憎
※この物語はフィクションです。登場する人物名等は実在のものとは一切関係ありません。
とにかく、元気が無かった。
悠希は、いつも朝家を出る時「行ってきます!」と張りのある声を出して行くというのに、その日ときたら朝から伏し目がちで、母が「悠希、忘れ物ない?」と問いかけても、間を空けてから「…うん」とつぶやくだけだった。
ランドセルの中には、小学生向けの国語や算数、社会の教科書などがのぞいていて、極端な汚れのない、ほどほどに使い込まれた教科書という感じだった。
「最近寒くなってきたからねぇ…あ、悠希、マスクは必要ない?風邪ひいちゃったらあとが大変よ」
母はそう言って忙し気に向こうの部屋へ駆けてゆき、真っ白いマスクを一枚持ってきた。しかし悠希は、「…いらない」と首を横に振った。
「…行ってきます」
悠希はまるで言いたくもないことを無理やり言わされているとでも言いたげに声を出し、ドアを開けて外に出た。
その日の天気は素晴らしかった。秋らしいさわやかな青空は晴れ渡り、刷毛で描いたようなうすい雲がほどよく空の光の間に横たわっていた。
しかし、学校まで歩いていく悠希の足取りは重かった。ときどきハッと何かを思い出したように立ち止まっては、顔を上げて、何もないことにほっと息をついて、また歩き始めるのだった。その顔色は青白く、一目で心身がよくないことを悟らせるものだった。
悠希は、とくに学校で問題があるわけではない。
勉強も人並みどころかむしろ人よりもできる方であったし、友達も多くはなかったが少ないともいえず、まあ要するに苦労はしない程度だった。決して多弁ではないが真面目で、人のことを思いやることのできる性格、とこれは先学期の通知表の片隅に書かれていた評価であるが、事実そんなふうに周りの人からは見られていたから、客観的な評価であると言っていいだろう。
しかし、どうしたことか、ここ数日の悠希は暗かった。周りの人からすると、少し心がふさいでいるな、という程度のことならすぐにわかるもので、友達の中の何人かは心配して声をかけたけれど、悠希はそれにも「うん…なんでも」と気のない答えを返すだけだった。悠希はびくびくしていて、まるで胸の中で誰かが、聞きたくもないような悪声で罵声を飛ばし続けている、そんな印象を周囲の友達に抱かせた。
悠希が目を覚ますと、灰色の時間の中にいる。
昼とも夜ともつかなかった。ただ悠希は気が付くと自分の部屋の真ん中の床に横たわっていて、悠希はここ数日ぼんやりしていた目をぱっちりと開けて、周りを見渡す。
悠希は記憶の中をまさぐった。なぜここにいるのか、いつからここにいるのか、力ない問いの言葉が悠希の胸の中を行ったり来たりする。
どすん、と音がした。
悠希は跳ね上がって、震えた。ひたいはいやな脂汗で濡れはじめ、視界はボールが弾んでいるかのように、ぼぅんぼぅんと遠近がぐちゃぐちゃになる。指先が冷えこごり、胸の鼓動は抑えきれないほどに高鳴りはじめる。周りで何かが起こっていた。
悠希は反射的に、こわい、と思って、ベッドの下に隠れた。狭くて鉄くさいにおいがしたが、そこにいた方がいいと悠希には思われたのだ。
どすん、どすんという音は近づいてきて、悠希は沸騰するように熱い頭に困惑しながら、無力な指先を眺めていた。
どすん、ドスン…
悠希はあえぐような呼吸を抑えていた。
