(3)
「…………やっべえ…………」
その日の夜。
夕食を終えて部屋に戻り、またぞろ原稿の続きに取りかかろうと鞄を開いた俺は絶望的な事態に直面していた。
原稿が、ない。
バックアップを取ることのできない手書き作家にとって、執筆中の原稿は命の次に大切な代物だ。その原稿を紛失してしまうというのは決してあってはならない出来事である。もうすぐ一週間後にまで迫った締切と、「これ以上イラストレーターさん待たせたらわかるよね」というまったく目の笑っていない担当氏の凄絶な笑顔が脳裏をよぎる。冗談抜きにがたがたと歯の根が打ち震えた。
どうしようどうしようどうしよう。頭を抱えながら部屋をひたすら行ったり来たり飛んだり跳ねたりしたりしていたら隣の妹の部屋から穴が開くほどの猛烈な壁ドンをお見舞いされた。我が家の兄妹関係は今日も完膚なきまでに終わっていた。
しかし、そのおかげで少し冷静になれた。こんなことをしている場合じゃない。原稿を置き忘れたとしたらきっと学校だ。俺は大慌てで部屋を飛び出した。
「あら稲荷、どうしたの?」
だが玄関先、ちょうど靴を履き替えたところで運悪く母と鉢合わせしてしまった。今は事情を説明している時間も惜しい。この場を切り抜けるための最善策を猛スピードで導き出した俺は、極めて真剣な表情で母にこう告げた。
「……いつか話せる時が来たら、必ず話すよ」
そんな意味深な俺の台詞に対し、母はしばしの沈黙の後、全てを理解したかのような微笑を浮かべて答えた。
「行きなさい」
何も意味深じゃないし何も理解していない親子のやり取りを終えた俺は、母の愛に感謝しつつ全速力で明かりの消えた町へと飛び込んでいった。
それからおよそ三十分ほど走り続けただろうか。夜の空気の中をひとり駆け抜けていくのは物語の主人公になったようでとても気持ち良かったのだが、日頃の運動不足によって家を出て数分で完全に息切れを起こした俺の表情はと言えば今際の際の敵キャラと言ったほうが正しかったように思う。酸欠で霞む視界の中、膝ごとその場に崩れ落ちながら、学校に到着したところでようやく自転車の存在を思い出した俺はただただ茫然自失した。
だが反省は後だ。今はこんなことで時間を食っている場合じゃない。己の体に奮起を促し、真っ暗な校舎にそろそろと侵入を試みる。
職員室の明かりはすでに消えており校内は無人の様子だった。さらに校門は開けっ放しで玄関には鍵すらかかっていない。それでいいのか甲南高校。こんな警備体制じゃ女子が置き忘れていった体操着を物色し放題じゃないか。よし。
「…………つっても、怖いもんは怖いよなぁ」
なんだかんだで真夜中の学校という場所は独特の薄気味悪さが漂っているもので、真っ暗な空間に自分の足音がひたひたと反響するこの状況は普通に不気味だ。自然と早足になるのを感じつつも俺はまっすぐに教室を目指した。
それにしても……こういう肝試し的なイベントは可愛い女の子と一緒に行われるものだと相場が決まっているものじゃないのか。恐怖のあまりに悲鳴をあげたり抱きついてきたり腰を抜かしたり気絶したり勢い余って失禁してしまう女の子が隣にいてこそ輝きを放つイベントではないのか。まったく現実の夢のなさよ。
そんな理不尽な怒りを原動力にして教室に辿り着いた俺は、早いところ原稿を探し出さねばと扉に手をかけた。
すると。
「…………零助、さん…………?」
教室の中から、そんな声が聞こえてきた。
「……ど、どういう……ことですか…………?」
謎の声はさらにそう続いた。少女の声だ。喉の奥から絞り出すような、言葉の端々に不安の滲んだ声。誰かと話しているようで、その相手の名前は零助と言うらしい。珍しい名前だと思った。
