遠雷⑦~嵐の足跡~(挿絵有)
数日後、定休日の札がかかった“コレットの菓子工房”のカフェコーナーには、白シャツに黒い前掛けをした男が、お盆を持って立っていた。
「こっちはピスタチオマカロン。横にあるのはピスタチオアイス。
グリオットのタルトレットに、ダックワーズのピスタチオクリームサンド」
ヴィルフレッドがカフェテーブルに並べて行くのは、どれも緑色をした菓子の数々。
「ピスターシュを菓子に使うのか」
「そう。ペーストにするとなんにでも合う」
油分を含んだ豆は、香ばしく炒ってから根気よくすり鉢で擂ると、濃厚なペースト状になる。
ピスタチオは乾燥させてそのまま食べたことしかなかったクラウスは、意外な使い方とその色に面食らう。
「私もはじめは驚いたんですけど、どれもとっても美味しいんです。
しばらく兄も一緒にお店をやってくれるというので、新作にどうかなって。
ティル・ナ・ノーグの人にも受け入れられると思いますか?」
「……」
緑色の菓子というのに少し抵抗のあったクラウスも、それならばとまずマカロンから口に運んでみる。メレンゲとアーモンドパウダーをまぜて焼いた生地はさくっと軽く、中はもっちりとして、間にはさまれたピスタチオクリームとレーズンがいいアクセントになっていた。
「美味い」
「だろう? アイスも食ってみろよ。甘くはないんだ。塩味だからな」
塩味のアイス?
顔に疑問符を浮かべながら、クラウスはピスタチオアイスを食べてみる。ヴィルフレッドの言う通り、あっさりとした甘みの中に塩味が効いていて、バタークリームに似た濃厚さが後を引いた。
「グリオット――上の大きなさくらんぼですね――のタルトレットは、一番下にピスタチオを敷き詰めて、さらにその上にカスタードにピスタチオペーストを加えたクリームを乗せて焼き上げました。ピスタチオの香ばしさとグリオットの甘酸っぱさがとっても合うんですよ」
「グリオットはなぁ。林檎にしようかとも思ったんだけど、ちょっと酸味が足りなくてね。林檎のほうが、ティル・ナ・ノーグの人にはウケそうなんだけど」
「林檎の種類を変えたらいいんじゃない? メリルさんに相談してみる?」
「あのばぁさんか。俺、あの人苦手なんだよな……」
「ヴィル、そんないい方失礼よ。それにメリルさんはおばあさんっていうほどのお歳じゃないわ」
「はいはい。わかったよ。で、どう?」
ヴィルフレッドが、黙って食べ続けるクラウスに感想を求める。
四品目のダックワーズのピスタチオクリームサンドに手を伸ばしていたクラウスは、ゆっくり咀嚼してから、一つ一つについて感想を述べ始めた。
「ふぅん。なるほどねぇ。コレットが頼るのも伊達じゃないか。
わかった。林檎はちょっと探してみよう。
色はさ、これ習った国では、鮮やかな色の菓子の方が評判がよかったんだ。でも確かにきつい感じはするな。色味を抑えて、もっとかわいらしい見た目にしよう。
ダックワーズは崩れやすいのが食べにくい、と。丸じゃなくて棒状にしてみるか。あとは? あぁ、アイスはカフェコーナー限定になるけど、うん、クラッカーを添えて上に乗せるのか。いいかも」
ヴィルフレッドがクラウスの意見に耳を傾けるのを、なぜかコレットは誇らしげに見つめている。
「さすが、ティル・ナ・ノーグ中の菓子を食っただけはあるな」
メモをし終わったヴィルフレッドが、クラウスを見て言う。クラウスは、なぜそれを知っているんだと思ったが、コレットが話したのだろうと、特に問い返しはしなかった。
「じゃ、俺、厨房で今聞いたの作ってくるわ」
「手伝う?」
「いい。茶でも飲んでて」
「くす。わかったわ」
思い立ったらすぐに行動したい兄の性格を知っているコレットは、厨房に引っ込むヴィルフレッドを見送ってお茶を淹れはじめた。
「腕は、大丈夫なのか」