ばりっ、というただならぬ音がして、ドアはぶち倒された。金具が床に飛び散る音がして、悠希の隠れていたベッドの下にもひとつ、からからと軽い音を立ててボルトが転がってきた。
明らかに尋常一様の力ではなかった。
悠希はきゅっとわきを閉じて、おそるおそる合間から部屋に入ってきたなにかを、一目見ようとした。
ベッドの合間はせますぎて、それの全貌は見られなかった。ただ、床にぼたりと重たげに乗せられていた、赤くてごつごつした太い脚のようなもの、それは血でも流れているのかときどきうごめき、どすんどすんと不格好に、しかし思いのほか素早く部屋を歩き回っていたのだ。悠希の頭は打ちのめされてぽかんとなってしまった。
その二本の脚は、いつも悠希が使う勉強机の前で立ち止まったかと思うと、ヴヴヴヴという息を吸い込むような音を鳴らして、重い、ばきっという音を鳴らした。
すると見る間に勉強机は真っ二つになって、ぐらぐらと床に崩れ落ちた。そしてそれを、その二本の脚は――いや、そのとき、悠希は見ることができた、白っぽい、何百本と並んだ歯のようなものを。それは生き物のそれのようにぬめっていて質感があり、丸っこい赤い肉の塊のような物体から見えていた。してみるとあれは口かもしれないと悠希は思った。
ばきんばきんと、工事のようなばかでかい音を響かせながら、すでに原型をなくして単なる木の塊となった机がその「口」へと吸い込まれていく。悠希は、いつかテレビの映像で見た、津波によって破壊された家のようすを思い浮かべていた。ああいうふうに、ばらばらになった木の残骸が、ぷかぷかと水に浮いて流れていくように、その「肉片」は――悠希はそれを「肉片」と呼ぶことにした――もともと机だったそれをほおばっているのだ。
周りにはほこりのようなものが充満し、きなくさくなっていた。
音はやみ、「肉片」はがほっという不気味な音を出して、すこしゆっくりしたペースで、再び部屋の中を徘徊しはじめた。するともう用はないとでもいいたげに、ドアのなくなった入口から、どすんどすんと音を立てながら出て行ったのだった。
悠希には何が何だか分からなかった。首筋には冷や汗がびっしょりとにじんでいた。とどまることを知らない心臓をゆっくりとなだめながら、悠希はベッドの下でそのまま気を失ってしまった。
「…はい、そういうわけなんです、おなかが痛いということなので…今日もお休みということで…はい、はい、すみません、ご迷惑をおかけします…」
悠希は、自分の部屋のベッドで寝ながら、下の階で母が電話する声を聞いていた。
悠希は、その恐ろしい夢を見るようになってから、わけのわからない恐怖感に悩まされるようになって、身体の調子を崩してしまった。最初のうちこそ、学校に行くことができていたけれど、そのうち、それすらもわずらわしく、恐ろしいことのように思われて、ついに学校を休むようになってしまった。
いったいどうしてだろう、と悠希は考えてみる。答えは出なかった。しかし、どうしても、あの夢の感覚が――迫ってくるような恐怖、血のにおいのする空気、灰色に彩られた非日常――悠希はむろんそれは夢なのだとわかっていたけれど、まるでそれは実際に自分が体験した、あるいは現在進行形で体験している運命のようなもののように思われて、割合考えこみやすい傾向のある悠希は、おびえてしまっていた。
どうして、あの「肉片」は、自分を殺そうとしているのだろう?
