東京を夢見た私、転生先で田舎の公爵様に溺愛されております!
王立学園の大広間には、艶やかな衣装に身を包んだ貴族子女たちの笑い声が満ちている。壁には大きなシャンデリアが二つ、黄金の光を放ち、ざわめく人々を照らしていた。私はホールの中央に敷かれた赤い絨毯の上を、できるだけ人目にとまらないようそっと歩く。
――本当なら、今日の卒業パーティーは私にとって華やかで喜ばしいはずの日だった。
けれど今はあまり気分が晴れない。ずっと前から“婚約者”と噂されてきた第一王子カイラス様が、私を無視するかのように、隣に並ぶイリーナ嬢を優しくエスコートしているのが視界に入るからだ。
カイラス様。王家の直系に生まれ、才知に長け、そして人々の前では常に凛々しく振る舞う人。幼い頃は私と普通に言葉を交わしていたのに、学園を卒業する頃には「ただの義務的な婚約者」という態度しか取らなくなっていた。
「フィリーネ・グレイシア侯爵令嬢……あら、そちらで待っていらしたのね。」
ホールの一角で待機していた私は、パーティーの進行役を務める司会役人の声で壇上へと呼ばれる。私が仕方なく舞台袖に向かうと、すでに壇上の中央にカイラス様と、その腕を取る形で立つイリーナ嬢がいた。
「学園の卒業を記念して、この場を借りて大事な報告がある。皆の前で正式に伝えておきたいことだ。」
カイラス様は淡々と口を開く。視線は私を見ていない。そのかわり隣のイリーナ嬢――フォースレイ公爵家の次女に、さりげなく笑みを向けている。
「私はここに、フィリーネ・グレイシア侯爵令嬢との婚約を破棄することを宣言する。今後はフォースレイ公爵家のイリーナと結婚を前提に、婚約を結ぶことを約束する。」
空気が凍った。一瞬静まったホールに、次いで人々のざわめきが波紋のように広がっていく。ざわざわ、ざわざわ……無礼千万とばかりに怒りの声をあげる貴族たちもいれば、茶化すような歓声をあげる者たちの姿も見える。
舞台上の私に突きつけられた“公然たる婚約破棄”。だけど不思議と、私の心は嵐のように乱れていなかった。むしろ、静かに波が引いていくような感覚だった。
「――カイラス様。もとより、あなた様と私とは“最初から何も始まってなどいません”わ。」
私は冷静にそう告げる。発言の内容に驚く人が多いのだろう、会場がさらにざわつくのを感じた。カイラス様が目を見開いてこちらを見る。イリーナ嬢も、きょとんとしている。
「……何を言うんだ、フィリーネ?」
「私があなた様のもとに駆け寄ることはありませんわ。なぜなら――」
そのとき、私の脳裏に強烈な映像が閃いた。 渋谷のスクランブル交差点、終電を逃して歩いた真夜中の道、狭いワンルームの部屋で膝を抱えた自分……。
――そう、私は“東京”に住んでいた。ただそれだけで自分を立派と思い込んでいたアラサー女。地方に行くことをまるで敗北のように思い、都会の喧騒の中で孤独を抱えたまま生きていた。私は確か、異世界に転生したのだった……。
カイラス様は何か言葉を足そうとしたが、私の言葉に反発しているような様子はなかった。おそらく、婚約破棄を公の場で宣言するまでもなく、学園生活の間に二人の関係は壊れていたのだ。私はただ一言、はっきりと告げる。
「私とあなた様は、これでおしまいですわ。」
そう言い終えた瞬間、私を取り囲んでいた喧噪が、さらに強く大きくなった。まるで私の前世と今世が一瞬にして重なり合い、そして飛び散ったかのような感覚に襲われる。頭の中が熱を帯びるのを感じつつ、私は一度深呼吸をした。
「では、失礼いたしますわ。」
