7.わらしべの対価
葬儀の翌々日、ジョンストンはマッケンジー牧師へ婚儀の再延期を告げに、街の西区を歩いていた。職人街の前の辻に差し掛かったとき、その姿をはっきりと目にする前に、ジョンストンは睫毛がじりりと焦げるような予感を感じていた。
(まさか)
毛織物の露店に、マイラが膝を抱えて座っていた。ジョンストンは今すぐ踵を返すべきか一瞬迷ったが、自動的に繰り出される足は止まってくれなかった。
マイラが顔を上げ、一瞬驚きに目を丸くしてから、すぐに顔をこわばらせる。
話しかけるべきか。
謝るべきか。
そもそも、こうして彼女を見つめてよいものなのか。
ジョンストンはふいと目をそらした。マイラの瞳に失望の影が広がる。
マイラの露店の前を通り過ぎるとき、ジョンストンは一歩進むごとに沼地に沈んでいくような心地がして、顔を上げることができなかった。視界の隅に、マイラが大きな目に涙を溜めてこちらを見ている姿が映る。立ち止まりたいのに――それができないならばせめて歩く速度を速めたいのに、自動人形の足は言うことを聞かず、変わらずずぶずぶと沼地を行くような鈍重さで歩を進める。
曲がり角をまがってマイラの姿が見えなくなってしまうと、ジョンストンの足はネジの切れたゼンマイ仕掛けのように動かなくなった。
(一体どうやって始末をつければいいっていうんだ)
ジョンストンは口の中に広がる苦い唾を噛みしめ、道端に吐き捨てた。空っぽになっていたと思っていた自分の中身に、土嚢でも詰められたかのように、耐えがたく重かった。
いつしか足のゼンマイは、誰がネジを巻いたのか、再び回り始めていた。職人街を行く途中で一人の男とすれ違ったが、ジョンストンの目に男の姿は映っていなかった。職人街を過ぎ、倉庫街を抜けて、ジョンストンは教会にたどり着いた。
重い足を運んで階段を上がり、聖堂を覗いてみるが、誰もいない。右手から伸びる廊下を進むと、中庭に面する管理室にマッケンジー牧師の姿があった。管理室にはつい先刻まで来客があったと見え、マッケンジーは二人分の茶器を片付けているところだった。
「おお、きみはタルコットさんのところの」
ジョンストンは軽く頭を下げた。マッケンジーは真面目な顔になって弔意を表した。
「そのことでご相談なのですが……今月予定していた婚儀を、さらに延ばそうかと考えているのですが」
「ああ」
マッケンジーはふっと表情をやわらげた。
「心得ておりますよ。こういう場合の喪は、いつまでとはっきり決まっているわけではありません。死者を悼む気持ちに区切りが付けられるものではないが、ご母堂がお喜びになると感じられるようになったら、またおいでなさい」
「ありがとうございます」
礼を延べながら、ジョンストンは空っぽの自分に果たして死者を悼む気持ちというのがあるのかどうか、ぼんやりと疑っていた。
教会を後にする。またあの辻を通らなければならないのかと思うと気が重かった。しかし、家に帰るにはどうしてもそこを通る必要があった。
辻が近づくと、女の癇声が聞こえてきた。
「離して、人を呼ぶわよ!」
「人を呼ばれちゃ都合が悪いのはあんたのほうじゃないのか。村でさんざん売女と罵られたくせに」
ジョンストンははっとして、辻の方へ走った。
男がマイラの両腕を掴み、壁際に追い込んでいた。人の気配を感じたのか、男は舌打ちをして手を離す。マイラの手首には赤い痕がついていた。
「おい、何をしてるんだ」
男はジョンストンの方を振り向くと、彼の威嚇には取り合わず、目を丸くして言った。
「へえ、こりゃ面白い。あんたか、色男」