食べたいからだろうか。いや、自分なんか食べてもおいしくないだろうし、それなら冷蔵庫に入っている牛肉や豚肉でも食べていればいいのだ。自分の恐怖心と「なぜ自分を?」という自尊心にも似た反抗心をことさらにかき立てるその「肉片」が、悠希にとっては不快で不快でたまらなかった。
逃げ出したいくらいだった。
しかし、悠希が夜になって眠る段になると、必ずその「肉片」は悠希の夢にあらわれ、どすんどすんと部屋を歩き回っては、すごい音をたてて家具にかぶりついて飲み込んでしまう。その映像は、呪いのように、悠希の心と頭についてまわっていた。
それに恐ろしいことには、夢は連続していた。その「肉片」が一度飲み込んだものは、二度と夢には現れなかった。机はもうすでにあとかたもなくなっており、続いてタンス、椅子、おもちゃ箱、本棚…あらゆるものが轟音とともに「肉片」の口の中に消えてゆき、部屋は見る見るうちに殺風景になっていったのだ。
自分の隠れているベッドも、じきに「肉片」に飲み込まれてしまうのだろう。そして、あの動物的な殺意に満ちた口が、隠れる場所のなくなった自分を飲み込んでしまうのだ…。
「ああああ!」悠希は小さな叫び声をあげて、布団を頭からかぶった。
いつもと変わらない朝。窓辺からやわらかい日差しが差し込み、一回ではじゅうじゅうと母が朝食を作る音が聞こえる。窓の外では鳥がかわいい声でさえずり、登校をはじめる小学生の声が、とごれとぎれに、しかし朗らかに聞こえてきていた。
ドアががちゃっと鳴った。
悠希は飛び跳ねるほどに驚き、「いやっ」とすくんだ声を出した。
「…悠希」
母だった。
「朝ごはんできたけど…消化のいいように、おかゆにしといたわよ。一階で食べる?それとも…ここで食べる?」
母はおだやかな声で聞いた。
悠希はかぶっていた布団をちょっとのけて、上目づかいに母を見た。心配そうな目つきで悠希の方を見つめていた。悠希はすこし照れ臭かったが、母の方は目をそらさなかった。
「…ここで」
母は「今持ってくるわね」と言って、階段を下りて行った。
どすん、どすん…
悠希は頭でものを考えることができなくなって、倒れるように再びふとんを頭からかぶった。
部屋の中央に置かれた小つくえ――これも夢の中ではとっくに「肉片」に食べられてしまったものであったが――の上におかゆを置いて、悠希はそれをもさもさ食べていた。食欲もなかった。おかゆはひどく味気ないものに思われて、半分くらい食べて、それきりやめてしまった。
悠希は異常に敏感になっていた。周りで何か物音がすればそっちを見るし、窓の外で下校中の子どもたちがなにかを話していれば、それもすべて自分のことを言っているのだというような、おかしな妄想にとりつかれはじめていたのである。
そしてその恐怖心は、すぐにあの「肉片」の姿へとつながった。なぜあの「肉片」は、自分を殺そうとするのだろう――?赤い「肉片」は、さも憎憎しげに、不愛想に部屋の中を歩き回り、ばきばきと音なんて聞こえていないかのように家具をかみくだいてしまう。そんなのが毎日毎日、自分の部屋に入ってくるのだ…。
そのたびに、悠希は、今まで経験したことのないような戦慄に襲われて、いてもたってもいられなくなった。それは、「自分は殺されようとしている」というあまりに非日常的な、しかし迫真にせまった実感なのであった。
悠希は呼吸しているのさえばからしくなり、床に散乱していた漫画本を手に取って読んだ。内容はちっとも頭に入ってこなかったが、そうでもして気をまぎらわすほかなかったのだ。
目が覚めると、異様な空気が部屋に立ち込めていた。
悠希ははぁはぁと過呼吸になって、滑り込むようにベッドの下にもぐりこむ。
どすん、どすん、どすん、どすん…