静かに一礼して舞台から下りる。人生の大舞台ともいえる学園卒業パーティーが、皮肉にも私の意識を過去の“東京”へと引き戻すきっかけになるとは――自分でも想定外だった。
⸻
私――フィリーネ・グレイシアは、前世で“東京”という大都市に住むアラサー女性だった。実家は地方にあり、私はそこから上京してきた身。収入は決して多くない。狭いワンルームに一人で住み、何とか生活していた。
けれど「あたし、東京住みなんだよね」という口上が妙な誇りだった。周囲の友人が結婚や転職で地方に戻っていくたびに、私は思っていた――「ああ、彼らは敗北したんだ」と。
……今思えば、なんて傲慢で狭量な考え方だったのだろう。
ある日、仕事帰りの夜道でトラックと衝突したらしい。記憶はそこからふわりと宙を舞い、次に目覚めたときには異世界の侯爵家で、赤ん坊として泣いていた。
ここは“都会に住む”ことが過度なストレスとされる世界らしく、王都などの大規模都市に住むのは出世を望む一部の貴族や商人だけ。ほとんどの貴族は自然の多い土地に領地を構えて静かに暮らしていると知り、私は衝撃を受けた。
私の生まれたグレイシア侯爵家は、広大な森と草原を領土に抱える豊かな家柄だった。父は家督を継いですぐに土壌改善を行い、穏やかで平和な田舎を築いた。そこで私はすくすくと育ち、気づけば光溢れる邸宅で“愛されるお嬢様”としての日々を送るようになっていた。
前世の私があれほど欲しかった、安定した暮らし、人々から向けられる優しさ。ひょっとすると、私はもう望むものすべてを手に入れているのかもしれない。
だけど、前世の価値観が完全には消えていなかった。「都会に行かなければ、人生は成功じゃない。地方で暮らすなんて負け組だ」という、歪んだ誇りの残滓。
そんな曖昧な思いを抱えたまま、私は成長し、そして王立学園へと進学した。学園生活の中で、第一王子カイラス様と“政略的な意味合いで”婚約させられることに。実際には、正式契約というより「仮約束」のようなものだったが……。
それでも“王都に住まう立場”になれるかもしれない――そんな期待を捨てきれない自分がいたのは事実だ。
しかし、学園を卒業する今日、あのカイラス様が突然の婚約破棄を宣言したことで、私の前世の“東京”への強烈な執着が呼び起こされてしまったのだ。
それは同時に、今の私がどれほど恵まれているのかを再確認する出来事にもなるとは思っていなかったけれど。
⸻
カイラス様の婚約破棄騒動が起きたのは学園の卒業パーティーの最中。王子本人はそれで満足気だったが、周囲はそうはいかない。
――王族に関するスキャンダルは、貴族社会に広く動揺をもたらす。
ざわめきがまだ治まらない中、突如、会場の扉が派手に開け放たれた。そこに現れたのは、漆黒のマントをまとった一人の男性。
その男を見た瞬間、私は一瞬息を呑んだ。身長が高く、肩幅も広い。その瞳は浅い水色。寡黙な印象を与える静かな雰囲気なのに、その場の空気を一瞬にして掌握するような威圧感がある。
――レオニス公爵。若くして公爵位を継ぎ、一時は宮廷で要職を担っていたものの、ある日突然すべてを投げ打ち、田舎の領地に引きこもったと噂の人物。
「フィリーネ・グレイシア侯爵令嬢はご在席かな?」
会場がしんと静まり返る。彼はまっすぐ私の方を見つめると、優雅な仕草で片膝をつき、私の手をとった。
「お会いするのは久方ぶりですね。我が愛しき――婚約者殿。」
あまりの唐突さに私は目を瞬かせる。周囲の貴族たちの視線が一斉に集まるのを感じた。婚約者? レオニス公爵と私が?
