路地裏バー8
男と少女が出ていったあと、ほどなくしてユズキの仕事は終了した。ユズキが一階で働くのは七時から九時まで。シャワーと歯磨きを済ませると、ユズキは新品のパジャマに袖を通した。今日はもう部屋に戻って、さっさと寝てしまうことにする。
ユカリはすでに自分の部屋にいるようで、中からは微かに彼女の鼻歌が聞こえた。ユカリは多分、鼻歌が好きなのだろう。歌はユズキも知っている、ジャニーズの有名アイドルの曲。タイトルはなんていったかな。思い出せない。
――まあ、どうでもいいか。
ユズキは布団の上に寝転がった。時刻はすでに九時を回っているのに、目だけが妙にさえている。きっとあの少女のせいだ、とユズキは思った。アリスと言う少女に会ってから、ユズキの心臓はずっとドキドキしたままだ。――困ったな。明日までにおさまってくれているといいんだけど。
アリスは言っていた。――料理、とってもおいしかったわ。また来る。
また来る、と言われても、ユカリの作る料理はすべて曜日によって決められてしまっている。パスタが出るのは日曜日だけだ。そのことを――アリスに伝えておけばよかったかもしれない。
額に手をのせ、目をつぶった。
心臓の音はまだうるさいし、隣の部屋からはあいかわらずユカリの鼻歌が聞こえる。
「これはちょっと眠れそうにないな……」
・
朝、ユズキがリビングに顔を出すと、新聞を広げたヒロシゲが難しそうな顔で椅子に腰かけていた。片手には、珈琲入りのティーカップ。今日は月曜日なので、ユカリは学校に行ってしまっている。
ヒロシゲはユズキに気がつくと、いきなりこう切り出してきた。
「昨日のバーのことなんだが」
「はい」何だろう、とユズキは首をかしげる。
「どうにも、新しい客の数が増えていた」
「はあ。それは良いことなんですか?」
「ああ。客が増えれば収入も増えるからな」
「収入が増える――ええと、つまり儲かるわけですか」
「そうだ」ヒロシゲは頷く。「それにきっと、これから客はもっと増える」
「もっとですか」でも、どうして?
「どうしてだと思う?」
ヒロシゲは、またユズキの考えを見透かしたように言った。
ユズキは少し考えてみたが、すぐに頭を振った。「分からないです」
「理由はお前だ」
意外な答えだった。
「え、僕ですか」
「子供がバーで働いている。うわさを聞いて興味本位でやってくる客が増えても、なんら不思議じゃないだろ」
「噂」
とユズキは呟く。
「ああ。この辺りじゃ、もうかなり広まっている」
「……そうですか」
「なんだ。あんまり嬉しそうじゃないな」
「そりゃあまあ、自分のうわさが広まわれてもちょっと」
ユズキは肩をすくめる。
「それに、まだ客が確実に増えると決まったわけではありません」
「確かに。だが、今に見てろ。客は絶対増えるぞ」
「だと良いですが」
「冷たいな。ほんとに小学生かお前は」
「小学生ですよ、これでも」
突然大人だと言われた気がして、ユズキは得意になった。
ためしにテーブルの珈琲を一口飲んでみる。
「苦っ」