敗走
若い歩哨は、星の瞬く空を眺めていた。朝焼けが始まり、しだいに赤々と山を染めている。妙な細長い雲が一筋、そこに浮いていた。
「こんなものすごい朝焼けは、見たことがない。血の色みたいだ」
「嫌なこと言うなよ。それにしても、鳥の声が聞こえないな」
同僚が眠そうな声で答えた。結局、若い歩哨は舞い戻って来て、同僚と二人で夜を明かしたのだった。
「野営地の方で、煙がたくさん上がっているぜ。メシの支度かな」
「それにしちゃあ、すごい煙だ」
その言葉が終わらないうちに、またひと揺れやってきた。
「今度のは小さかったな」
「うん。それより、おまえ。聞こえないか?」
二人は耳を澄ませた。
人の足音がやってきた。
「おい」
二人は、ほっと息を吐いた。
「なんだ、おまえか」
「なんだじゃないぞ。軍が動いた。おまえたちも合流しろ。見張りは終わりだ。……まったく、時間になっても戻って来ないもんだから、わざわざ呼びに来させられたんだぞ」
男はぶつぶつ言った。
「悪かったよ。あっちから来るのが、そうかい?」
「あっちだって?」
一瞬、沈黙があった。
「ばかやろう。あれはアヴァールの軍だ。逃げろ」
男たちは悲鳴を上げて、自軍の方へ駆けて行った。
アリウスたちの予想通り、両軍はガルガン渓谷で衝突した。狭い谷では馬も役に立たず、白兵戦が展開された。
始め、アヴァール軍が優勢だった。峡谷の上に伏せておいた兵が次々と矢を射かけて王の兵士を斃していく。後方の混乱で期待していた後詰の隊が、なかなかやって来ないため、王の一隊は苦戦した。
「今のところ、いいようだな」
キーリング・グマンが部下の報告を受けて言った。みな戦場に出ていて、前線の幕屋の中、彼とアリウスの他には誰もいなかった。
「ドゥマーは出てこないな」
キーリングがつぶやく。
「そっちの方も、こちらが優勢のようだ。やつの動きは封じてある」
椅子に座り、目を閉じていたアリウスが答えた。
「何もしていないように見えるが……」
「私には儀式も祭具も必要ない。ただ、念じるだけだ」
「おまえのやり方は、変わっている」
「そうか?」
答えたとき突然、アリウスが左胸を押さえて、屈み込んだ。
「アーサー」
キーリングが腰を落とし、友の名を呼んで彼を支えた。
アリウスの顔は、死人のようだった。
「ユーリが……死んだ」
同時刻、王の幕屋の祭壇の前で祈り続けていたドゥマーが叫んだ。
「捕まえたぞ、アリウス・ハザール」
アヴァールの陣では、至る所に青白く燃えた幽鬼の兵士が出現した。これにアヴァールの兵たちはひるんだ。幽鬼の兵に触れると、人がばたばたと倒れた。
「ドゥマーめ、隙に乗じてきたな」
アリウスは立ち上がった。
白い光が、幽鬼の兵士を消してゆく。それに勇気づけられて、アヴァールの兵は鬨の声を上げ、突き進んでいった。
彼らが勢いを盛り返したとき、空を切って矢がどこからか、黒い矢が飛んできてアリウスの背に刺さった。
彼は小さな叫び声を上げ、片膝をついた。
キーリングはアリウスに近寄って、肩を抱いた。しかし、その手には短剣が握られていた。
「キーリング、やはりおまえか」
「苦しまないよう死なせてやるよ。おまえの死が停戦の唯一の条件なんだ」
「その前に、話を聞け」
「命ごいは聞かぬ」
二人はもみ合った。
けれども傷を負ったアリウスにいつもの力はなく、キーリングを跳ね除けることは出来なかった。心臓を狙うキーリングの腕を掴もうとしたが果たせず、一方、キーリングは手が滑って、アリウスの腹部に深々と短剣を突き立てた。
「愚か者が……」
言葉と共に、アリウスの口から一筋の血が流れる。
「まあ、いいさ。生き残ろうとは思っていなかった。あいつが死んだ今となっては……」
