別れ
アヴァールの先々代の僧会の長は、事あることを予見して砦を築いた。そのため、彼らの砦は石造りの城のような大きく強固なものとなっていた。
門を闇に紛れて、奇襲軍が列を連ねて出てゆく。
それを砦の城壁の上から見ている女がいた。長い栗色の髪が艶やかな、美しい女だった。その横顔は、僧ミリウスに似ていた。着ている衣も上等な物で、その腹部が少し大きかった。
女は身じろぎもせず、隊列を見つめていた。
その彼女は後ろから、ふわりとマントをかけた人物がいた。
「アリウス……あなた」
振り返った女の顔が輝いた。
「エリジェーヌ。夜風は身体によくない」
アリウスは無表情なまま城壁の縁に手を置いて、下を見た。
「ユーリたちを見送っていたのか」
「……ええ」
「私も、じきに出る。この砦は僧と女子供ばかりになるだろう」
エリジェーヌの顔から、血の気が引いた。彼女は何かを決心したかのように真剣なまなざしで、夫に語りかけた。
「あなた……申し上げたいことがあります」
「お腹の子の父親のことか?」
夫は表情も変えずに冷ややかに言い放った。
「知って……」
彼女は青ざめた。
「そうだ」
「なんて人」
エリジェーヌの胸に、怒りがこみ上げてきた。
「では何故、私を……私たちを掟に従って殺さなかったのです」
「おまえは何故、今それを言おうとしたのだ?」
「それは……」
問い返され、エリジェーヌは、言葉に詰まった。
「政略で結婚し、おまえを無視し続けた私への復讐か?」
「……そうかもしれない」
彼女は無意識のうちに、左の小指を噛んでいた。
「いいえ、嫉妬だわ。あの人に対する」
顔を上げたエリジェーヌは夫を責めた。
「あなたはいつもあの人の前では上機嫌で、私と仲の良い夫婦を演じていたわ」
「だから誘惑したのか。ユーリを。あれは一人前の戦士とはいえ、おまえより年下で、まだ子どもだったのに」
「そうよ」
夫の詰問に、エリジェーヌはそっけなく答えた。
「私には分かっていたわ。あなたが愛していたのは、あの人だけだったのよ」
アリウスは、その固い表情を和らげた。
「当然だ。あれは、私のたった一人の肉親。ヴァラビの姓を名乗っているが、私の異母弟なんだ」
「なん……ですって?
妻の反応を見て、アリウスは皮肉っぽく破顔った。
「いつもそうだ。おまえとは言い争いになってしまう。穏やかに別れを言いたかったのにな」
彼は、もたれていた城壁から身体を離した。
「エリジェーヌ、愛のない結婚だったが、嫌ってはいなかった。まして、その子はユリウスの子だ。憎めるはずもない。生き延びて、よい子を産め」
若き長は妻に告げると、振り返りもせずに立ち去って行った。
あとに一人残された妻は、肩を震わせていた。そして、マントの端に、そっと口づけた。
「アリウス……あなた……」
彼女は、いつまでも忍び泣いていた。
一方、砦を出てゆく軍の兵士たちの幾人かは、後ろを何度も振り返っていた。しかし、それもやがて闇に溶けて見えなくなった。
隊列の中央で馬に揺られながら、シオデがユリウスに話しかけた。
「おい、ユーリ。砦が見えなくなったぞ」
「ああ……」
「見送りが、ずいぶんいたようだ。みな、まだ後ろに気を取られている。おまえにも、見送ってくれる人は、いたのか」
「見送り……」
ユリウスの心に、一人の女性の面差しが浮かび上がった。
(あの人は、私を利用しただけだった。夫の愛を取り戻すために。いや、あのふたりに家庭の温かさを求めたのかもしれない……)
彼は、心の中でつぶやいた。
「家族はとっくの昔に、みな死んだ。そんな人は誰もいない」
ユリウスは、すべてを振り切るように答えた。
「それよりシオデ。準備は出来ているか?」
シオデは、右の親指を上げた。
「モデナ山の件は、長に報告済だ。東の一件も、明日には王の耳に届くはずだ。そして先発隊も、もう出してある。オレたちの行く先に、敵の間者は一人もいない」
ユリウスがにやりとした。それは、今までの感傷的な少年の顔ではなかった。
「隊列を整えさせろ。砦への礼儀はお終いだ。お忍びで出掛けるぞ」
命令が伝わり、一隊は緊張して前へ進んだ。
同時刻、砦の中の物陰に、マント姿の男が一人吸い込まれていった。
