不可視の死神
ロディーヤ塹壕内で枢機卿の御稜威で兵士を信徒へと変えていったフェバーラン特務枢機卿。
テニーニャ国内でも支給されたアンフェタミンの影響が蔓延っていた。
ワイズ司令官、そしてシッコシカ軍令部総長がいよいよ三日間の準備砲撃に取り掛かろうとしていた。
「今日七日が雌雄を決す日だ。
ワイズ司令部、フロント君から連絡は?」
「もうすぐ着くって言ってたぜ」
「そうか、しかし三日間昼夜絶え間なく砲撃が浴びせられるなんて苦痛だな、兵士たちは大丈夫だろうか」
「心配ご無用、士気はバッチリです」
ワイズ司令官がにやりと笑い白いギザ歯をチラ見せした。
塹壕内ではアンフェタミンの影響が蔓延していた。
あちこちで薬の効果が切れた兵士たちが横たわっている。
それに薬で元気になっている兵士が薬を与えて復活させる。
そんな悪循環が陸軍兵少女兵を飲み込んでいたのだ。
「エッジ…?大丈夫?すごく具合悪そうだけど…」
「だ…大丈夫なんね…少し…だるいだけなんね…病は気からで病気なんね…」
「じゃあもうちょっと元気だして」
「うん…」
弱々しく座り込むエッジに看護婦のようにエロイスが寄り添う。
「エロイスは薬飲まないん?」
「うん、一回使ったあとカラダがすごくだるくなったから、疲労感と言うか無気力と言うか…のんか飲まないほうがいいかなって」
「それを飛ばすためにまた使うんね」
一回使ったきり服用しなかったエロイスは特段変わった様子はなかった。
「っ!?エロイスっ、敵襲だっ!銃を持つんねっ!」
いきなりエッジが立ち上がり立てかけてあった着剣した歩兵銃を手に取り、突撃のために駆け上がるはしごに登り塹壕から頭と銃身を出す。
「…エッジ、また?何も聞こえないしいないよ」
エロイスは半ば呆れたように椅子に乗って塹壕の外を見渡す。
「…いや確かに笛の音と喊声が聞こえたんね、嘘じゃないんね」
「しっかりしてよエッジ、まるで病人みたいだよ」
エッジは目が見開き、垂れ落ちるほど大量に発汗している。
指先はプルプルと震え、歩兵銃をカタカタと軽い音を立たせていた。
「やっ…病は気から…オセアニアじゃあ常識なんね…」
「ここオセアニアじゃないけど」
挙動不審なエッジを心配しつつ一応、双眼鏡で遠くを覗いてみるが、やはり何事もない。
「…やっぱりなにもないよエッジ」
エロイスがエッジの方へ目をやると、エッジは歩兵銃を抱えたまま塹壕に座り込んでいた。
何やらブツブツ言っているようだ。
「エッジ…?本当に大丈夫?」
「ニーゼロサンニーゼロサン、ここは孤独なパノプティコン。
真理は愛情は豊富は平和は…戦争は平和なりや…?テレスクリーンと天網、やいやいと人は征く…偉大なる兄弟アンフェタミンアンフェタミン…」
汗を垂れ流しながら独り言を呟くエッジに恐怖をいだきながらもそれ以上はなにも言わなかった。
(やっぱりあのラムネなんか変、驚異の薬だと思っていたけど…やっぱりやばいのかな…でも効果は本物だし…まぁすぐに良くなるよね)
そんな楽観的なことをエロイスは考えていた。
まだ薬物に対して抵抗が薄い時代、あまり薬物を深刻に考える人はほとんどいなかったのだ。
もちろん、少女のエロイスもあまり危機感を持ってはいなかったが、その薬の効果が切れたときの作用に耐えられず服用をやめていたのだ。
「エロイス…今フロント中佐から連絡あったよ…もうすぐ三日間の準備砲撃だって、一応予告してくれたよ…」
「そっか、じゃあ退避壕に入ろうかな。
ほら立ってエッジ、砲撃が始まる」
「うごごごご…ソドムの火?」
「…?」
エロイスがエッジの脇を保って引きずりながら自分たちの退避壕に入っていった。
中では塹壕足の治療中のリグニンがパウダーにまみれた足を伸ばして休養していた。
「なんか騒がしいね、なにかあるの?」
「うん、今日から砲撃だって」
「ふーん、じゃあうるさくなるね」
