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ヒロインになれない七伏冬子はヒロインになりたい  作者: 音部 軽
一話:その日、空からパンツが降ってきた
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(2)

「なあ北崎」

「はい」

「お前はさ」

「はい」

「馬鹿だよな」

 それから数分後、職員室にて。

 周囲に煙草の煙を浮かび上がらせつつ、野暮ったい銀縁眼鏡の向こう側から気だるげな瞳で俺を見下ろしているこの二十代後半の女性は担任の花村はなむら先生。彫りの深いアジアン系の顔立ちに豊満なボディラインを合わせ持つ美人教師でありながら、化粧の類を一切せず、何日も洗っていないと思われるくたびれた白衣を身につけ、伸びきったボサボサの髪をヘアゴムでくくっただけという女盛りをドブに捨てたような格好がそのすべてを台無しにしている、一言で言うとやる気のない人である。

 とは言え、彼女が磨けばいつでも光る原石であることを知っている俺にとって身だしなみのズボラさなどは大した問題ではなく、むしろその魅力に無限の可能性を残しているという点で俺は花村先生を大いに評価している。

「……で、そんな馬鹿の北崎はさっきから人の話もろくに聞かずにどこを見ているんだ」

「花村先生の胸を見ています」

「楽しいか?」

「最高です」

「そうか」

 はあ、とひとつ小さなため息を吐き出す花村先生。それと同時に外見の地味さに似合わぬ豊満な胸が白衣越しにたゆんと上下する。その素晴らしい光景に俺は改心の笑みを浮かべた。花村先生はとても嫌そうな顔をした。

「で、今回の騒ぎに対するお前の処分だが」

 新しい煙草に火をつけながら、花村先生は事務的な口調で俺への判決を言い渡す。

「今日の放課後までに原稿用紙に反省文十枚。一秒でも提出が遅れたら一週間の停学だ。わかったか」

「……え? それだけでいいんですか?」

「なんだ。今すぐ停学にされたいのか」

「いや、そんなことは決して。っていうかそれなら今書きます。何か書くものと原稿用紙ください」

「……ほら。これでいいか?」

「ども」

 花村先生からシャーペンと原稿用紙を受け取った俺は、その場でさっそく反省とは名ばかりの定型文を書き綴っていく。花村先生はそんな俺の様子をやる気のない瞳で見つめつつ、乾いた唇から紫煙を吐き出しながら告げる。

「なあ北崎」

「はい」

「お前はさ」

「はい」

「馬鹿だよな」

「さっきも聞きました」

「他に言葉が見つからないんだ」

「現国担当ですよね花村先生」

「日本語は不自由だと強く感じているよ」

 そんなことを言いつつ、自分の机の中からおもむろに一冊の文庫本を取り出す花村先生。剥き出しの表紙には凛々しい顔つきをしたポニーテールの制服美少女のイラストが描かれており、大地から吹き上がる謎の風によってスカート前部がめくれ上がっているというデザインになっている。

 そんな小説の表題は『パンツァー×バレット~パンツなき戦い~』。ひょんなことからノーパンで日々の学園生活を送ることを余儀なくされた女子生徒と、そんな女子のスカートの中身を見ることに青春のすべてを懸ける男子生徒による学園戦争を描いたいわゆるライトノベルと呼ばれる小説だ。ナンバリングは六巻。つい先日発売したばかりの最新巻にしてシリーズ最終巻だ。

 そんな本のページを無造作に開くと、花村先生はさも当然のようにその場で読書を開始した。ブックカバーもかけずに職員室という場所で平然とこの本を読む花村先生の胆力に感服しつつ、俺もまた原稿用紙の上にペンを走らせていく。

 それから数分後。

「できました」

「そうか」

 花村先生は気だるげな瞳で適当に中身に目を通すと、これまた気だるげな仕草で原稿用紙の束を自分の机の上に放り投げ、「受け取った」とだけ告げて再び読書に戻っていった。それっきり俺の存在にはノータッチ。もう出ていっていいぞ、ということだろう。