カイラス様は舞台上で息を呑む。イリーナ嬢が何か言いたそうな顔をする。王族と肩を並べるほどの公爵が、堂々と“婚約者”と呼びかけたのだ。まさに衝撃。
「――どういうことだ、レオニス! フィリーネは……グレイシア侯爵家の令嬢は、私の――」
「おや、あなた様はもう“新しい婚約者”をお決めになったのではないのですか?」
淡々と言い放つレオニス公爵と、怒りで声を震わせるカイラス様。だが、レオニス公爵はまるで相手にしていない。彼は私の手の甲に唇を寄せ、厳かな声で告げる。
「私は、グレイシア侯爵家に正式に縁談を取り付けてあります。あなた方がどう振る舞おうとも、私は彼女と生涯を共にすると誓いましたので。」
その言葉に会場が再度どよめく。私は自分の心臓がドキドキと高鳴るのを感じる。あれほど“王子の婚約者”と言われていた私が、実は――。
学園入学以前に、父とレオニス公爵の間で結ばれていた縁談が、当人の私にはほとんど知らされていなかった。その話をちらりと聞いたことはあったけれど、「婚約と言っても形式上」だと思っていたのだ。
「レオニス公爵……わ、私、そんな話があるなんてきちんとは――」
「ご心配なく。私はあなたが“望むなら”いつでも迎えに行くつもりでいました。……今回のように、場が整ってしまったのでね。ここで正式に発表するのも悪くないと思ったのです。」
そう言うと、レオニス公爵は静かに立ち上がり、会場全体を見回すように視線を巡らせる。そして一言、「諸君、余計な詮索は不要だ」と、王族以上の威圧感で言い放った。
カイラス様ですら、それ以上何も言えない。ただ、怒りか動揺か、顔を青ざめたまま唇をきつく結んでいる。イリーナ嬢も、複雑な表情を浮かべながら小さく身を縮めた。
――こうして卒業パーティーの会場は、奇妙な静けさと、レオニス公爵の威光によって一瞬で支配された。
「さあ、フィリーネ嬢。ここはもう騒がしいだけでしょう。私とともに、退場しませんか。」
「……はい。」
自分でもうなずいてしまうほど、その“守られている”感覚は強烈だった。王子の婚約破棄という醜聞から、一瞬にして私を救い出すかのようなレオニス公爵。
こうして、王立学園の卒業パーティーは、私の“婚約破棄”騒動と、そして“新たな婚約者”の登場によって幕を閉じた。
⸻
パーティーが終わった夜、グレイシア家の屋敷に戻った私は、自室のベッドに横になり、ただ天井を見つめていた。
あんな形で突如、婚約が破棄され、さらに別の婚約者――それも公爵が現れるなんて、まるで芝居じみている。
しかし私の脳裏をさらに強く支配していたのは、カイラス様への感情よりも、自分の“前世”の記憶だ。
「……東京。」
ぽつりと、その名を口にする。目を閉じると、渋谷のスクランブル交差点や、新宿のビル群が浮かぶ。自分はあの中で息を詰め、いつも誰かに追い立てられるように働いていた。
それでも「東京にいる」という事実だけが私を奮い立たせ、都会での暮らしが人より優れた生き方だと勘違いしていた。もし地元に戻ることになれば、それは惨めな敗北だと思っていたのだ。
「それが……今は、田舎で穏やかに暮らすなんて。」
今の私が手にしている生活は、前世の私からしたら想像もできないほど豊かだ。誰もが皆、落ち着いた心で日々を過ごし、家族や隣人を大切にする。
“都会”へ行くことが野心の証とされる世界観とは逆で、この世界では自然と共存することが尊ばれる。……不思議と、それが心地いいのだ。
なのに、まだどこかで“都会への憧れ”を拭いきれない私がいる。まるで前世の自分にしがみついて、勝手に自分を縛りつけているような気がしてならない。
「東京に住んでいない私は、ダメなやつ。そんな思い込み、もう捨てたらいいのに……。」
目を瞑って大きく息を吐く。だけど、長年抱いてきた価値観は簡単には消えない。…私が無価値だと思うのは、ただ誰かに必要とされたいからではないの?
