1両編成
プァン。
警笛が短く鳴った。朝の鈍い朝日の中、JR線の広い駅構内の外れにある小さな駅のホームから、箱形の電車がゆっくりと動き出す。
駅のホームは短く、三両分くらいしかない。そのホームの先端は雑草が茂り、線路の終端部には廃車された貨車が放置されている。
ゆっくりと駅のホームから走り出した車両は、上半分は甘夏の皮のようなオレンジ色、下半分は焦げ茶色に塗装されている。綺麗に塗装されているが、僅かに波打った車体が年期を感じさせる。後ろには何も連結されていない。1両きりだ。移動するにつれその車両は低音の唸りを徐々に音を上げ、速度を上げていく。
駅のホームを離れた直後、線路は住宅地の中へ急カーブで曲がってゆく。そこを電車はキイキイと音を立て、車体を大きく揺らしながら進入してゆく。
僕は毎日、この一両きりの車両に乗って高校まで電車通学をしている。木造ながらも薄いパープルに塗装された車内には、僕と同じく通学中の高校生が大勢乗りこんでいる。男子生徒のはしゃぐ声、女子生徒の笑い声、小さな声で語り合うカップルと、様々な生徒がそれぞれの異なる移動時間を過ごしている。
しかし、車内にいる学生は皆が顔見知りというわけではない。2校の生徒が同じ路線を通っているのだ。僕は県立高校に通っているが、他にやや離れた所にある私立女子校の生徒も乗客全体の二割程乗車している。県立高校の制服はありふれた男子は詰め襟、女子は紺のブレザーだが、私立女子の制服は白地に明るいグレーのラインのセーラー服だ。
そんな様々な生徒が乗りこんだ車両に乗車中の僕には、ひとつだけ楽しみにしている事がある。それは、いつも同じ時間の同じ座席に座っている、一人の女子生徒に会える事だ。
その女子は私立女子の制服を纏っており、髪は首筋が隠れる程度の長さの黒髪で、同年代の女子としてはやや小柄なほうだろうか。残念ながら名前は知らない。可愛らしい顔立ちもさることながら、その子がいつも電車内で読んでいる本の表紙を見ると、僕の持っている本と好みが似ている作品が多く、ちょっと会話をしてみたい、気になる存在だ。当然、まだ話をした事はない。
電車がカーブを曲がり終えると線路に沿って県道が通っている。道路と線路が並行すると間もなく電車はブレーキをかけ、速度を落としていき、バス停のような小さな駅に停車した。扉が開くと、五人の学生が乗り込んで来た。十秒程停車した後扉を閉め、再び電車は動き出す。
その時、後ろから僕の右肩を肘で突いてくる生徒がいた。
「おっす、寺田!」
僕は振り返ると、そこには同じクラスの高松がにやけながら立っていた。
「なんだ、高松か。今日は遅刻しなかったんだな」
「ボケ!そんなに遅刻ばっかりする訳ねえだろ」
「先週、三日連続遅刻して反省文書かされたのは誰だっけ?」
「たまたまバスケ部の練習が筋トレだったから疲れてたんだよ」
高松はバスケ部に所属していて、一応レギュラーメンバーに入ってそこそこの活躍をしている。誰とでも気さくに話してくる性格で、クラスの席が僕の後ろということもあり、文系の僕とも親しくなった。
ただ、口が悪いのが玉にキズかな。
ここから線路は直線で南へ伸びている為、ここで電車はモーター音を周囲に響かせながらひたすら加速する。周囲は田園風景に変わり、黄金色に実った稲穂が風になびいている。遠くにはぼんやりと昇った太陽の下、県境の山が連なっている。誰かが眩しそうに窓の外を見て、電車の日除けのヨロイ戸を閉める。
「いよいよ今週で最後だな」
高松が言った。急に言われた僕は何の事か理解できず、呆けた顔で、
「何が?」
「ボケ!電車での通学だよ」
高松にやや強い口調で言われ、僕はハッとして真顔になる。
「そうだった・・・今週末で、この鉄道が」
木造の車内の様子を見渡して、座席に座っているあの少女を見ながら、
「廃止になるんだった・・・」小さく呟いた。
電車通学が出来るのは今週末までで、それ以降は同じ区間をバス代行輸送になる事が決まっている。
高松はそんな僕の様子を見ながら小さくため息をつき、自分の短めに整えた髪を触りながら
「寺田、おまえ、今度の日曜は暇か?」と訊いてきた。
「ん、今のところ特に予定はない。」
「この電車が走る最終日になるから、その最後の雄姿を見に来ないか?」
今までいつも乗ってたから遠慮するよ、と言おうとしたが、今まで当たり前に利用していた鉄道が無くなるんだから、せめて最後くらいは見送るのもいいかも、と思い直した。