男はジョンストンのことを知っているらしい。よく注意して見たが、ジョンストンには男の顔貌に覚えがなかった。思い出そうと頭の中を総ざらいしているジョンストンの様子を、男は心底おかしそうにニヤニヤしながら見ていた。
「うちの村のジャレッド・エヴァンズよ……教会の」
マイラの助け舟で、ジョンストンはようやく彼がスタインウッドの司祭の息子であることを思い出した。彼はいま、ジャケットを着てごく当たり障りのない格好をしていたが、ジョンストンには祭服姿の印象が強かったので、同一人物とは分からなかったのだ。
ジョンストンは男の正体を知り、スタインウッドで宿泊するには紹介が必要であることを殊更に隠していたジャレッドの、陰険な底意地の悪さを思い出した。
「坊さんがわざわざカーター・タウンまで来て、マイラに何の用だ」
「別に彼女のためにこんなところまで来たわけじゃない。ちょっとしたお使いで通りがかったら会ったもんでね。世間話をしていただけさ」
「スタインウッドでは、女に絡むのが世間話なのか」
ジョンストンは両手でジャレッドの右腕を掴むと、外側に捻りあげた。ジャレッドは左手でジョンストンの腕に爪を立てたが、ジョンストンがさらに腕に力を込めると小さく悲鳴をあげた。
ジャレッドはそのままよろめき、マイラから離れるように二、三歩後ずさる。ジョンストンは一歩踏み込み凄みを利かせた。
「今あったことをマッケンジー牧師に知られたくなければ、さっさと村へ帰れ!」
ジャレッドは舌打ちすると、さらに数歩退いた。
「……すけこましが。尻軽女がお似合いだな」
捨て台詞を吐いて、ジャレッドは教会に背を向け、そのまま街の中心へ向かって歩み去っていった。
辻にはジョンストンとマイラだけが残った。ジャレッドがいなくなってしまってから、ジョンストンは急にマイラがすぐそこにいることを意識しはじめた。
「大丈夫か?」
マイラは放心したように頷いた。それからジョンストンは気まずそうに質問を重ねた。
「……あのあと、村でひどい仕打ちを受けたのか」
マイラはその質問には答えなかった。かわりに急激に空色の瞳が潤み、涙が一筋頬を伝った。指で触れれば怪我をしそうなほど、透明で硬質な涙だった。その雫が日の光を反射して光った瞬間、ジョンストンはマイラを抱きすくめていた。
衝動のままにマイラを腕に抱きながら、ジョンストンは失われていた自分の中身が充足していくのを感じていた。乾いた砂の塊のような感情にマイラの涙が沁み込み、潤され、豊かな土壌となった地面からは緑が芽吹き、真っ直ぐに葉を伸ばし、青々と茂ったかと思えば今度は金色に染まり、豊かな麦穂を揺らめかせた。
「アップルホテル」のおかみか誰だか知らないが、よそ者が村娘に馴れ馴れしくするのを良く思わない者が、心無い流言を広めたのか。あること無いこと吹聴され、弄られたのか。どんな仕打ちを受けたのか考えたくもなかったが、その原因がジョンストンの軽率な行いにあることは、火を見るよりも明らかだった。昨年、彼女が週に二回の行商を欠かさなかった理由も、今なら痛いほど分かる。なのに、自分が彼女へ投げつけた言葉は何だったか。
おれ、婚約者がいるんだ。だから、もう会わないほうがいいと思う。
ジョンストンはマイラを抱く腕に力を込めた。マイラははらはらと涙をこぼしたまま、じっと動かずにいたが、やがておずおずとジョンストンの背中に腕を回した。その腕には、ジャレッドに掴まれた痕が消えずに残っていた。ジョンストンはようやく腕をほどいて、マイラの腕を手に取った。赤く残った痕を親指で愛撫すると、ジョンストンの腹の底のほうで、いつかの赤黒い炎がごうと燃え上がった。ルシールの顔が頭に浮かび、その面影はエヴァの死に顔に変わった。しかし、ジョンストンはもう躊躇しなかった。マイラの両の頬に手を添える。マイラの頭は少しの抵抗も無く、ジョンストンの導くままに動いた。ジョンストンの手の延長線上に、マイラの顔があった。その顔は清澄な水を湛える泉だった。ジョンストンはゆっくりとその水に顔をうずめた。