そのとき、部屋の扉が軽くノックされた。
「フィリーネ。……入ってもよろしいかな?」
低く落ち着いた声。レオニス公爵だった。さすがに寝室に公爵を入れるわけにはいかないと躊躇したが、彼は扉越しに柔らかく言葉を続ける。
「お身体は大丈夫ですか。もし心が乱れているなら、話をする相手がいた方が少しは楽になるかもしれない。」
「……ありがとうございます。大丈夫……といえば大丈夫ですわ。とりあえず、ここは失礼ながらノックだけで。」
レオニス公爵は苦笑しているようだった。「それでは、失礼しますね」と、すぐに足音が遠ざかっていく。
どうやら、私を気遣ってくれたらしい。彼が本当に私と婚約を結ぶつもりなら、これから先、彼と過ごす時間も増えるだろう。
そのとき、私の胸の奥が、不思議と温かいもので満たされるのを感じた。都会に行かなくても、今の私が誰かに大切に思われる――そんな可能性が、確かにこの世界にはある。
⸻
――それから数日後。
なんと、レオニス公爵は「フィリーネ嬢をしばらく私の領地でお預かりする」との申し出を正式に行った。父も母も「構わない。むしろよろしくお願いしたい」とあっさり承諾。話はあっという間にまとまり、私は公爵の領地へ移り住むことになった。
レオニス公爵の領地は山あいの美しい草原に囲まれた、まるで絵画のような場所だ。王都からは馬車で二日はかかる距離。噂どおり「田舎」の典型だったが、その風景は息を呑むほど素晴らしい。
私には広々とした客間(むしろ準備された“婚約者の部屋”らしい)を与えられ、当面はここでゆっくり過ごすように言われた。
「ここは人が少ないだろう。退屈に感じるかもしれないけれど、フィリーネ嬢がストレスを感じずに過ごせるよう私も最善を尽くすつもりだ。」
「ストレス……そうですわね。都会を夢見ていた頃の私なら、“何もない場所”だと嘆いていたかもしれません。でも、今は逆にほっとするんですの。」
庭のテラスで紅茶を口にしながら、レオニス公爵と二人、のどかな風景を眺める。
「安心してくれ。私も王都の喧噪には少しばかり参っていてね。静かな場所が好きなんだ。」
「そう……ですの?」
確かに、宮廷で要職を担っていた人が突然領地にこもると聞けば、色々あったのだろうと思う。彼自身、心や身体をすり減らしてしまったのかもしれない。
私たちは似たようなもの。前世で都会に執着し、孤独を抱えた私と、王都の魔力に傷ついたレオニス公爵。そんな共通点をもつからこそ、彼も私を婚約者として受け入れてくれるのだろうか。
ある日の午後、外はしとしと小雨が降っていた。私が屋敷の奥にある書庫で本を読んでいると、「ガチャ……」と重い扉が開く音がする。
「……フィリーネ嬢、ここにいたのですね。」
「レオニス公爵……おかえりなさいませ。外、雨が強そうですわね。」
マントについた雨滴をはらう彼の姿は、いつもより少し疲れているようにも見えた。だがすぐに、彼は私の手元の本に目を留めて軽く微笑む。
「どうやら熱心に読書されていたようだ。お好きな本ですか?」
「はい。“優しい世界の緑の魔法”という童話です。子どもの頃に一度読んだことがあったんですけど、意外に深くて、こうしてまた読んでいますの。」
彼は私の隣にあるソファーに腰を下ろした。執事が現れて、二人分の紅茶をさっと用意してくれる。
「私がここに戻る途中、雨の音を聞いて“今日のフィリーネ嬢は書斎にいるかな”と思ったんだ。雨の日は何となく部屋にこもってゆっくり過ごしそうだからね。」
「え……あ、ええ、まぁ……」
私が戸惑うと、彼はあくまで自然な仕草でカップを手にする。
「それで、少しでも心が和めばと思って、この紅茶を新しく仕入れた。森のハーブをブレンドしたものだが、香りが優しい。」
「あ……ありがとうございます。……いただきますわ。」
一口飲むと、ほのかな甘みと森の香りが広がった。まるで草原に咲く花のように優しい味。
私のためを思って準備してくれたのだと考えるだけで、胸がじんわりと温まる。私が言葉を探していると、ふと彼が小さく笑った。