「えぇ。グラッツィア施療院の方も驚くほどの回復ぶりで、もう日常生活には問題ないです。このお菓子も、メレンゲを作るときだけ手伝いましたけど、あとのレシピは秘密だからって、見せてもくれませんでした」
「そうか」
コレットがことりとお茶を置いて、クラウスの向かい側に腰かける。花茶の甘い香りが、二人の間に湯気とともに立ち昇った。
「治療費も、ありがとうございました。あんなにたくさん……」
「いや。こちらこそ、差し入れありがとう。美味かった」
「あ。えっと、あの、クラウス様のお好きなものと同じ味でしたか?」
不安そうに尋ねるコレットに、クラウスは、市場で食べたものより美味かった、分隊員たちも喜んでいたと答えた。
「よかった」
ほっとして微笑むコレットは、ヴィルフレッドが置いていった試作品をつまむ。クラウスも、感想を言うために一口ずつ食べただけだった菓子の続きを食べ始めた。
「あぁは言ったが、このままでも十分美味い」
「ですね。私、昔からヴィルの作るお菓子が大好きなんです。
新しいものをどんどん取り入れて、すごく斬新なんですけど、根底にあるのはとっても優しい味……」
グリオットのタルトレットを口に含んだコレットは、うっとりと目を閉じて甘酸っぱく濃厚な生地を味わった。
幸せそうに菓子を口に運ぶコレットを眺めながら、クラウスもまた同じ菓子を食べる。
「クラウス様。そこに、お菓子のかけらが」
コレットに言われ、クラウスが口元に手をやる。
「えっと、違います。反対側です。もう少し上」
クラウスの探る手がなかなか目的の場所にたどり着かず、コレットは思わず腰を浮かせて手を伸ばした。テーブルについた片手が、茶器の受け皿に引っかかる。
「あっ」
「!」
「あー!」
ガシャーンと響いた音は、厨房でペーストを絞っていたヴィルフレッドの耳には入らなかった。突如気付いた事実に、自分で大声を上げていたからだ。
「俺が厨房にいるってことは、あいつら二人きり!?
あああ、俺の馬鹿馬鹿馬鹿! 何してんだよー!」
またもや油断した。妹に悪い虫を寄り付かせないために、しばらく店を手伝うことにしたのに、これでは意味がない。
「でも菓子作りかけだし、今さらコレットを呼ぶわけにもいかないし……。うああ」
悶えても、どうにもならない。ならば手早く作って店内に戻るしかない。
「焼成かけるまでの辛抱だ、俺!」
気合を入れたヴィルフレッドは、ペーストを絞る手に力を込めた。
「うわ、出すぎ。やり直しだ、これ……」
その頃カフェコーナーでは、茶器を慌てて戻そうとしてテーブルクロスに引っかかり、テーブルごとひっくり返りそうになったコレットを、クラウスが抱き留めていた。
「す、すみません……!」
クラウスの太い腕に抱かれ、コレットが恐縮する。倒れかけたテーブルはクラウスの手で直され、落ちた茶器が一客割れただけで済んだ。
「いや……」
今までになく近い距離にクラウスの顔がある。背中を支える腕からは、男の熱が伝わってくる。
(ど、どどど、どうしよう……!)
焦ったコレットは、起き上がることも思いつかずに、ただ真っ赤になって体を強張らせる。
(そ、そうだわ。自分で立てばいいのよ。立つって、え、でも手をどこにつけば)
数瞬後、ようやく我に返ったコレットが、クラウスの腕の中で身じろぎをする。椅子に腰かけたクラウスに完全に寄りかかっている状態では、手をつくといっても、クラウスの体の上しかない。そんなこと、してもいいのだろうか。
コレットが悩んでいると、頭の上でくすりと小さく笑う声がした。
「髪に、クリームがついている」
「え? どこですか?」
転びかけた拍子についたものか。コレットは慌てて手を伸ばしたが、その手をクラウスがつかんだ。
「やみくもに触ると、髪にからまる」
そう言われ、ではどうすればと思っているうちに、こめかみの斜め上くらいにそっと何かが触れた。
(えっと……?