スヤスヤと寝息を立てているエッジをリグニンの横に寝かせ待機する。
(昼も夜も砲声…気が狂いそう…)
そんなエロイスを傍にフロント中佐は重榴弾砲陣地にて適当に並べ、設置された千門の重榴弾砲を眺めていた。
「これが火を吹き続けるのか、たまらないな」
一門に四、五人の砲兵が砲撃命令を今か今かと待ちわびている。
フロント中佐が腕を砲身と射角を合わせるように腕と手を斜めに直線に突き出して呼びかけた。
「テニーニャ野砲兵大隊、血の滲むような戦争の準備はいいか。
重榴弾砲、砲身上げ」
その呼びかけに応じ砲身がグググッと上がる。
「射角よし、榴弾及び毒ガス弾装填よし。
さぁ闘争だ、全門斉射始め」
その瞬間、砲から雷のような轟音と白煙を吐き出し砲弾を飛ばした。
千門の烈火から大空めがけて飛び出していった砲弾は彗星のように白煙の尾を引きながら死のゾーンへと落下していく。
「いいぞいいぞ、戦争こそが最短の平穏への道だ、犠牲なくして安眠は得られない、敵なら尚更慈悲なく葬るべきだ、永遠の深淵の底へとな」
轟音が鳴り響く中、硝煙から姿を表した中佐が鋭い目線でそう言い放った。
適当に並んだ重榴弾砲から一瞬まばゆい閃光を放ち横一線に赤い光の列を作った。
その遠くから飛来してくる音を退避壕に居たエロイスたちも聞き取ることができた。
「ついに来たんね、あの中にはガス弾も混じっているからもう少ししたらガスマスクをつけたほうがいい」
エッジが箱から支給されたガスマスクを手で持って強調した。
ゴム製の面体に吸収缶、非人間的なマスクが不気味に笑っていた。
次の瞬間、着弾した砲撃の音が耳に入ってきた。
死のゾーン全体を包む爆音、重い発破音がいよいよ準備砲撃に入ったことを知らせてくれた。
「これが…三日…」
エロイスはため息が出そうな声で小さくそういったあと、嫌でも耳に飛び込んでくる砲撃を静かに聞いていたのだった。
会話、銃声、喊声、うめき声を完全に掻き消す湿気混じりの爆発。
テニーニャの塹壕の様子と同じ状況にあったのがロディーヤの塹壕だった。
ただ違うのが、その爆音が自分たちめがけて飛んできているということだった。
テニーニャの砲撃は作り上げた鉄条網や機関銃陣地を次々と粉微塵にしていった。
砲弾孔の水に着弾すれば茶色い水柱が高く立って汚水が降り注いできた。
その他にも木片や土の塊、ロディーヤの兵士たちは退避壕の中には隠れ、直撃を避けていた。
しばらくは穴蔵に潜んでいたが、段々と兵士達が少し異質な匂いに気づき始めた。
退避壕に逃げ込んだ帝国陸軍の青年がそんなことを喋っていると、その会話を聞いていた一人の青年が言った。
「何だこの匂いは…」
「どうした?」
「なんか臭うぞ、干し草のような木材のような…でも天然の匂いじゃない、鼻腔が拒むような異質な匂い…」
「おいおい、犬かよ、まさか砲弾に毒ガス弾が混じっているわけなんて…」
その青年の発言に逃げ込んだ兵士が叫んだ。
「きっと毒ガスだっ!わからないけどきっと毒ガスだっ!ガスマスクをつけるんだっ!」
その言葉にすぐさま反応した兵士達が次々と支給されたガスマスクをつけ始める。
ゴム製の面体に吸収缶、非人間的な不気味なマスクが待ってましたと笑ったようにも見えた。
そのほのかに漂う干し草のような匂いにフェバーラン特務枢機卿も気づき始めた。
「ロディーヤ帝国陸軍兵と女子挺身隊に告ぐっ!敵は毒ガス弾を使った模様、すぐにガスマスク装着にかかれっ!」
次々と塹壕の兵士たちが面体を頭からかぶり顔を防御し始める。
ガス弾が着弾したことによりロディーヤ塹壕一帯に無色の悪魔がじわじわと忍び寄ってきたのだ。
ガスマスクをつけたことにより、不気味な非人間の兵士達が大量に湧き上がってしまった。
絶え間なく続く砲撃、不可視の死神、不気味なガスマスクをつけた兵士達。
いよいよ戦況も佳境に入ってきた、この先シッパーテロで何が起こるのだろうか。