「顔がほころんでいるね。よかった。……雨の日は、君が好きそうな気がしたんだ。」
「どうして……そんな風に思ったのです?」
「雨音を聴きながら本を読む。想像するだけで、君なら穏やかに過ごせそうだ、と思ったから。」
どうしてこんなに私の気持ちがわかるのだろう、と不思議に思う。けれど、それは私も同じなのかもしれない。王都から遠ざかり、一人黙々と暮らしていた彼の気持ちを、私は前世の孤独と重ね合わせて理解できるから。
雨音に包まれた静かな書庫で、私たちはささやかに笑い合った。まるで、ここだけが特別な空間のように。
レオニス公爵の屋敷には、小規模ながら楽団をもつ音楽好きの執事長がいた。ある日、彼が私に「フィリーネ様の歌や鼻歌を楽譜にしたら、どんな旋律になるのかやってみませんか?」と提案した。
私は歌が得意というわけではなかったが、前世でカラオケに行くのは好きだった。何度か軽く鼻歌を口ずさむうちに、屋敷の楽団がそれを耳コピして、小さな音楽会を開いてくれたのだ。
「……この曲、どこか懐かしい調子ね。でも聞いたことがないの。前世の流行歌に似てるのかしら?」
私が首を傾げると、執事長が目を輝かせて言う。
「フィリーネ様ご自身のイメージで即興で書かれた楽譜ですからね。貴女様の声をもとに仕上げたオリジナルです。心の底にあるメロディなのでは?」
その音楽を聞いたレオニス公爵は、そっと微笑んだ。
「穏やかでいて、少し切なさも漂うメロディだ。……君の声が、僕にとって一番の贅沢なんだと思う。」
「わ、私の声なんて……」
「自分が思うよりずっと美しいよ。」
嬉しくて照れてしまい、私は視線を落とす。そんな私を見て、執事長や楽団の人たちが軽く拍手を送ってくれる。
音に満たされたそのひととき。都会で味わうような派手なショーでも、華やかな劇場でもない。だけれど、私の心はかつて経験したことのないほど、豊かで満たされていた。
そして私の誕生日。といっても、誕生日会を盛大に開くようなつもりはなかった。両親は離れているし、公爵領は広いが人は少ないからだ。こぢんまりとケーキを囲んで祝う程度だろうと思っていた。
ところが、夜になってレオニス公爵が私を庭へ誘う。
「……寒くはないかな? 少しだけ外に出ようか。」
「はい、大丈夫ですわ。」
私は彼の手に導かれながら、闇に沈んだ庭へと足を進める。すると――。
目の前に広がったのは、庭いっぱいに浮かぶランタンの光。無数の小さな灯りが草花の合間に吊るされていて、それが夜風に揺られながら、幻想的な風景を作り出していた。
「……なんて、美しい……。」
思わず息を呑んで立ち尽くす。レオニス公爵が隣で微笑む。
「本当はパーティーでも開こうかと思ったが、君はあまり人混みを好まないようだから、静かに祝いたかった。」
「それにしても……誰もこの景色を見ていないのでは? もったいないくらいに綺麗なのに。」
私がそう言うと、彼は優しい表情で答えた。
「僕は君が見てくれればそれで十分だ。……おめでとう、フィリーネ。」
かつて前世で、誕生日を祝ってくれる相手がいない時期があった私にとって、こんなにも心が震えるお祝いは初めてだった。
その夜、ランタンの光を仰ぎ見る私の頬に涙が一筋伝う。彼の前で涙を流すのは気恥ずかしかったけれど、彼は何も言わず、そっとハンカチを差し出してくれた。
さらに気候のいいある日、私は屋敷から少し離れた草原へ散歩に出かける。ふわりと揺れる緑の波のなかに身を沈めると、ぽかぽかの陽射しに誘われてつい眠気が……。
どれくらい寝ていたのだろう。ふと目を覚ますと、肩には薄いショールがかけられていた。
「……ん……レオニス公爵?」
慌てて起き上がると、少し離れた木陰で彼が本を読んでいるのが見えた。気配に気づいたのか、彼はすっと顔を上げる。
「お目覚めかな。よく眠れた? この場所、風も柔らかくて気持ちがいいからね。」
「す、すみません。ひとりで散歩に行ったのに、いつの間にか公爵にもついて来させてしまって……。」
