1.わらしべを求めて
天高く馬肥ゆる秋というが、ジョンストンはいいかげん空腹に耐えかねて、藁くずの山に仰向けに倒れ込んだ。空の青さが閉じた目蓋の裏まで蹂躙していく。上を向いているために、腹の皮と腹筋が重力ではらわたのほうへ落ちてくる。その重さがまた空腹を際立たせた。
「ちっくしょう……」
今日は親戚一同集まっての麦打ちの日だった。ジョンストンは集まった中でいちばん若い二十三歳で、次男坊だった。たったそれだけの理由で、昼休憩に入る順番が、暗黙のうちに決められていた。休憩の順が最後だったジョンストンに、弁当があてがわれることはなかった。
首元に藁があたってちくちくと不快だった。ジョンストンは当たりの悪い藁しべを頭の下から引っ張り出して呟いた。
「惨めだなァ、おい……」
ジョンストンの胸の内に侘しさがむくむくと鎌首をもたげる。こうして苦労して耕している麦畑ではあるが、次男であるジョンストンが畑を継ぐことはない。自分には、いま手にしている藁しべほどの価値も無いように思われるのだ。
ジョンストンは再び目を閉じた。どうせ昼食を食い損ねたなら、休憩時間を寝倒そうと考えたのだった。そうして昼寝を決め込んでまもなく、閉じた目蓋に影が差すのを感じる。
「……?」
妙に思って目をあけると、眼前に、ブラウスに包まれた肉のかたまりが二つ、ぶら下がって揺れていた。ジョンストンの頭を「?」が埋めつくす。ゆっくりと目線を上げてみると、金髪碧眼、加えて巨乳の美女が前かがみになってジョンストンの顔を覗き込んでいるのだった。
「……な、なんだっ⁉」
ジョンストンは勢いよく上体を起こそうとして、途中で踏みとどまった。女と顔面衝突――否、顔と胸が衝突してしまうほどに、女は近かった。
女は姿勢を正すとニコニコしながら頭を下げた。
「勝手に畑へ入ってきちゃってごめんなさい。この麦藁の山、あなたの畑のもの?」
「へ? 藁?」
ジョンストンは、たった今自分が寝転がっていた藁くずの山を見下ろす。
「あ、ああ。おれん家のだけど、それがどうした?」
女はフェルト製の温かそうなベストのポケットから、小さな紙きれを出した。名刺だった。
農家育ちのジョンストンは、名刺など触ったこともなかった。作法も知らぬまま、起き上がって片手でその紙きれを受け取る。
「あたしはマイラ・シンプトン。スタインウッドで羊の世話をしているの。ここの藁は、随分と質が良さそうね」
ジョンストンは、なんて返したらいいか分からず「はあ……」と曖昧に頷く。隣村から来たというマイラは、藁しべをひょいとつまみ上げると矯めつ眇めつ、とくと調べた。
「筋が柔らかい。脱穀機を使わないで、手作業で麦打ちをやっているのね。よく打ちつけてあるから、柔らかいんだわ」
マイラは、麦打ち唄を歌って脱穀作業に勤しむ親戚連中を遠目に見ながら、一人で納得していた。
「脱穀機は組合の共同利用だからね。なかなか順番が来ないから、いつもこうして麦打ちをやってるんだ」
「そうなの」
ジョンストンの説明に相槌を打つと、マイラは指先でくるくると藁しべを弄んだ。そのまま暫く黙っていたが、やがて形の良い唇を開いた。
「ねえ。この藁山、あたしに売ってくれない?」
藁束は、半月分の食費に相当する価格で買い取られた。これまでは筵を編むか、焚きものにするしかなかった藁くずが、である。ジョンストンの母エヴァはいたく喜んだ。対照的に父ベンは、隣村の見知らぬ娘が持ち掛けてきた取引きに懐疑的だった。
「なんだってわざわざスタインウッドから来てんだ。あれだけの藁くず、運ぶのだってタダじゃねえ。金で買おうっていうのが、よう分からん」
「カーター・タウンには、行商でよく来るらしいよ。うちの藁は、よく叩いてあって柔らかいんだってさ」
ジョンストンの言葉に、兄ヘンリーが背中を伸ばして相槌を打つ。
「そりゃまあ、今どき手打ちで脱穀してるところなんて、少なくなってきたからなぁ」
親子三人で藁束を藁しべでくるくると巻き上げて結んでは、マイラが御者付きでチャーターした馬車の荷台に載せていく。けっこうな重労働だ。ベンが愚痴をこぼすのも分からないでもない。
マイラは自分も搬出を手伝うと言ったが、彼女が作業に加わるとなると、駅馬車の時間の都合上、前夜からカーター・タウンに泊まらなければならない。そこまでせずともよいと、ジョンストンが彼女の申し出を断ったのだった。
「こんなに手間をかけてまで、買い取る価値のあるもんかねぇ」
「何にしても、うちにとって悪い話じゃなかっただろ。それなりの金になったんだからいいじゃないか、父さん」
荷積みは午前中いっぱいかかりそうだった。カーター・タウンからスタインウッドまでは馬車で早ければ三時間、遅ければ四時間といったところだ。荷馬車にはジョンストンが一人で乗り込む予定だったが、この分では日帰りは難しいだろう。ジョンストンはカーター・タウンから外に出たことがなかった。宿をとらなければならないだろうが、初めての遠出で期待に胸が膨らむいっぽうで、今ひとつ勝手が分からず不安だった。