* * *
後日、ジョンストンはルシールとの婚約を一方的に破棄した。
ベンは激怒して、ジョンストンを勘当した。彼を身一つで家から放り出そうとしたベンを取りなしたのはヘンリーだった。学も無く、農作業のほか何一つ経験のないジョンストンは、畑から離れては生きていけない。ヘンリーはそう訴え、麦畑の分割を提案した。ベンは、親の顔に泥を塗る奴は息子ではない、畑を継がせる義理も無いと渋ったが、揉めごとが長引くのに嫌気がさしたのか、最期には折れた。
「これで手打ちだ。二度とこの家の門をくぐるな」
そうしてジョンストンは、分筆されてなお広大な麦畑を我が物とした一方、家族を失った。
ルシールは、ジョンストンの突然の翻意に、静かな怒りを表明した。
ジョンストンがこれまで見たことも無かったような、感情という感情が一切現れない顔をして、彼女は言った。
「なんとなく、こうなる気はしてた。でも、約束を破ったりはしない人だと、信じてた。
私、優しいあなたのことは恨んだりしないわ。だけど、私からあなたを奪っていったあの女のことは、いつまでも恨み続けるわ」
ジョンストンは譲られた麦畑を担保に金を借りて町南部の中古住宅を購入すると、そこにマイラを呼び寄せた。庭に佇む柿の木が、金赤の果実を枝もたわわに実らす秋の日だった。婚礼の衣装も用意せず着の身着のまま、マッケンジー牧師の挙行のもと、二人は婚儀に臨んだ。儀式はものの数分で済んだ。牧師のほかに見守る者もない聖堂はひっそりと静まり返っていて、ジョンストンはこのまま外の世界から隔絶され、永遠に二人きりで過ごしていくような錯覚を覚えた。
マッケンジー牧師は二人に誓いの口づけを促した。
(あの日、とっくに誓ったさ)
ジョンストンは胸中で独り言ちながら、マイラと唇を重ねた。唇の表面を合わせるだけの軽い口づけではあったが、ジョンストンは痺れるような充実感に全身を満たされていた。
世界が二人きりで閉ざされるはずが無かった。間もなく子を身ごもったマイラの前で、ルシールがあたかも姦通を働いているように振る舞うのも、気の塞ぎきったマイラが産後に子を残してスタインウッドへ逃げ帰るのも、実家で居場所を失ったマイラがジョンストンを呪って自死を選ぶのも、全てこれよりほんの数年内に起こる出来事だ。
なお、ジョンストンを働き手としてあてにしていたスカーレット家は、いよいよ葡萄畑の維持が困難になった。ここでもヘンリーが尻ぬぐいをしたのだが、ベンが大旦那と結託し、ヘンリーの働きを口実として広大な葡萄畑を接収してしまった。無一文となったルシールが一から金を貯め、カーター・タウンから出て行ったのは、マイラが死んだ後だった。
しかし、未来にどんな艱難が待っていたにせよ、この瞬間、マイラを腕の中に抱いた彼は、彼女の全て――すなわち人生のうちで最大の実りを手に入れた気になっていた。冬の辻にごっそりと置いてきた彼の中身が、すっかりと彼の身のうちに戻り、いや、それどころか何倍にも膨れ上がって、今やジョンストンの身体ははち切れそうだった。彼はマイラを手に入れるために莫大な対価を支払ったが、目の前で小首を傾げ、ジョンストンの口づけを無言で受け入れるマイラと比べれば、安いものだと思った。
これは、破滅の道を突き進む若い二人が幸福の絶頂に達するまでの、ほんのささやかな小咄であり、その後の彼らの歩みについては、また別の物語で語られることになる。