「肉片」は、心なしか前よりもせわしげに――いや、確信ありげといった方が適当かもしれない――部屋の中に躍り込んできては、うろうろしはじめる。
もう部屋にはほとんど家具は残っておらず、反対の壁際にあったタンス一つと今自分が隠れているベッドだけだったのだ。
悠希は部屋に立ち込めたこの世のものとは思われない殺気が、自分ひとりを指ししめしているように思われてきた。「肉片」は、自分を殺そうとしている、殺そうとしている…それに殺されようとしている…。「そこにいるよ」その声さえどこかから聞こえてきそうで、悠希はほとんど泣き出しそうだった。
「肉片」は、部屋の中央で静止していた。しーんと周りに沈黙がただよう。悠希は息を殺して、煮えたぎるような胸の中が音をたてないように、必死でこらえていた。
どすん、と「肉片」が動いた。足音ははじめ近づいてきたようであったが、やがて反対の壁の方へと遠のいてゆき、ばしゃん、ばりばりっという音とともに、タンスがくずれ落ちる音がした――。
「悠希…ほら、悠希」
気が付くと、母が悠希をゆり起こしていた。
悠希は、自分が汗びっしょりで、シーツまでべとべとに湿らせていたことを知った。目もすこししょぼしょぼして、知らない間に泣いていたということも分かった。
悠希は、さっきまで自分はこの下に隠れていて、ちょうど「肉片」が、あの対面にあるタンスにかぶりついて、それが崩れ落ちるさまを見ていた、そのように感じられてならなかった。それは事実そうだったのだ、ただそれが「夢」と呼ばれるか「現実」と呼ばれるかの違いがあるだけで、悠希にとってそれは実感として全く変わらない代物だった。なによりそのことは、びっしょりと汗に濡れたシーツと、はげしい胸の鼓動が説明していた。
気が付くと、母の後ろには父も立っていた。心配そうな、困ったような顔つきで、じっと悠希の方を見下ろしていた。
「悠希、今日も先生にお電話入れといたから…元気になるまでは、ゆっくり休んでいてくださいって、先生も心配してくださってるみたいよ。…だから、無理はしなくていいの」
母は、汗と涙でぐちゃぐちゃになった悠希の顔をタオルで拭きながら言った。父は後ろから、「たぶん疲れてるんだ。ごはんはちゃんと食べさせてるのか?」と野太い声で聞いた。父はいつも仕事で帰るのが遅いため、あまり話したことがなかったので、悠希にとってはやや不慣れな感じがした。
「食べてるわよ…おかゆとかりんごとか、最低限のものは食べさせてるわ。なんたって消化が悪いみたいだもの…」
「それなら、一体どうしたんだ」
「分からないわよっ」
母はすこしいらだった剣幕で答えた。悠希は、それでもまだ夢うつつという感じで、ぼんやりした感じで二人が話すのを聞いていた。
「…お前、ちょっと」
父は静かな声で言って、母をともなって部屋の外へ出て行った。悠希はとくにそれを聞こうとは思っていなかったけれど、部屋の外で、二人がひそひそとなにかを話し合っているのが耳に入ってきた。
悠希は呼吸をするのさえもう苦しくなっていた。なぜ、なぜ、なぜ…悠希は答えの出ることのない幻のような問を絶え間なく自分の胸にぶつけつづけ、その繰り返しのたびに呼吸がわけもなく荒ぶり、弾んだ。なぜ、この部屋には色があるのだろう、なぜ誰かはあんなタンスを作ったんだろう、どうして自分は「家」というものに住んでいるのだろう…それらすべてが、自分に襲いかかってきて、鋭利な刃物のように、ずたずたに切り刻んでしまうかのようだった。
悠希は押しつぶされそうな気持ちになって、「なんで、どうして…やめてよ…」と力なくつぶやいた。悠希は再び泣いた。
「悠希」
母がゆっくりと様子をうかがうように部屋に入ってきて、変な笑顔をたたえて言った。