闇の中に、髭面の男がいた。
「待たせたな」
マントの男が低い声で言った。
「背後からの奇襲がある」
「ばかな。軍を率いて、あの山越えなんぞ、出来るはずがない」
「指揮は、ユリウス・ヴァラビだ」
「あの悪魔の申し子か。分かった。王に伝えよう」
マントの男が耳を澄まし、緊張する。
「誰か来る。いけ」
髭面の男は、闇に紛れて姿を消した。
マントの男は足音のする方に向かって歩いて行った。
「おい」
足音のヌシが、マントの男に声をかけてきた。
「キーリングじゃないか。こんなところで何をしている」
「ハーバーズか」
マントの男は、フードを後ろに跳ね除けた。
「アリウスを捜しているんだ。見なかったか?」
「やつなら、長老へ挨拶しに行ったぞ」
ハーバーズは、キーリングのやってきた方を見た。
「……誰かと話していたのか?」
「いや、誰とも行き会わなかったぞ。すまんな。私も長老の許へ行こう」
キーリングはハーバーズに質問を許さない口調で言い、長老の部屋のある方へ足を向けた。
その後ろ姿を、ハーバーズがうろんげに見送っていたのを知りながら。
アリウス・ハザールは、光苔が植えられた砦の薄暗い通路を歩いていた。耳には、エリジェーヌの最後の言葉がこびりついていた。
――あなたが愛しているのは、あの人だけ――
当然だ。私が欲しかった唯一の〝家族〟なのだから。
心の中で答え、彼は昨夜、訪ねてきたユリウスとの会話を思い出す。
『アーサー……』
『ユーリか。どうしたんだ、こんな夜更けに。明日には戦場に出ることになるから、できるだけ身体を休ませておかねば』
と言いつつ、アリウスは少年を部屋の中へ入れて、椅子に座らせた。
『今度のは難しい戦だが、お互い生きて帰ろう』
そのとき、ユリウスが顔を上げた。
『アーサー、あのね。一度だけ、兄さんって呼んで、いい?』
『おまえ……』
絶句したアリウスにかまわず、ユリウスが続ける。
『知っていたんだ。ヴァラビのおじいさまは、いい人だったし、何も言わなかったけど、噂でね。私がハザール家の出だってこと。そして両親が……腹違いの兄妹だったことも』
『そうか……』
『私は生まれて来ては、いけなかったんだね。この手が血に染まるたびに、敵に〝悪魔の申し子〟と呼ばれるたびに、思ったよ。でも、アーサーに会えてよかった。――それだけは、言っておきたかったんだ』
『ユリウス……』
彼は、少年の長い黒髪に手をやった。
『成年式もまだ終えていないのに。……おまえに、剣と戦いの仕方を教えた私が間違っていたよ。ただの子どもであったら、おまえもそこまで自分を責めることはなかったろうに』
『アーサーの……兄さんのせいじゃない。それに本来、成年式は二年前に終えているはずだ。髪を切っていないだけで、私は大人だよ』
『そうは言っても、この騒ぎで儀式が伸びたままだ。この二年、おまえは馬を駆って戦ってばかりいた』
『仕方ないよ。一族の責任は果たさなくては。それにアーサーに教えてもらったこと、後悔なんてしていない。周りの人間は、ヴァラビの一人息子ということで大事にしすぎて、誰も本気で相手にしてくれなかった。私をまともに扱ってくれたのは、アーサーだけだったよ』
『ただ私は……おまえを傍に置きたかっただけなんだ』
アリウスは弟を抱きしめた。このときはもう、長と戦士ではない。
『兄さん、いいんだ。もう……』
ユリウスは兄の首に両腕を回した。その手は、震えていた。
『こら、泣くな。今夜は、ここに泊まってゆけ。最初で最後、せめて一晩、兄弟として過ごそう』
昨夜の情景を思い返し、アリウスはつぶやいた。
「寂しかったのは、おまえだけじゃない」
私の家もそうだった。
父はこの数代、自分の家から長が出ていないのを苦にして、私には幼い頃から厳しい訓練を課した。母は、すべてに無関心だった。そんな家が嫌で、成年式が済むとすぐ、この土地を飛び出して放浪した。父の望みは、より強力な超常者を生み出すことだった。
ユリウス、おまえが生まれたのも、そのためだろう。しかし、小石一つ思念で持ち上げることが出来ないおまえは、その異能を戦闘に発揮してしまった。哀れな異母弟よ……。