 だが目の前でこんな光景を見せられては感想を聞きたくなるのが人情というもの。返ってくる答えはだいたい予想がつくものの、思いきって問いかけてみることにした。

「どうですかね、今回の話」

「私に本の感想を聞くな」

「いや、だって気になるじゃないですか」

「エゴサーチでもしてろ」

 にべもなかった。ところでにべってなんだろう。

「にべってなんですか」

「スズキ目ニベ科の海水魚のことだ。接着剤の原料になるほど粘り気の強い浮き袋を持ち、その粘着力の強さから転じて他人との親密関係を意味する言葉でもある。にべもない、というのはひどく無愛想で親密さの欠片もないことを現す」

「おお……さすが現国教師」

「お前も物書きならそのくらい勉強しておけ」

「……すいません」

 花村先生は文字さえ書いてあればどんな本でも読む。小説だろうが学術書だろうが辞書だろうが図鑑だろうがお構いなし。いわゆる活字中毒というやつだ。あと見ての通りニコチン中毒。もっとも彼女にとって読書とは呼吸と同等の行為であるらしく、花村先生は「空気の味をいちいち口に出す必要があるのか」という理由で絶対に読んだ本の感想を口にしない。都会を離れて田舎の空気を吸った際なんかには口に出すこともあるんじゃないかと思うんだが、まあ要するに俺にはまだ田舎の空気に値する話が書けていないということなのだろう。結果的にヘコむ俺だった。

「ふう…………」

 ページをめくるごとに煙草を一吸い。灰皿にはこんもりと吸い殻の山。自分のことを棚に上げるわけじゃないが、そもそもこんなものばかり吸っているから空気の味の違いもわからなくなってしまうんじゃないだろうか。花村先生の周囲にもくもくと立ちこめていく紫煙を眺めつつ、俺はひとつ提言させていただくことにした。

「あの、花村先生」

「何だ」

「喫煙って一種の間接キスですよね」

「……はぁ?」

「よく考えてみてください。この煙は花村先生の口から吐き出されたもので、同じ空間にいる俺も口を介してその煙を吸い込んでいるわけです。ディープどころの問題じゃありません。俺たちは今、舌どころか肺から肺まで繋がっている状態なんですよ。どうしましょう花村先生。俺めちゃくちゃ興奮してきました」

「…………………………」

 まるで泥を食べさせられたような表情を浮かべつつ、吸い始めたばかりの煙草の先端をぐりぐりと灰皿に押し付ける花村先生。こうして蔑みの視線と引き替えに彼女の健康は守られた。ウィンウィンだった。

「それじゃ俺、そろそろ失礼します」

 職員室を出る間際、背中から「死ね」とかいう教職者にあるまじき率直な暴言が聞こえたような気がした。花村先生にまでそんなことを言われたらもう本当に死ぬしかないので気のせいだということにして教室に向かった。

 講堂ではまだ全校集会の続きが行われているようで、廊下はしんと静まり返っていた。あれだけの騒ぎを起こしても日常は何事もなかったかのように正常に回っていく。花村先生と話している間は努めて向き合わないようにしていた事実を前に、俺は小さく嘆息した。

 申し送れたが自己紹介をしよう。俺の名前は北崎きたざき稲荷いなり。学業に勤しむ傍らでデビュー三年目のラノベ作家として活動していたりもする高校二年生だ。

 そんな俺には二つの夢がある。

 ひとつはラノベ作家として大成することで。

 もうひとつはラノベのような青春を送ることだ。

 そして現在、その二つの夢についてはわりと、いやそれなりに、いやだいぶ……前途多難だった。

 前者についてはまあ、ひたすら頑張るしかないのだが……後者に関しては今のところまったく希望が見えずにいた。十七歳の俺の青春はひたすらに灰色だ。絶対に諦めるまいと心に決めてはいるものの、こうして冷静に己を振り返ってみるとさすがに悲しくなってくる。