「いいよ」僕は答えた。
県道沿いに商店が点在しているのが見えてくると電車はブレーキをかけ始め、大きな木造の電車庫の脇をすり抜けいくつかのポイントを渡りながら、終着駅の比較的大きいホームの横に到着した。電車の扉が開かれると乗車していた学生達が一斉に改札口へ向かう。駅の建物はコンクリート製で、鉄道の本社も兼ねているらしい。駅前のロータリーにはバスとタクシーの乗り場があり、各方面へ行けるようになっている。昔はこの駅から更に線路が続いて山を越えていたらしいが、赤字のため何十年も前に廃止になっていた。比較的乗客の多く需要のあるわずか二駅区間だけが、現在まで残されていたのだった。
僕と高松が車両から降りると、彼女は数メートル前を歩いていた。その後ろ姿を眺めながら改札口を通り抜けると、彼女は女子高校に向かうバスに振り返りもせず乗り込んでいった。一方僕らはここから県立高校までは徒歩だ。電車内でだけ感じる事のできる、小さな淡い恋。来週以降、バス通学に変わってしまっても続けることが出来るのだろうか。
そして日曜日、鉄道運行最終日。天気は爽やかな秋晴れだ。
今日はJR線との接続駅の、いつもの私鉄側の駅ホームで高松と合流する約束をしていた。ところが駅のホームの様子は今までとは全く状況を異にしてるのを目の当たりにして僕は驚いた。普段休日ともなれば日中の電車の利用者は四、五人程度と閑散としているのだが、今日に限っては車内は大勢の乗客で塞がり、その電車を囲むように駅のホームにも大勢の人が集まっていた。家族連れで子供に電車に乗ろうとせがまれる両親。電車を様々なアングルで写真を撮ろうとする少年。車両の正面には、“長い間ありがとう”と書かれたヘッドマークが飾られていた。
そんな中に紛れるように、高松が駅ホームの上屋を支える柱に寄り掛かって佇んでいた。僕は高松に声をかける。
「よう、待ったか?」
「いや・・・」僕に気が付いた高松は、そう短く返事をすると、再び賑やかな駅のホームの様子を眺めた。高松は周囲の人たちと違い、何か悲しいものを見つめるように目を細めていた。
「すごい人だな」
「ああ・・・」高松はまた、短い返事しかしなかった。
「どうした?機嫌悪そうだな」
「ああ、ちょっとな・・・」
短いため息をついた後、目を僕の方にむける。
「こんなに大勢の人、一体どこから来たんだろうな」
「みんな、電車の廃止が惜しいから見に来たん」僕の言葉を遮るように高松が、
「それはどうかな。こうやって集まってる奴のほとんどは、見世物を見に来たようなもんだぜ」
電車の方に向き直り、やや棘のある口調で高松は続ける。
「今までこの電車とは無縁の生活を続けてきて、廃止になるのも他人事だったんだろうに、いざ廃止間際になったらこんなに大勢が駆けつけるとは皮肉なもんだよな」
何時になく真剣なセリフに、僕は次の言葉に迷っていた。
「そんな事、僕達が気にしても仕方ないよ・・・」
「いくら車社会とはいえ、鉄道の存在は大きなもんだから、電車が無くなったら、町は寂れちまうかもな」
この町以外にも、全国各地で赤字で採算の取れなくなった鉄道が廃止になったニュースを何度か観たことがある。しかしそうした町は大抵の場合、人口の減少に歯止めが利かなくなり、急激に衰退してしまう事が多い事を知っている。
「こうやって、時代の流れに逆らえず、次々に消えて行ってしまうのかな」
僕と高松は二人で、少し感傷的な気分で駅のホームを行き交う人達をぼんやり見つめていた。
そんな時、すぐ後ろから
「おーい、勇太!」と、女子の声が聞こえてきた。勇太とは高松の下の名前だ。
僕と高松が後ろを振り返ると、髪をポニーテールに纏めた同年代の少女が笑顔で「おす!」と右手を挙げて挨拶をしてきた。ただしその笑顔は僕に対してではなく、高松の方に向いて。高松は彼女の姿を目にすると、それまで不快そうな表情から、口角をあげ僅かに笑みを作った。
「なんだ、香もいたのか」
「勇太も来てたんだね」
「一人で来たのか?珍しいな」
「ううん、友達と一緒に」
僕は話に割り込むことが出来ず、すぐ横で二人のやり取りをただ見ていた。
「俺達はこれから終点まで電車に乗るんだが、香は?」
「あ、私たちも行く所なの。ちょっと遅れちゃったから、向こうの駅で他の友達と合流するの」
電車の後方の扉から「かおりー」と呼ぶ少女の声が聞こえると、「はいはい」と軽く返事を返して、
「それじゃあ、また後でね」