申し訳なく思うが、彼は首を振る。
「ここは私もお気に入りの場所でね。よく一人で本を読むんだ。……君がいるなら、なおさら来たくなる。うるさくないし、適度に距離も保てる。君が望むなら、こうしてそっと見守っていたいと思う。」
私はショールを肩にもう一度かけ直しながら、柔らかな日差しを感じる。
「……この距離感、この静けさ……何より心地いいですわ。」
前世の私は、一人でいることに慣れすぎて、他人の距離の取り方がわからなくなっていた。けれど今は、こうして必要なときには近くにいてくれる人がいる。
それを“うっとうしい”と思わず、素直に感謝できる自分になり始めているのだ。
⸻
そんな穏やかな日々を送る中、突然、王都からの使者が私を訪ねてきた。
使者が言うには、フィリーネ・グレイシア――すなわち私が“花の乙女”と呼ばれており、その魔力や人望をもって王都の都市復興に協力してほしいとのこと。
「都市復興? 王都はそんなにも荒廃しているのですか?」
「はい。近年、王宮内の権力争いによって街の秩序が乱れ、人心が荒れております。もともと都市部は人の心を蝕みやすい環境ではありますが……。そこで、貴女様のような清廉かつ強い魔力を持つ方に来ていただきたいのです。」
使者の話を聞くうちに、私の心は複雑に揺れる。
――“都会の復興”という一種の使命感。復興事業に参加すれば、設備も整っているし名誉も手に入る。前世の私が抱いた「都会に住みたい」という欲望を、異世界で叶えるチャンスでもある。
だけど、それを受けたらどうなるだろう? レオニス公爵との生活は……この安らぎは……。
「フィリーネ嬢、どうするのです?」
公爵も困惑した様子だ。もともと、宮廷から距離を置いていた彼にとっては関わりたくない話だろう。
それでも王室からの正式な打診とあらば、私が断れない可能性もある。
使者は私に言い募る。
「このまま田舎に埋もれるには、あまりにも惜しい力をお持ちなのです。王都には優秀な魔法使いや研究機関も揃っていますし、何より都に住むことで大きな影響力を行使できます。おそらく“花の乙女”として崇められ、貴女の名声は確固たるものとなりましょう。」
名声、権力、都会的な生活。前世の私が渇望したすべてがそこにある。
……それなのに、なぜか心が弾まない。むしろ胸がきしむ。夜になり、ベッドの中で一人考え込んでしまう。
「……これこそが、あのとき私が夢に見た姿……じゃないの?」
“都会に出る=勝ち組”――そんな固定観念がまだ私の中にある。ならばせっかくのこのチャンスを逃す手はないと思う自分もいる。
でも今の私が本当に欲しいものは、それだろうか? こちらで過ごす穏やかな日々、レオニス公爵の優しさ、そして心が満たされるあの感覚。
夜の闇の中、寝付けずに何度も寝返りを打つ。すると静かに扉がノックされた。
「……フィリーネ。少しだけ話しても?」
「レオニス公爵……。」
部屋に来た公爵は、私の様子を見てすぐに悟ったようだった。
「王都に行くかどうか、迷っているんだね。」
「はい。昔の自分なら絶対に喜んで行ったと思うんです……都会に行くことこそが成功だと。」
私は視線を落として唇をかむ。すると、公爵はそっと私の手を取った。
「フィリーネ。私は、君が幸せに笑っていてくれるなら、それだけでいいんだ。もし王都へ行くことが君にとって本当の幸せなら、私は惜しまずに君を送り出す。君には、そうするだけの価値がある。」
彼の言葉は真摯で、迷いがない。私は思わず涙ぐんだ。
「……どうして、そんなにも優しいのです?」
「……君の幸福が、今の私の支えになっているから。……私も王都にいた頃、心が擦り切れるほど苦しんだ。だから、君の笑顔は私にとって癒しなんだよ。」
レオニス公爵が私の手をぎゅっと握る。私の心には、前世では感じたことのない、大切にされる安心感が注ぎ込まれた。
――都会に出ることは確かに人生を変えるかもしれない。でも、私はもう変わっているではないか。ここで得たものを、私はどうしても手放したくない。