 現実と空想の壁はひたすらに厚い。今日の全校集会のようにそれっぽいアクションを起こしてみたところで最後には結局失敗に終わる。形だけラノベの主人公みたいなことをしてみたところでラノベのような青春なんてそうそう手に入らない。こうして誰もいない廊下の中でラノベの主人公風に自己紹介をしている自分が客観的に見てどれほど空しい存在なのかもわかっている。

 だが同時に、この状況を改善するには何が必要なのかもわかっていた。

 それは――――――ヒロイン。

 そう。ヒロインだ。

 俺の青春にはヒロインが存在しないのだ。

 どんなラノベにもヒロインは必要不可欠で、ヒロインの存在しない物語なんてラノベじゃない。ラノベのような青春を送りたいと願うのであれば、まず何よりも先にヒロインのいない青春から脱却せねばならないのだ。

 もちろん俺だって努力はしている。可愛い女子を見つけては「俺のメイドになってほしい」とか「毎朝おまえの下着を選びたい」とか「俺と性交してくれ」とか、熱い想いをぶつけてはそのたびに逃げられたり泣かれたり殴られたりしている。気付けば学校中の女子からゴキブリ扱いだ。俺の何がいけなかったというのか。

 だがいくら悲観したところで現実は変わらない。

 青春の残り時間は刻一刻と減っていく。

 誰でもいいとは言わない。ただ俺の夢を理解してくれて、俺と同じ夢を歩んでくれて、ついでに可愛くて優しくて俺のことを好きでいてくれてパンツとか見せてくれておっぱいとか触らせてくれて一緒に風呂とかも入ってくれるようなヒロインとの出会いが、どこかに落ちてはいないものか。

 そんなことを思いつつ、教室の扉を開ける。


 無人のはずの教室の中に、真っ白な髪の少女がいた。


 わずか百四十センチ程度の小さな体。透き通るように白い肌。腰まで伸びた長い銀髪。人形みたいに整った容貌。

 まるで存在そのものが淡雪のような、どこか現実感のない美しさを湛えた少女。

 辺り一面の静寂の中、そいつは何をするでもなく、自分の席でたったひとり静かに虚空を見つめていた。

「――よう七伏。何やってんだ、こんなとこで」

「…………」

 その女は何も答えない。それどころか俺のほうを見向きもしなかった。さながら氷の彫像のように。

 この学校の女子はもれなく全員俺に冷たいのでこんな風に無視されること自体は日常茶飯事なのだが、この女に限っては少しばかり事情が違っていて。

「さっきの騒ぎに乗じて抜け出してきたのか? お前も意外と不良っぽいとこあるんだな」

「…………」

 こいつの名前は七伏ななふし冬子とうこ

 通称、雪女。

 入学以来一度として人前で口を開いたことすらなく、その氷点下の眼差しで周囲の人間すべての心を心を凍らせ続けてきた、まさに雪女。その日本人離れした容貌も相まってその異名はほとんど畏怖や信仰に近い形で校内中に轟いており、人々はみな「七伏と目が合ったら氷漬けにされる」とか「中学時代、七伏の機嫌を損ねた同級生が行方不明になったらしい」とか「去年の歴史的大雪は七伏が降らせたらしい」などと口々に噂し合っては七伏のことを避けるようになっていった。

「そういや七伏、こんな噂を知ってるか? うちの学校、夜になると幽霊が出るんだそうだ。その幽霊は夜な夜な空き教室に現れては、真夜中の学校を訪れた者に何かを語りかけて去っていくらしい。まあ、よくある話だけどな」