そう高松に告げると、香と呼ばれた彼女は車内にいる仲間らしい女子の方に走って行った。それを見送る時、僕は電車内に、いつも通学の際に見かける女子が乗っている事に気がついた。軽やかに揺れるポニーテールの女子が車内に辿り着くと、三、四人の少女が輪になって何かを話し出すのが見えた。そのグループの中に私服姿の、いつもと違う彼女の姿があった。多分、私立女子でのクラスメイトか何かだろうか。
僕はすぐに訊いてみた。
「なあ、高松。今の彼女知っているのか?」
「ん?ああ。私立女子に通っている、俺の幼馴染みだ。今は高校が違うから外で会うことは少ねえけど」
「お前に彼女がいるとは知らなかったよ」
「ボケ、そんなんじゃねえよ。ただの腐れ縁だ。家が近くなんだよ」
頭を掻きながらそう返してきた高松の表情には、少し照れが交ざっているようにみえた。僕はそういう親しい女子が身近にいることが羨ましい。僕の家の近所には同年代の子はいなかったし、学校でも女子との会話は最低限のものだけで、残念ながら友達は男子ばっかりだ。それにしても、さっきの子は私立女子高の生徒なのか。それなら、彼女達とはまったく縁がないというわけではないのかもしれない。
いつもと同じ住宅街、いつもと同じ線路の上を、いつもと違う乗客を満載にした電車が唸りをあげて走り抜けていく。リベットの打たれた橙色と茶色の老体の車両は、満員の乗客が重たいためか通常より加速が遅い気がする。僕と高松はその電車の先頭のドア付近に吊り革を掴んで乗車していた。
田園と住宅の混じった景色を眺めていると、高松から小声で声がかかった。
「寺田、お前告白しねえのか?」
言われた瞬間、僕は何の事か判らずに高松の顔を見た。すぐにその意図が何なのか理解し、少し焦った。
「え??」
「え、じゃねえよボケ!」
自分の全身に汗が浮き出るのが感じられた。首筋に電気のようなものが走る。体も少し火照ってるかもしれない。
「お前、いつも電車内で私立女子の同じ女の事ばかり見ているだろ」
「え?知ってたの?」
「そりゃわかるわ。俺はてっきり知り合いか何かかと思ってたら、ただ見つめてるだけなんだもんな」
「知り合いなんてなれないよ、高校が違うし面識ないし」
「好きならとっとと告白しちゃえよ」
高松は友達は多いし積極的な性格だからそういう事を簡単に言えるんだろう。まわりから内向的と言われている僕にはそんな事言われてすぐに出来る事ではない。
「そんな事言われても・・・」
僕が口篭もると、高松は溜息をついてから真顔で言った。
「私立女子の生徒とは今後、顔を見ることもできなくなっちまうぜ」
「え、それってどういう・・・」
「香から、さっきの幼馴染みから聞いたんだが、この路線が廃止になった後は私立女子高へ直通する送迎バスが走り始めるんだとよ。それも、この近辺のいろんな街を廻るらしい」
「え!」
その情報を聞いた瞬間、僕の体を血の気が引くような感覚が襲った。
「このままお前は勝手に片思いのままで終わりにする気か?」
「それは・・・」
「この電車で通学していた事自体が苦い思い出になっちまうぜ。後で後悔してもいいのか?」
そんな訳はない。だけど、高松の言う事ももっともだ。このままでは今後、彼女を見つける事も出来なくなってしまう。僕の思考は少し焦りが出始めていた。数十秒無言で考えた後、ハッと思いついた点がある。そういえば、さっきの高松の幼馴染みの子も同じ高校だったよな?すぐさま意を決して高松に問いかけた。
「高松、ちょっと頼みがある」
「なんだ?」と答えた高松の顔は、僕が何を言おうとしたか分かったように、口元に笑みを浮かべた。
そう話しているうちに、満員の電車は車体を揺らしながら何本ものポイントを通過し、終点の駅のホームに滑り込もうとしていた。
終着駅の改札口を通り抜けると、起点の駅と同様、大勢の人で溢れかえっていた。券売機の傍らで長テーブルを設置して駅職員が記念切符や鉄道グッズを販売している。次々と購入客が並び、とても忙しそうだ。駅舎の外には焼きそばやクレープの屋台が出店して、まるでお祭りのようだ。こんなに賑やかな駅は今まで見たこともない。しかし、今日は楽しいイベントというわけではない。今日でこの鉄道自体が消えてしまうのだ。こんなに賑やかなのもこれが最後の光景だろう。
僕と高松はそんな光景を眺めながら駅周辺をゆっくりと歩いてゆく。駅前ロータリーから少し歩くと電車の車庫があり、奥には数両の電車と、厳ついデザインの焦げ茶色の機関車が留められているのが見える。その時、高松が前方にいた人物に声をかける。