クラウス様の右手はここ。左手は背中。じゃぁ、今のは……)
あら? と思って振り仰ぐと、クラウスは顔をそむけてあらぬ方向を向いていた。表情は見えないけれど、耳が赤く染まっているのがわかった。
「すまない、つい……」
「えっ、あっ、やっ、あ、ありがとうございます……」
クラウスにつられ、コレットもまた頬を染めてうつむく。手が添えられた背中も、握られたままの指も、急に熱を帯びた気がした。
(また、髪……! あぁ、それにこの体勢、どうしたらいいの?)
本当は、コレットにしてみれば嬉しい状況だ。けれどこれ以上くっついていると、どきどきしっぱなしの心臓が保ちそうになかった。
手をつけないなら、クラウスに頼んで立たせてもらおう。コレットはそう考えた。手をつないで、起こしてもらえばいいのだ。
(やだ、手をつないで、だって)
自分で想像して、きゃぁっと悶える。そのはずみで、クラウスの手をきゅっと握り込んでしまい、ますます焦った。
「う。コレット。これは、その……」
「あ、あの、クラウス様。ちょっと自分では立てないので、起こしていただけますか」
手を握られたクラウスが言い訳をしようとするのと、コレットが何とか助けを頼んだのはほぼ同時だった。あぁ、そうだったのかとクラウスはすぐにコレットを立たせ、自分も立ち上がる。
「ありがとうございます。クラウス様はどこか汚れませんでしたか」
「大丈夫なようだ」
「よかった。私、そそっかしくて結構よくやるんです。お騒がせしてすみません」
「怪我はないか」
「えぇ、大丈夫で……」
大丈夫です、とコレットが答えようとしたところで、厨房からばたばたと駆けてくる足音がした。
「おい! とりあえずマカロンだ……って、ああああああ! おまえら! 何してる!」
淡い黄緑のマカロンの上にフルーツを盛り付けた菓子をトレイに乗せたヴィルフレッドは、仲良く手をつないで見つめ合っている(ように見える)二人に大股で近づくと、トレイをテーブルに置いてべりっと引きはがした。
「クラウス! もう帰れ! 菓子はあとで宿舎に届けるから。感想も俺があとで聞きに行く」
「何よ、ヴィル。クラウス様は私がカップを倒して転びそうになったのを、助けてくださっただけよ」
「あぁん?」
コレットの弁を受けてヴィルフレッドが床を見ると、そこには茶器が割れてお茶がこぼれていた。
「あ、そう。そうか。俺の考え過ぎ? でもとにかく、今日はここまで!
コレット、他の菓子手伝え。作り方教えてやるから」
「え? ほんと? 絶対教えてくれないんじゃなかったの?」
「気が変わった。店で出すならおまえも作れなきゃだめだろ。そういうことで、クラウス、またな」
ヴィルフレッドは、クラウスに対してしっしっというように手を振る。邪険に扱われた形になったクラウスだったが、彼にとっても潮時だったようで短いあいさつをして帰って行った。
「あっぶねー。コレット、何もされなかったか」
「何もってなぁに? クラウス様は騎士様だもの。何かあるはずないでしょう」
「騎士の前に男だろうが。手つないで何してたんだよ」
「手……は……。あのっ、えっと、だから、助けてもらっただけよ」
「本当か?」
「そうよ、立てないから手をひっぱってもらっただけ。それだけ」
「ふぅん。ならいいか。じゃ、床片づけたら、続き一緒に作ろう」
「うん」
ヴィルフレッドはテーブルの上を片づけ始め、コレットはほうきと塵取りを取りに店の奥へと歩いて行った。途中、洗面所の鏡で自分の髪を確かめる。
(ここに、クリームがついてたのかな。それを、クラウス様が……)
かあぁぁぁ。
鏡の中の自分が、真っ赤に染まった。口元を押さえて、ぺたんと座り込む。
(何でもないのよ。ほら手がふさがってたからだから! クラウス様も「つい」って言ってたじゃないの)
けれど、普通、男性が女性にそんなことをするだろうか。
そう思ったコレットは、最も身近な男性であるヴィルフレッドの行動パターンを思い浮かべる。スキンシップ好きの兄は、何かというとコレットにべたべた触り、抱きついたり頬にキスしたりは日常茶飯事だった。コレットを溺愛していた祖父や曾祖父もそうである。ならば、ありなのかもしれない。
(でも、でもでも……!)