「…………」

 もちろん、幽霊も妖怪も現実に存在するわけがない。どちらもほとんど同レベルの、根も葉もまったくない噂話だ。

「でも、そういう話って夢があるよな。もし幽霊が本当にいるならぜひ会ってみたいもんだ。七伏はどう思う?」

「…………」

「……うむ。さすが七伏。今日もキンキンに冷えてるな」

 だが少なくとも――火のないところに煙は立たない。七伏冬子とはそういう女だった。

 光の粒子を宿したさらさらの銀髪。ありとあらゆるパーツの造形が小さな顔。その中にあってひときわ強い印象を抱かせる大きな瞳。そこから放たれる刃物のように鋭い眼光。七伏の美しさはあまりにも完成されていて、それでいてあまりにも完結していた。

 どこまでも平凡で常識的な世界の中で、七伏冬子は完全に常識を越えた存在だった。ヒロインと呼ぶのならばまさに七伏のような人間のことを言うのだろう。それこそ、こいつならその気になればいくらでも非凡で特別な青春を送ることができるはずなのに――それなのに、この女は自ら完璧に青春を放棄してしまっているのだ。心底もったいないと思う。

 だがそれは俺の価値観であって他人に押しつけることはできない。俺にできることと言えばせいぜいこうして空気を読まずに毎日せっせと七伏に話しかけることくらいだ。無論、今までにリアクションが返ってきたことは一度もない。

「…………」

 相も変わらず怖いくらいに整った無表情で超然とそこに佇んでいる七伏。まるで精巧な人体模型かマネキンのようだと言ったら七伏の美貌に失礼かもしれないが、これじゃあ壁に向かって話しているのと変わらない。何ならスカートの中とか覗いてみても何も言われないんじゃないだろうかと思ってしまう。

 思ってしまったので。

 俺は七伏の机の下に潜り込み、本能の赴くままスカートの中に顔を突っ込んでみることにした。

「…………くっ!?」

 だがしかし、育ちの良さを感じさせる美しい姿勢によってぴったりと閉じられたその両足はまさに完全防御結界。これだけ至近距離から容赦なく覗き込みにかかっているというのに、三百六十度まったく隙を見せない完璧な角度形成が俺という害虫の視線の侵入を許さない。

 悔しさを滲ませつつ机の下から七伏の表情を窺ってみると、七伏は先ほどとミクロ単位で変わらない鉄面皮のまま粛々と虚空を見つめ続けていた。このような狼藉を働く俺に対して羽虫程度の関心すら抱いていない。

 己の敗北を悟った俺は、せめてもの慰めにとパンツの代わりに七伏の太ももをしっかり目に焼き付けていくことにした。肉付きのごく薄い、今にも折れてしまいそうなほど細くて白い両足。まるで一冬の間にだけ形成される氷柱のような儚さと美しさをたっぷり堪能した俺は、試合には負けたものの人間として成長できた的な清々しい気持ちとともに七伏の机を離れた。七伏は最後まで俺をシカトし続けた。

 いったい何を食べて育てばここまで徹底して他人と関わらずに生きていけるようになるんだろうか。正直尊敬しさえする。俺も人目は気にしないタチだが、それでも七伏の領域にまではとても届かない。俺もこんな風に強く生きていきたいものだ。

 ……さて。やることもないし仕事でもするか。

 自分の席に戻って今度こそ完全に暇になった俺は、鞄から原稿用紙の束を取り出して机の上にどさりと置いた。同業者からも珍しいと言われる手書きスタイルが俺の信条である。理由は話すと長い。パソコンを持っていないからだ。

 そうしてしばし原稿に没頭しているうちにクラスメイトたちが戻ってきた。男子たちは教室に入ってくるなり俺の体を担ぎ上げ、わっしょいわっしょい北崎万歳と手荒ながらも熱のこもった胴上げで俺の全校集会での功労を称えてくれた。その一方で女子はひたすらに冷たい目で遠巻きに俺たちを見つめていた。甲南高校二年一組の日常風景である。

 そんな、いつも通りの活気に溢れていく教室の中で。

 七伏の席の周りにだけ、先ほどまでとまったく変わらない静寂が漂っていた。

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