「悠希、ひょっとしたら悩み事でもあるんじゃないかってお父さんが言っててね。…ううん、大丈夫、ないならないで大丈夫なの。でも、いちおうお医者さんに診てもらおうってことになったから…辛いなら辛いってお医者さんに言えばきっと治してくださるから。今から、お医者さんのところ、お父さんとお母さんと一緒に行こう?」
母の言葉は、まるで機械を通しているときのように実感がわかなかった。それよりも母の後ろで、父がまっすぐ口を結んで立っているのばかりが悠希の目についた。
「はい、それじゃあよろしくね」
悠希の目の前にお医者さんのおじさんが座った。見たところ50歳くらいだろうか、ふさふさした髪はわずかに脂ぎっていて、ところどころに白いものがまじっている。ぱりっとした白衣を着ているさまはお医者さんらしい貫禄を感じさせた。きっとお金持ちなんだろうな・・・
「大丈夫、緊張なんていらないよ。おじさんとお話するだけだから。気分を楽にしてください」
そう言ってお医者さんはにっこりと笑った。悠希はその顔を見るたびにぞっとした――この人も同じように、自分を殺そうと思っているのではないか、その掬えるような笑顔のそこで、つめたく激しい敵意を渦巻かせながら・・・
部屋はしんとしていた。真っ白い壁は圧迫するように四方にそびえ立ち、壁沿いには白いカーテンだの机だのが並んでいて、その上にはばさばさと無造作に広げられた書類がある。つんとした薬くさいにおいが鼻をついて、悠希の胸はざわざわと波立ちはじめる。
「最近寒くなってきたよねぇ。おじさんもう歳だから、風邪ひいちゃったときが大変でね。あれは二年くらい前のことなんだけど、おじさん今くらいの時期に風邪ひいちゃって、一週間くらいずーっと寝てたことがあるんだよね。ずーっとかみさんについててもらってね・・・君の学校ではどう?風邪引いて休んでいる子、多くないかい?」
「・・・そんなにです」
「そっかそっか、そりゃあいい、うん、いいことだ・・・」
お医者さんはしきりにうなずきながら、じっと悠希の方を見ていた。その目は、部屋の変わりばえのしない蛍光灯を反射して、刃物のような鈍い光をたたえていた。その刃物は、まもなく自分の胸へと、心へと、深く突きつけられるのだろう。
「君は、クラブ活動やっているのかい?」
「はい・・・イラストクラブに」
「ほー。じゃあ、絵描くのも好きなんだね?実はねぇ、おじさんも絵には興味があってね、ほら、君も知っているかな、クロード・モネの、日傘をさした女の人の絵・・・ええと、なんだったかな、あの絵はなんとか派っていうんだけど・・・」
「・・・印象派」
「そうそう、印象派だよ!おじさん印象派の絵が好きでね、美術館に行ったら毎回チェックしているんだよ」
悠希はいらいらしていた。どうせたいして詳しくもないくせに、話を合わせようと笑顔を振りまいているこの男が、うとましくもあり哀れでもあった。「印象派も知らないくせに絵のことを語らないで!!」と、悠希は叫びだしそうでさえあった。
ふぅん、そっかそっか、へぇー、そうだよねぇ・・・まるで用意されたかのような相槌のことばが意味もなく部屋の中をただよい、悠希はひどく馬鹿にされている気がした。
「・・・そういえばさぁ」
お医者さんは、机の上に置いたボードのようなものにすばやくペンを走らせながら、悠希に聞いた。
「君、最近学校行ってないみたいだけど・・・具合でも、悪いのかな?」
「・・・・・・」
悠希はうつむいた。お医者さんは、そんな悠希の顔をのぞきこむようにして、首をかしげた。
悠希は答えたくなかった。言ったが最後、自分はおかしい人間扱いされて、二度と普通の生活に戻れなくなってしまうだろう。自分はおかしくない、おかしくないのだ・・・ただ、怖い・・・殺されようとしている・・・おそらく今夜、自分はあの「肉片」に噛みくだかれて、血しぶきとともにばらばらになってしまうのだ・・・。
「・・・たくない」