密着した体や握られた手の感触を思い出し、コレット頭を抱えて激しく振った。
「おぉい、コレット。ほうき、まだ見つからないのかぁ?」
「ごめん、今行く」
ヴィルフレッドに呼ばれて正気に戻ったコレットは、ほうきと塵取りを持って店内に戻る。大きなかけらはヴィルフレッドが片づけてくれていて、床に散った細かな破片を、ほうきを使ってきれいにした。
片づけをしながら目に入ったのは、先ほどまでクラウスが腰かけていた椅子。
「……」
「また、ぼぉっとして。菓子作る時間なくなるぞ」
「あっ、そうね」
ついついにやけてしまう顔を引き締めて、コレットはてきぱきと体を動かす。お茶のこぼれたテーブルクロスは洗濯することにして、周りは通常に営業できる状態に戻った。
「よし! 新作がんばろう! ヴィル、よろしくね」
「おう」
仲のいい兄妹は、二人そろって厨房の奥へと姿を消した。
翌月――
“コレットの菓子工房”の飾り棚には、色とりどりのマカロンが並んでいた。
「左から、林檎、苺、ブルーベリー、桜、檸檬、ピスタチオです。一種類ずつ入った箱入りのものは、プレゼントにおすすめですよ」
コレットが、来店した女性客に品物の説明をする。
「わぁ、かわいい! 色がきれいね」
「ピスタチオって、ピスターシュのこと? お菓子になるんだぁ」
淡い黄緑色のマカロンは、黄色やピンクのマカロンに自然にとけこみ、上々の評判だった。
「お嬢さん方、カフェコーナーにも寄っていかれませんか? ピスターシュのアイスクリームが食べられますよ」
「えっ、アイス?」
どれにしようと飾り棚を覗き込んでいた客に、後ろから声をかけたのはヴィルフレッドだ。手にはできあがったばかりの追加の菓子を乗せたトレイを持ち、コックコートを着込んでいる。
「あの、コレットさん、こちらの方は?」
「兄なんです。しばらく一緒に店をやります」
「へえぇ。びっくりした。分隊長さん、失恋しちゃったかと」
「しぃっ だめよ。本人の前で言ってどうするの!」
「え、別にいいじゃない」
「だめっ。こういうのは、こっそり噂してるのが楽しいんだから」
「?」
何やらこそこそ言い合っている客を前に、コレットが小首をかしげる。
「おほほ、なんでもないの。そのピスターシュのアイス、いただけますか?」
「えぇ、どうぞ。お席は空いてますから。ヴィル、用意してもらっていい?」
「あぁ、もちろん。ありがとうございます、お客様。こちらへどうぞ」
ヴィルフレッドは、トレイをコレットに渡して、女性たちをカフェコーナーに案内する。
コレットが受け取った菓子を飾り棚に並べていると、カラランとドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ! “コレットの菓子工房”へようこそ!
今月の新作は……」
コレットは、にこやかにあいさつをして、マカロンの説明を始める。
飾り棚に並んだマカロンは、陽光を受けて、店主の笑顔のごとく輝いていた――