八年前、嫌な予感がして帰郷した。父の死と共に家を継ぎ、長となった。しかし旅していたときより、この年月の虚しさ。その中で、おまえといる時間が唯一の慰めだった……。
心の中で弟に語りかけながら、アリウスは長老の部屋の前までやってきた。
「何を感傷的になっているんだ」
彼は右手の握りこぶしで、自分の額を軽く叩いた。そして、ひと呼吸置くと、声をかけた。
声に応じて、扉が開けられた。
長老が若き長を中へ招じ入れた。手で椅子に座るように示すと、老人は手ずから飲み物を運んで来た。
「戦の見通しは、どうかね」
「五分……といったところでしょうか。兵の数では負けますが、こちらは精鋭、向こうは王が併合した部族の烏合の衆。そして、地の利もあります。彼らはタジボグ王が怖いだけで、自分たちの利にもならない、この戦に命を懸ける気にはなれないでしょう。こちらの痛手も大きいですが、時機を見て、和をもちかければ、土地と多くの人命は守られるでしょう。少なくとも、王領となって人びとが奴隷になることはありますまい。まあ、交渉次第ですが。王にとっても、ここは僻遠の地、治めるに難しく、益することも少ない土地です」
「策はあるのかね」
「東方のウジャイン族が反乱を起こしたくて、うずうずしていますよ。タジボク王の王国は、統一したてで、基盤がまだ定まっていません」
アリウスは、皮肉っぽく、くすりと笑った。
「そして彼らの野営地の南にあるモデナ山に、いささか細工をしておきました」
「エクトゥスの秘儀かね」
「さよう、我らの……」
二人は顔を見合わせて笑った。
「ただ問題は、あとのことです。砦には結界を張りました。ドゥマーの術は、ここには通用しないでしょう。しかし、もし我々が敗れて、王の軍が攻め寄せて来たら……」
「大丈夫。私にまかせて、安んじて行きなさい」
長老が穏やかに答えた。
「この戦いは、少しでも多くの人びとが生き延びるためのものです。そして、自由を守るための。王の支配下に入った部族は惨めなものです。人質を王に出し、代官を置かれ、税を納めなくてはならない。自分たちの土地なのに。さらに戦いがあれば、王の軍の先駆けとなり、命を落とす」
「他の支配を受けるとは、そういうものだ。それが嫌なら、戦うしかない。他にどんな術があるだろう」
「事ここに至って嘆いても、せんないことですが――」
アリウスは、そこで黙った。そして、長老に身振りで、そのままでいるように示すと、立ち上がっていきなりドアを開けた。
そこには驚いた表情のキーリングが立っていた。
「ちょうど、開けようとしていたんだ」
「それは済まなかったな。長老に何か用か?」
「いや、おまえに用があって来たんだ」
アリウスは友人を部屋の中に入れた。
長老はお湯を沸かす振りをして隣室に行き、席を外してくれた。
「アーサー、この戦、どうしても避けられないか?」
キーリングが、堰を切ったように話し出した。
「何を今さら」
「ユーリたちは行ってしまったが、まだ間に合う。王に従属して、無駄な血を流すのはやめよう」
「奴隷になれと言うのか。生き永らえるために、自らの信ずるものも捨てよと」
アリウスが声を高くした。
「アーサー、おまえも分かっているだろう」
キーリングが、なだめるような口調で言った。
「王が真に欲しいのは、我らの〝エクトゥスの秘儀〟だ。そして、それを伝える我ら四家の者だ。我らさえ王の下へくだれば、一族に咎めはない」
アリウスの大声に驚いて、長老が二人の近くへやってきた。
「キーリング殿、そのことは、もう決まったことです。戦は始まってしまった。行き着くところまで、行くしかないのです」
「しかし」
「キーリング。もう、止めよう。じきに我々も出る。おまえも準備があるだろう」
キーリングは、二人がかりで言われて鼻白んだ。
「――無駄なようだな、アリウス」
彼はそう言い捨てて、部屋を出て行った。彼が開け放していったドアを閉めようとして、アリウスは手を止めた。
「千客万来だな。ハーバーズ、おまえは何だ?」
ハーバーズが物陰から出て来た。
「アーサー。キーリングには気をつけろ」
「……そうしよう」
少し笑って、彼は友の忠告を受け入れた。