「おーい、香!」
「あっ、勇太ァ!」
振り返ったのはさっきのポニーテールの子、高松の幼馴染みだ。同じ高校の数人の女子と一緒に雑談していたようだ。
「同じ電車に乗ってきたんだ?」
「そりゃ、電車の本数少ないからそうなるだろ」
二人がそう話していると、脇にいた僕に向かって、
「さっき話してた雄太の友達?」
「ああ、同じ高校のな」
そうして二人の視線が僕に向けられていると慌てて、
「あ、高松の友人で寺田といいます」違う高校の女子相手なので、ちょっと態度がかしこまりすぎたかもしれない。
「寺田君?よろしくね。私は私立女子に通ってる土倉香です」
僕らがお互い挨拶をしてると、高松が割り込んで、
「ところで、さっきメールで連絡した話、どうだ?」
「あー、多分大丈夫よ。今、車庫の向こう側にいるはず。案内するね」
そう言うと土倉さんは、一緒にいた女子に「ちょっとごめんね」と断ってから、僕と高松に手招きするので、ついていくことにした。
「メール見てビックリしちゃった。でも、私の知っている子でよかった」
「そんなすぐ誰か解ったのか?」
「解るわよお。電車通学で、黒髪で長めのボブヘアー、いつも本を読んでるって言ったらね」
二人のやり取りを後ろで聞いている。そう、僕は高松の幼馴染み、私立女子の生徒である土倉さんに、僕がいつも電車で見かけていた彼女が誰なのか見つけてほしいと思い、高松にメールで問い合わせてみるよう頼んだのだ。土倉さんはこのお願いを快く引き受けてくれた。メールで伝えた彼女の特徴が分かり易かったのと、土倉さんの知り合いであることが幸いして、こうして初めて面と向かって会うようにが事が進んだのだ。歩みを進めるにつれ、僕の心臓の鼓動が激しくなっていくのが感じられた。ちょっと挙動不審に見られるかもしれない。
長年の風雨に耐えてきた古めかしい木造車庫の脇で、彼女が立っていた。初めて見る私服姿だ。膝まである濃い赤のスカートに、白いブラウス、薄茶色のカーディガンを羽織っている。偶然、イベントに姿を見せた所に、メールで待ち合わせの連絡でもあったのだろうか。
「駒岡さん!」
土倉さんが呼びかけると、彼女は振り返った。
「あ、土倉さん、こんにちは」少し照れたような笑顔で答えた。
「急に呼び出してごめんね!でもたまたま駅にいてよかったー」
「うん、この昔ながらの電車の風景を、最後に目に焼き付けようと思って」
そう言ってほんの少し、憂いを含んだ表情を見せた。
「実は、駒岡さんに紹介したい人がいるんだけど」土倉さんが本題を話しだした。「こっちの二人は私の腐れ縁?の勇太と、そのお友達の寺田君」
駒岡さんと呼ばれた彼女は僕らの方に向き直ると、一瞬ビックリした表情をして僕の方を見た。何だろう?
「やっぱ腐れ縁かよ」と高松は小さく呟き、向かい直って「よろしく」とだけ挨拶した。
「あ、私は土倉さんのクラスメイトで、駒岡由紀といいます」
そうはにかんでお辞儀した。駒岡由紀さんというのか。今、声をかけた事のなかった彼女が目の前で挨拶をした事に、僕の胸は高鳴った。
「私達、女子高だからなかなか男子と縁がなかったりするのよねー。だから駒岡さんもこれをきっかけに友達になっちゃいましょうよ」
「友達・・・」
駒岡さんが照れた様子でこっちを見つめる。
「・・・あの、寺田さんって、いつも通学の時、同じ電車に乗っていましたよね?」
突然、思いがけない質問に僕は動揺した。顔がカーッと熱くなるのがわかる。いつも見つめていたのを知っていた?自分の存在が名前も知らなかった駒岡さんに気付かれていた事に焦った。
いつもガサツだが友達思いの高松と、その幼馴染みである土倉さんには本当に感謝する。いつも電車内で見つめていただけの彼女、駒岡さんと折角こうして顔見知りになる機会があったのだ、これを無にするわけにいかない。僕は意を決して、心の底から振り絞るようなつもりで、
「もしよかったら、電話番号とメールアドレス、教えてくれます?」
振り絞ったつもりでも大した声は出ていなかったかも知れない。その問いかけに駒岡さんは、
「私のでよければ」照れながらそう笑顔で返事した。
折り返しの電車が、別れを惜しむ乗客を満載して再び走り出し、僕らの脇をゆっくりと通り過ぎる。その電車の擦れたモーター音はどこか寂し気に聞こえる。
この街の鉄道の歴史は、今、終わろうとしている。
でも、僕達の物語は、これから始まるのだ。