悠希は無意識のうちに繰り返していた。
「・・・死にたくない」
「死にたくない?」
お医者さんは意味を知らない言葉を聞いた子どものように、悠希の言葉を反芻した。お医者さんは一瞬きょとんとした表情になったが、すぐにボードの上にペンを走らせた。顔を上げたときには、もうすでに先ほどの笑顔に戻っていた。それを見てやっと、悠希はその笑顔が作り物であることを知った。
「死にたくないんだね。でもねぇ、おじさんは死なないと思うなぁ。まだ若いんだから病気の心配もないし、お母さんもお父さんもいる。・・・どうして、死ぬなんて思ったのか、聞かせてくれるかな?」
「・・・自分は、おかしくありません」
「んー?」
お医者さんは口をつむんで、首をかしげた。
「今はねぇ、おかしいとかおかしくないとかいう話は、していないんだ。君がどうしてそう思ったのか、おじさんはそれを聞きたいだけ。言いたくないのかい?」
「・・・殺される」
「殺される?」
「いつもいつも、夜になると部屋に『肉片』が入ってきて、部屋のものを食い散らしていく。それが怖くて、ベッドの下に隠れているけれど、今夜、『肉片』は自分を殺す。自分は何もしていないのに、悪いことなにもしていないのに、どうして殺そうとするの?どうしてそんなに恨んでくるの?嫌だ、嫌だ、やめて、死にたくない・・・」
お医者さんは一つ一つ、うなずきながら聞いていた。まっすぐに悠希の目を見ていた。きっと、どちらかの頭がおかしいのだろう。もしそばからこの二人を見ている人がいたなら、おそらくそう思ったに違いない。
お医者さんは「・・・ふむふむ、なるほど」とつぶやくと、また手元のボードに目を落とし,ペンを走らせた。ぐちゃぐちゃした線のかたまりが次々と連ねられていくさまは、さながら絵を描いているみたいだった。
お医者さんはしばらく黙っていた。
悠希は一息にしゃべったので、息が切れていた。しかしまたせきを切ったように、言葉がついて出てきた。
「自分はおかしくないんです、おかしくなんかないんです。ただ、怖いんです。あの『肉片』が、いつ、来て、自分を飲み込んでしまうのか・・・逃げられないんです、信じてください、すごく怖いんです、幻なんかじゃありません、ちゃんと実感があるんですよ・・・」
お医者さんはうんうんと返事をしながら、絶えずボードになにかを描いていた。
「そうかそうか、そんな怖い目に遭っていたんだね。おじさんもそうだったら、絶対に怖いと思うなぁ。でもねぇ、おじさんは、君は死なないと思うよ。日本の治安は世界一とは言えないまでも、ずっと良いほうだ。もちろん中には怖い人もいるだろうけれど、きちんと安全に気をつけて生活していれば、大丈夫だよ。だから、怖がる必要なんかないんだよ。学校のお友達だって、心配しているって、おじさん聞いているよ。だから・・・」
「・・・どうして?」
「え?」
お医者さんは、ペンを止めて、悠希をじっと見つめた。悠希は、ひざの上においた手をきゅっと固くにぎっていて、悔しさをこらえているかのようだった。
「どうして、信じてくれないの!どうしてお医者さんまで、自分を殺そうとするの?!そんなに自分が嫌い!?」
「ちょっ・・・君!」
悠希はおさえきれず、前に座ったお医者さんに飛びかかっていた。肩をぎゅっとつかむと、そのまま回転する椅子の向こう側へ押し倒す。がらがらと激しく椅子が回転して倒れる音がして、机の上に置かれていたペンとボードも床に投げ出された。悠希はお医者さんの顔を憎憎しげに眺め、わき起こる感情のままに、顔や肩を押したりぶったりした。お医者さんのもがく足が、机の引き出しにあたってがたんがたんと音を立てた。
その音を聞きつけて、がちゃんと開いたドアから父と母が怒鳴り込んできた。
「悠希!なにしてるの、やめなさい、やめなさいったら・・・!」