⸻
翌朝、私は使者を応接室に通し、返事をした。
「……私の答えは“お断りいたします”ですわ。」
使者は驚いた様子だった。無理もない。王都での地位や名声を手にする千載一遇のチャンスを自ら蹴ったのだ。
「なぜです? せっかくの機会を棒に振るおつもりか?」
「はい。今の私が思うに――私の“本当の幸せ”は場所ではなく、人と人とのつながりにあるのだと気づきましたの。」
使者は食い下がろうとするが、レオニス公爵が穏やかな笑みを浮かべながら言葉を続ける。
「フィリーネは、ここの穏やかな自然の中で、人の心を癒やしてくれる。“花の乙女”だからこそ、自然と寄り添う場所で輝けるのです。王都に無理に召し上げずとも、彼女は彼女のやり方で多くの人を救えるでしょう。」
さらに私も一言付け加える。
「私が都会に執着していたのは、ただ“愛されたい”“認められたい”という思いが根底にあったからだと気づきました。けれど今、私はここで必要とされ、愛されています。……ですから、その申し出には応じられませんわ。」
使者はそれ以上何も言えず、王都へと帰っていった。その後、王都が私にしつこく干渉することはなかった。どうやら、レオニス公爵が陰で手を回してくれたらしい。彼の影響力は依然として侮れない。
こうして、私の“都会”への思いは過去のものとなり、草原の屋敷での“引きこもり婚約生活”が続いていくことになった。
夕暮れのオレンジの光が草を黄金色に染める。私はいつものように屋敷から少し歩き、あの木陰へ向かう。
そこにはすでにレオニス公爵がいて、古びた本を開いていた。私が隣に腰を下ろすと、彼は軽く目配せをする。
「今日はどんな一日だった?」
「午前中はハーブを摘んでいました。午後は読書をして、ちょっとお昼寝を……。」
私がくすりと笑うと、彼も微笑んでページを閉じる。
「のどかでいいね。……君がそばにいるだけで、私は十分に満たされるよ。」
「公爵もだいぶ穏やかになられたご様子。以前の噂では、もっととげとげしい方だと思っていましたけど。」
茶化すように言うと、彼は苦笑いして肩をすくめる。
「まあ、王都時代は色々あったからね。でも今は違う。ここで君が笑っていてくれるだけで、私まで心がほどけていく。」
私も同じだった。前世でずっと抱いてきた“何かが足りない”という飢餓感。それを都会で満たそうとしたけれど、結局得られなかったもの。
今なら胸を張って言える。私はここで、十分に幸せ。
「……昔は、ずっと“東京”という場所にしがみついていましたわ。誇りだと思っていたけれど、今はもう、場所なんて関係ないのかもしれない……。」
私がそっと呟くと、レオニス公爵は不思議そうに首を傾げる。
「“トウキョウ”? 初めて聞く地名だね。どこかの辺境の国かい?」
「いえ……ただの昔の話、ですわ。」
それだけ言うと、私たちは顔を見合わせて微笑んだ。彼にとっては謎でも、私にとっては大切な過去。二度と戻れない場所だが、そこがあってこそ今の私がいる。
草を揺らす風が、少しだけひんやりとした肌触りに変わり始める。夕陽が雲間に溶けていくように、前世の私の執着もゆっくりと夜の闇に溶けていく。
私の肩にそっとレオニス公爵の腕が回された。ぎこちなく身を寄せる私。それでも、心はふわりと軽い。
「これからも、一緒に、ここで過ごしてくれますか?」
「はい。私……あなたと一緒に、この場所で、ずっと。」
こうして私、フィリーネ・グレイシアは“田舎で引きこもり婚約生活”を選んだ。
かつての私は都会にこそ価値があると思い込んでいたけれど、今は気づく。大切なのは“どこ”ではなく、“誰と、どんな気持ちで過ごすか”なのだと。
木陰の下、草花の香りを吸い込みながら、私は静かに空を見上げる。風が心地よく吹き抜けていく。
――今の私にはもう、“東京”という場所はただの記憶にすぎない。だけどその記憶があるからこそ、ここでの生活を誰より愛おしく思える。
都会の喧騒から、遠く離れたこの草原で。
私は私の幸せを、見つけることができたのだから。