「すまない、アリウス。私には、こうするしか……」
「聞け、キーリング。あと少ししたら、モデナ山が噴火する」
「なんだって?」
「山が噴火したら、兵を引け。峡谷は崩れ、平原には火の川が流れるだろう」
「〝エクトゥスの秘儀〟か。しかし、なぜ私に?」
「おまえしか、あとを頼める者はいないだろうが」
その言葉を聞いて、キーリングの全身が震えた。
「ばか……な。ああ、私は何ということを」
彼は地に伏し、声を上げて泣いた。
「許してくれ、アリウス。私は……」
「死ぬなよ、キーリング。自分を責めるなら、生きろ。闘え。王が手を差し出したら、和を結べ。一族の独立を保て。自由を……」
アリウスが言葉をとぎらせたことで、キーリングが慟哭した。
そこへ、ハーバーズがやってきた。そしてひと目で、すべてを見て取った。
「キーリング、きさま!」
彼は剣を抜いて、キーリングに切りつけた。
「やめろ、ハーバーズ」
アリウスが苦しい息の下で、やっとのこと言葉を絞り出した。
彼は血を吐き、むせた。
それに気を取られたハーバーズの隙をついて、キーリングは身をかわし、立ち上がった。
キーリングは涙を拭いもせずに告げた。
「私には為すべきことがある。むざむざ死にはせぬ」
そして身を翻すと、姿を消した。
「きさま、許さん!」
ハーバーズは歯噛みしたが、すぐにアリウスのそばに駆け寄って、彼を抱き起した。
「アーサー、しっかりしろ。手当をするからな。ああ、オレにミリウスのような治癒能力があったら、こんな傷、すぐに治せるのに」
彼は自分の服を引き裂いて、血を止めようとした。しかしアリウスは手を振って、それを制止した。
「無駄だ、ハーバーズ。自分のことは、よく知っている……」
「アリウス、気を強く持て」
ハーバーズはそう言いながらも、アリウスの流した血の多さに胸をつかれた。
彼の身体も手も、アリウスの血で染まっていた。
「……生命は、どこへ行くんだろうな。死に、生まれ、一族もそうして続いていくんだろう。今度、生まれるときは……」
「アリウス。アーサー、何と言ったんだ?」
ハーバーズが叫んだ。
アリウスの全身から力が抜けた。
ハーバーズには、すべての感覚がなくなったように思えた。
「ちきしょうっ」
彼はアリウスを抱きしめながら、悲しみとやりきれなさに大声で叫んだ。
そのとき、大地が大きく揺れた。轟音が天にまで届き、モデナ山から火の柱が上がった。噴煙がみるみるうちに広がり、辺りに灰を降らせ始めた。
木々が白くなる。
ハーバーズはアリウスを背負うと天幕を出、噴石を避けながら歩き出した。
砦にいた長老は、遠見によってすべてを知った。
「アリウスが死んだ。我らの軍も壊滅状態だ」
「そんな……」
ミリウス・シンドが、悲痛な表情をした。
「では長老。手筈通りに」
若き僧・ミリウスは悲しみに耐えながら、人びとを集めた。女性と子ども、老人と怪我や病で身動きの出来ない者、そして幾人かの僧がいるばかりだった。
人びとは荷物をまとめると、助け合いながら砦の地下へやってきた。
地下には、大きな鉄の門があった。
ミリウスが鍵を差し込み、門を開けた。そこには暗闇が広がっている。
彼は松明を片手に持つと、先頭に立って歩き始めた。
人びとも手に明かりを持ち、そのあとに続いた。しかし、グマン家につながる者だけは、こっそり森に逃げた。
人けのなくなった砦の中を、長老は歩き、残っている者はいないか捜した。
「グマンは従わなかったか。それも良かろう。彼らは王の下で、我らは別の土地で。それも、致し方のないことかの」
長老は最後に地下へ降り、門を固く閉めた。