「うわああああああああああっ!!!」
悠希は号泣していた。自分でも何をしているのか分からなかった。上も下も右も左もぐちゃぐちゃで、涙でぼんやりした視界を通して、お医者さんが真っ赤な顔でこっちをにらんでいるのを見た。なにか鋭い言葉が聞こえて、悠希はぐっと身体を起こされ、立て続けに、一発、また一発と、ほおにじんわりした痛みが走るのを感じていた。
「どうして?どうして?どうして?・・・」
悠希は最後まで叫ぶのをやめなかった。
気がつくと悠希は車に乗っていた。
前方では運転する父と助手席に座った母がいて、ほとんど無言だった。いつもなら音楽がかかっているはずなのだが、かかっておらず、沈黙がより際立っているようだった。ゆっくりと目を閉じると、さっきまで押し倒してぶっていたお医者さんの身体の感覚が思い出されて、夢のできごとではなかったことを知った。
「・・・悠希」
母が押し殺したような声で呼んだ。
「・・・あんた、疲れてるみたいだからもう少し休んだ方がいいわ。何があったのか知らないけれど、お母さんとお父さんはいつでもあんたの味方だから・・・『殺そう』だなんて、そんな・・・思ってるわけ、ないじゃない」
悠希は黙っていた。病院に行ったのは朝方のはずなのに、すでに外は日が沈みかけていて、空の上のほうには薄暗い闇が広がっていた。
それきり、家族は何も話さなかった。悠希は、窓の外の空をぼんやりと眺めていると、不思議と気持ちが落ち着いてきた。それはこの沈黙のせいか、あるいは空は絶対に自分を殺そうとは思っていないという確信があったためか、分からなかった。
悠希は階段を上っていた。
薄暗かったが、それは夜だったか、昼間だったか、悠希には認識できなかった。ただしそこはまぎれもなく自分の家で、何も考えず忙しげに、階段を上っていた。
どすん、どすん、どすん、どすん・・・
目の前に木でできたドアがあった。悠希はそのままドアを体当たりでどばんと壊して、中に押し入った。
殺風景な部屋だった。どこを見ても、なにも無かった。部屋の右すみに置かれた一つのベッドを除いては・・・悠希はぐぐぐとのどを鳴らし、部屋の中央に歩いていく。それからぐるぐると頭をめぐらす。ひどく身体が重かったが、それは単なる感覚に過ぎず、言葉にはならない。
呼吸ががあがあと大きな音を立てる。
悠希はベッドの方へ歩いて行く。
悠希は、それまで開けたこともないほど口を大きく開き、ベッドにかぶりついた。ベッドはまるですこし固いチョコレートのように、力を入れればばりばりと砕けた。
悠希は無我夢中だった。いや、言葉を持っていなかった。ただ、そう、ちょうどあのときお医者さんにつかみかかったときのように、思うがままに、悠希は感情をむき出しにし、むしゃぶりついているのであった。
ベッドが消えると、その下には一人の人間がいた。
男の子か、女の子か、分からなかった。悠希はそんなことは認識せず、ただ「人」でしかなかった。ベッドを喰って息が荒くなっていた悠希は、ふたたびごごごとのどを鳴らし、「人」にかぶりつこうとした。
「人」は小さな悲鳴を出し、身体を丸くしたのが分かった。しかしそれがコンパクトな形になったのと同然で、悠希はそれをかみ砕くことなく包み込むように口の中へといざない、しばらく口の中で転がしてから、ごくりと飲み込んでしまった。
「人」は、ねとねと湿った赤黒い肉壁に横たわった。ここは悠希の胃袋の中なのだ。みるみるうちに服が溶けてゆく。肉壁はもごもごと動き、「人」を圧迫する。それは明らかに人の人に対する力ではない。「いたいいたいいたいいたい!」肉壁の中で「人」は叫んだ。
「うわあああああぁ」
もはや人間とは思われない叫び声を残して、「人」は絶えていった。身体の部分という部分がごちゃごちゃになり、末端の方から肌色の液体になった。悠希の身体の表面に浮き出たぶよぶよした血管が、何かを促すようにどくんどくんと波打った。