御者は荷積みを手伝うでもなく、畑の脇の草むらに寝転がっていびきをかいている。良い気なものだ。ジョンストンが御者に苛立ちながら今日の旅程を考えていたところ、街の方から農道を下ってくる人影に気付いた。その人物は手を振りながら近づいてくる。ジョンストンは藁束を足元に置いて、手を振り返した。
「お疲れ様ァ! 差し入れですよぉーっ」
彼女はルシール・スカーレット。今年十九歳になったばかりの、カーター・タウン北部の葡萄農場の跡取り娘であり、ジョンストンの許婚でもある。
「ルシールちゃん、わざわざよう来てくれたなぁ」
ベンが相好を崩してルシールを迎える。許婚といっても、ジョンストンは彼女の婿となる予定だった。ルシールはタルコット分家の姻戚筋で、彼女が二十歳を迎えるのを待って結婚するというのが、随分前からの決め事となっていた。次男坊であるためタルコット家の麦畑を継ぐことができないジョンストンにとっては、非常に有難い話のはずだった――しかし。
「さ、ジョンストンも一杯どうぞ」
ルシールが満面の笑みを浮かべて差し出すのは、今年採れた葡萄を搾ったジュースだった。ワインとして成熟する前の、発酵途中のその液体からは、微かにアルコールの香りが漂う。
「……あ、ああ。ありがとう」
椀を受け取り口をつけると、あるかなきかといった程度の炭酸の刺激が舌をつついた。甘ったるい、女こどもの喜びそうな味だった。ジョンストンの好みではない。
「うまい」
「よかったァ」
ルシールはとろけそうな笑顔をジョンストンに向けた。
ジョンストンにとって詰まるところ、ルシールはまさにこの葡萄ジュースのような女だった。器量は悪くない。手入れの行き届いた栗色の巻き毛は、赤い頬や丸い胸にかかってふわふわと彼女の愛らしさを引き立てている。ジョンストンにとっては耳ざわりな甲高い声も、そういうのを可愛らしいと捉える向きもあるだろう。しかし、どれもジョンストンの好みではない。
一方で彼は、その違和感のうちの多くが、少年の頃、彼の祖父にあたる大旦那まで交えた親族会議で、勝手に婚約相手を決められた不満に根差しているものだと理解していた。だから、彼女に対しては決して傷つけたりせぬよう、当たり障りのない振る舞いを心がけている。
「あなたのそういうところが優しくて、私、大好き!」
いつだったかルシールが、先ほど見せたような満面の笑みで言い放った言葉である。そうだ、荷物を抱えていた彼女のために、ジョンストンが扉を押さえてやったときのことだ。彼女の言葉はジョンストンに心に少しも響かなかった。それどころか、その程度で「大好き」とは、ルシールの「大好き」とは随分と安いものだ、と、冷ややかに考えていたのだった。
実際にルシールは、タルコット家の都合で随分と安く身売りされたようなものだった。彼女が将来相続するであろう葡萄畑の広大さを思えば、しがない農家の次男坊のジョンストンよりも相応しい相手は他にいそうなものだった。当時は葡萄の病害が流行し、葡萄農家はどこも苦しかった。タルコットの大旦那はそこに付け込んで、婚約の支度金をちらつかせたのだった。
そういう事情が、当時十五歳だったジョンストンにはよく分かっていたが、十一のルシールには、すりガラスの向こうの影のように判然としなかったのだろう。思春期の入り口にあった彼女の目に、突然現れた四つ年上の遠縁の少年が、実物よりも随分良く映ったのではないかというのは、兄ヘンリーの言だった。なお、彼にももちろん許婚がいて、近く婚礼を控えている。
要は、雛が一番はじめに見た者を親鳥として慕うように、ルシールも、初恋の相手であるジョンストンを慕っているだけなのだ。ジョンストンはそのことを、あるときは心からの憐憫でもって、そしてまたあるときは軽蔑を含んだ目付きで眺めるのだった。
積み荷は昼前に片付いた。ルシールは、ご丁寧に弁当まで作ってきていた。お陰でジョンストンは街へ買い物に出ることなく、すぐに出発することができた。
「帰りは明日になるかもしれないよ」
「気をつけてね、ジョンストン」
ルシールが、荷台の上のジョンストンを物欲しげな目で見つめる。ジョンストンは屈んで、彼女の額にキスしてやった。ルシールの頬がさっと赤らむ。ベンは息子とその許婚の仲睦まじげな様子を満足そうに眺めていた。
「なるべく早く帰って来いよ。こんな可愛い女の子を待たせちゃいけないぜ」
ヘンリーが気安くジョンストンの背中を叩く。ジョンストンは愛想笑いを浮かべ、御者に出発の指示を出した。荷馬車は溢れんばかりの藁束を揺らして、ゆっくりと動き出した。ルシールは、その姿が見えなくなるまで大きく手を振っていた。