」
美しい公爵様が、跪いて愛を乞う姿。
それはまるで絵画のように美しく、会場からはため息が漏れた。
「――っ! 私も! 私も公爵様がいい!」
その時、錯乱したミレーヌが叫びながらジークハルト様に飛びかかろうとした。
「お姉様だけずるい! その地位は私のものよ!」
聖女の仮面もかなぐり捨て、欲にまみれた顔で手を伸ばす。
しかし。
「ギャアアアアッ!」
ジークハルト様に触れる寸前、ミレーヌの指先が黒く変色し、彼女は悲鳴を上げて転げ回った。
「愚かな。シア以外が私に触れればどうなるか、知らなかったわけでもあるまい」
ジークハルト様は冷酷に見下ろす。
彼が意識して魔力を抑えているのは、私に対してだけ。それ以外には、彼は変わらず「死神」なのだ。
「衛兵、つまみ出せ。不敬罪で地下牢へ。……その男も同罪だ」
カイル様とミレーヌは、騎士たちに引きずられていく。
「助けてくれ!」「私が聖女よ!」という叫び声が遠ざかっていった。
静まり返る会場で、ジークハルト様は私に向き直ると、甘く微笑んだ。
「さて、邪魔者は消えた。踊ろうか、私の愛しいお姫様」
差し出された手。
私は迷わずその手を取った。
温かくて、大きくて、優しい手。
もう二度と、この手を離すことはないだろう。
私は満面の笑みで答えた。
「はい、旦那様!」
最後まで読んでいただきありがとうございます!
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