悠希はがふう、と大きなげっぷをした・・・。
薄暗い部屋の枕元で、悠希は目を覚ました。
悠希は眠たげに目をこすり、近くにおいてあった時計を見た。7時。そろそろ学校に行く準備をしなければならない時間だ。
悠希はふとんをのけて立ち上がり、服の入っているタンスの方へ歩いていく。お気に入りの服はどれだったかな、と考えながら、こんなふうに着ていく服を選ぶのもずいぶん久しぶりかも、と思った。すこし楽しい気分になった。
悠希は服を着替え終わり、部屋の片隅にうち捨ててあったランドセルを開けて、中身をチェックした。時間割表を見て、授業の内容を見る。嫌いな算数と体育の授業があったのでげーっとなったが、図工の時間があったので悠希はうきうきとなった。
「お母さん、おはよう」
悠希は一階に降りていって、母になにげなくあいさつをした。
「おはよう・・・ってあんた、どうしたの急に?学校に行く気になったの??」
母は右手にもった菜箸で前にあるフライパンの上を器用にまさぐりながら、怪訝そうな顔をして振り返った。心なしか目の下にくまができていて、髪も乱れているようだったが、それもここしばらくの間自分が心配をかけたせいだな、と思った。
「うん、行くよ」
悠希はそう言って、どすっと音をたててテーブルの椅子に身体を投げ出した。部屋には卵焼きのにおいが充満していて、窓の外にはうすい、さわやかな水色が広がっていた。すばらしい天気だ、と悠希は感じた。
何気ない、朝の時間だった。
「はい」
母ができた卵焼きをお皿に乗せて悠希の前に置いた。卵焼きと、切ったりんごと、味噌汁――これはインスタントものであったが――そして、きらきらしたご飯だ。悠希は、おなかがすいていたので、「いただきます」と言って、がつがつと食べ始めた。
「悠希、もう身体は大丈夫なの?」
「大丈夫」
「・・・怖くない?」
「怖くないよ」
まだ不安げな顔をしている母を横目に、悠希はさっさと朝ご飯を食べ終わってしまって、学校に行く準備をはじめた。
「じゃあ行ってきまーす」
悠希は母の方を向いて言って、家の玄関の外へ飛び出していった。
空は高く澄み渡り、肌寒い朝の空気にやさしい太陽の光がとけあって、気持ちよかった。
周りで知らない小学生たちが、「おはよー」と声をかけあっているのを見ても、悠希は「殺される」という恐怖を抱くことはなくなっていた。いや、その恐怖自体は正しいだろう。しかし悠希はそれ以上に、征服感にも似た、不思議な高揚で胸がいっぱいだったのである。
悠希は、軽快にスキップをふむように歩く。
たとえば今日も同じように夜が訪れたとしたら、きっと自分はまたどこかの知らない誰かを殺すために、暴力的な破壊を繰り返すのだろう。それは昨夜の悠希がそうであったように、誰かを殺したいからそうする、というわけでは必ずしもない。ただ、身体がそうしろと命令しているから、そうするのだ。本能といってもいいかもしれない。
もし、この世界の誰もかれもが、その種の恐怖におびえているとしたら、と悠希は思った。ちょうど昨日までの悠希のように、言いようのない不安にぶるぶる震えながらでないと、生活できないのではないだろうか。
でも、その人だってきっと同じだ。同じように夜ごと・・・いや、この踏みしめる一歩一歩のうちにも、どこかの誰かを死の憂鬱に突き落としていて、狂おしいほどの敵意と憎しみを、振りまいているのではないだろうか・・・。
「悠希、ひさしぶりじゃん、おはよう!」
後ろから、友達が話しかけてきた。
「うん、久しぶり!おはよう!」
悠希はまるでこの空のような、すっきりした笑顔でこたえた。その笑顔は、すっかり前と同じように、いやそれ以上に屈託がなく、輝いて見えた。