「……は、はい。お姉ちゃんから聞きました。私たちミーティライト家もまた祖先より魔を討つ力を授けられた一族。……でも、私は才能がないですから……一生かかったって、お姉ちゃんみたいにはなれそうもないですけど……」
また新たな情報によると、その女はミーティライト家という魔を討つ力を授けられた一族の生まれであるらしいことが判明した。もっとも本人に才能はなく、一生かかっても姉には追いつけないことを自覚しているらしい。
俺は。
教室の扉に手をかけた状態のまま、ただ呆然とその場に立ち尽くすことしかできずにいた。
「……で、でも……私は…………え……?」
その言葉は。
俺の小説のヒロインの台詞だ。
この冬に立ち上げる予定の新シリーズ、『WORLD=P2』。世界を襲う脅威と戦うことを宿命付けられながらも自らは戦う力を持たず、代わりに少女のパンツを媒介にすることでその持ち主を使い魔として使役する能力を持つ少年を主人公とした現代異能バトルファンタジー。現在執筆中のその原稿こそまさに俺が教室に取りにきた探し物そのものであり、扉越しに聞こえてくる言葉はヒロインの一人であるルーシィ=ミーティライトの台詞そのものだった。
これは一体どういうことなのか。こんなことが現実にあり得るのか。
「……でも、いくら力を与えられたところで……私なんかが戦っても……」
…………だが。
目の前の出来事に呆然とする一方で、俺の胸の中には戸惑いとは別種の感情が芽生え始めてもいた。
「……どっ、どうしてっ、零助さんにそんなことっ!」
もしも。もしもだ。
もしも俺がラノベの主人公だったとするなら。
もしもこれが、現実ではなくラノベの中の世界だったとするなら。
ずっとずっと、自分だけのヒロインを探し続けてきた主人公の少年が。
忘れ物を探しにやってきた真夜中の学校で。
どういうわけか原稿用紙から飛び出してきたヒロインと、運命的な出会いを果たす。
そういう展開は……十二分に有り得るのではないだろうか。
「…………そ、そんなの違う! 私が弱いのはお姉ちゃんのせいなんかじゃない!」
そんなことがあるはずがない。だけどあったっていいじゃないか。このようなことを本気で考えてしまったのは決して俺が重度のラノベ脳であることだけが理由ではないだろう。
だって、扉の向こうから聞こえてくるその声は、どこからどう聞いたってルーシィの声なのだ。
姉思いで、引っ込み思案で気が弱くて、いつも人の背中に隠れているような女の子。正しく言えば俺のイメージの中のルーシィの声ということなのだが、それくらいその声の主は完璧にルーシィ本人なのだった。
間違いない。ここには、ルーシィがいる。
俺は自分の心臓が猛烈に高鳴るのを感じていた。だってそうだろう、自分の書いたヒロインだ。俺の理想のヒロインそのものが、扉一枚を挟んだ向こう側にいるのだ。興奮しないわけがない。
「……少しだけ、考える時間を、ください」
その時、なんの予兆もなく教室の扉が開いた。
いや――正確に言えば予兆はあった。なぜならば、そのセリフの後にルーシィが教室を出ていくというのはまさしく原稿通りの展開だったからだ。だがそんなことを事前に予期できるほどこの時の俺は冷静ではなかった。結果として、俺はなんの心の準備もない状態でルーシィと対峙することになった。
「………………」
「………………」
結論から言えば、その人物はルーシィではなかった。
俺の目の前に姿を現したのは身長百四十センチ程度の小柄な少女だった。ルーシィの背はここまで低くないし、そもそも髪の色がまったく違う。本来であれば赤いはずのルーシィの髪に対し、月明かりに照らされた少女の髪は雪のように真っ白な輝きを放っていた。
いったいこの人物は誰なんだ。
七伏冬子だった。