遠雷⑥~嵐の終息~
「う……」
腕の痛みで、目が覚めた。
「ここは……」
寝台の横にある机の上で、蝋燭の灯が揺れる。
ヴィルフレッドは、首を巡らせて壁や天井を見回し、知らない場所だと結論づけた。
「えぇと、俺、どうしたんだっけ……」
コレットの差し入れを持って、騎士団の宿舎を訪れた。そこで補佐官だという男に頼まれて、妖精の森で演習中の分隊の元まで行くことになった。
(なんだかの捜索で人手が足りないとか言ってたけど、あんな危険な森に民間人をいかせるなんて、ここの騎士団はどうなってんだよ。
……危険。
あぁ、そうだ、俺、怪我をして……)
ずきずきと痛む腕をなんとか持ち上げると、きちんと手当てがされていた。誰がやったのか。
(クラウス、か?)
グリフィスキア相手に、共に戦った男を思い出す。
ずばぬけた長身に、筋骨隆々の均整のとれた体。長剣を軽々と使い、精霊つきの猛獣に一歩もひるむことなく向かっていった。
これまで旅をしてきて、たまたま誰かと一緒に戦うこともあったけれど、その中でもクラウスは抜群に戦いやすかった。あの安定感と安心感は並みの騎士ではない。
また、クラウスは指揮官としても有能で、ヴィルフレッドにはわからない指文字を使って、分隊員たちを動かしていた。
グリフィスキアの退路を断ったり、こちらに有利な場所に誘導したり、火矢で上空に飛ぶのを牽制したり。日頃の訓練のたまものだろう。あれはかなり助かった。
戦いが終盤にさしかかったころ、ヴィルフレッドはほんの一瞬、油断をした。あと少しで仕留められる、というところだった。グリフィスキアはその一瞬を見逃さず、ヴィルフレッドの腕に噛みついた。
食いちぎられる――!
そう思ったとき、クラウスも自らの腕をグリフィスキアの口につっこんだ。
『おまっ、何やって……!』
ヴィルフレッドよりも何倍も太い腕のおかげで、それ以上グリフィスキアの歯がヴィルフレッドの腕に食い込んでくることはなかった。そのかわり、クラウスの腕からも血がしたたる。
至近距離で見つめた碧の瞳が、不敵に笑う。
『何か、考えがあるのか?』
クラウスはそれには答えず、自由な方の手で自分の袖を引きちぎると、グリフィスキアの鼻を覆って塞いだ。
『グルル……』
グリフィスキアは唸り声をあげる。中途半端に開いた口からは、よだれと二人分の血がこぼれた。
『……』
クラウスは、自分の腕をさらにグリフィスキアの口の中に押し込んでいく。
『グルル……グ……ググ……!』
グリフィスキアが苦しみ始める。鼻と喉を塞がれた獣は呼吸ができず、腕を噛むのをやめて逃れようとしたが、クラウスはグリフィスキアの頭をがっちりつかんで決して離そうとしなかった。
グリフィスキアは、手足をばたつかせ、痙攣しはじめる。黒い靄が立ち昇り、精霊が直接クラウスたちを攻撃しようとしてきたが、全てヴィルフレッドが切って消した。
ア……、ア……、嫌……。
何? ドウシタノ? 体ガ シビレル。
動ケ……ナ……イ……。
がくり。
グリフィスキアの膝が崩れる。そのまま巨体が横倒しになり、ずうぅぅぅんと地面を揺らして倒れた。
グリフィスキアに憑いていた精霊も、意識をのっとっていたことが災いして、共倒れになったようだった。
倒れたグリフィスキアに、ヴィルフレッドが宝剣を突きたてようとする。けれど、血が流れ過ぎたのか、腕に力が入らなかった。それを見たクラウスが、ヴィルフレッドの手に自分の手を添えて力をこめた。
『グアアアァァァァァ…………!』
獣の悲しい声が、森の中に響いた。
いくら凶暴な獣とはいえ、人に使われさえしなければ、そして精霊に憑かれさえしなければ、もう少し生きられたかもしれないものを。
グリフィスキアの最後の咆哮を聞きながら、ヴィルフレッドはずるずると地面に倒れ込んだ。目の奥が、星が瞬くようにちかちかして呼吸が浅くなった。
『! おい』
クラウスの呼ぶ声が、だんだんと遠ざかる。肩を揺すぶられて、痛ぇな、触るんじゃないと思ったのが、最後の記憶。
薄れゆく意識の中で、ヴィルフレッドは、たくさんの人の足音とマリーニとかいう見習い騎士の声を聞いた気がした。
(あー……。それで気ぃ失って、クラウスに運ばれて手当てされたってパターン?
かっこわる……)
これまでのことを思い出したヴィルフレッドは、腕の傷に気を付けながら、寝台の上に身を起こす。
簡素な部屋の中は、寝台と机と背の高い物入れがあるだけで、ここがどこなのか示すものはなかった。
身を起こしてすぐに、ヴィルフレッドは机の上で三角形の包みを見つけた。横に置かれたメモには、痛み止めを示す薬の名前が書かれている。
体を起こすと、血が巡り始めたせいか腕の痛みが増してきた。すぐにでも薬を飲みたかったが、水がないし、毒ではないとも言い切れない。
薬はあきらめて、ヴィルフレッドは場所の手がかりを求めて引き出しを開けた。大方、宿舎の一室か、クラウスの私室だろうとは思うが、場所がわかるまでは安心できない。様々なところを旅して、それなりに危険な目にも合ってきた者の習性だ。
演習の報告書や作戦のメモなどを見つけ、予想通り宿舎の一室のようだとあたりをつけたところで、引き出しの一番奥にノートの束を見つけた。
「これは……?」
ノートを一冊とって開けてみたヴィルフレッドの目が、驚きに見開かれる。
「すげぇ、なんだこれ……」
腕の痛みも忘れ、次々とページをめくっていたところで足音が近づいてきた。
がちゃりと扉が開く。ヴィルフレッドは見つけたノートをとっさに服の中に隠し、寝台に潜り込んだ。
「起きたか」
入ってきたのは、やはりクラウスだった。手に水差しを持っている。
「飲め」
クラウスが差し出してきたのは、机の上にあった薬。
ヴィルフレッドは、薬を見つめる。そして、クラウスの瞳を覗き込み、次にヴィルフレッドと同様に包帯の巻かれた腕に視線を落とすと、すっと薬を受け取った。
この男が差し出すものなら、いいか。
そう思える程度には、信じる気になっていた。
クラウスは、ヴィルフレッドが大人しく薬を飲むのを確認し、椅子に腰かける。
「……兄だそうだな」
「ん?」
「怪我のことを知らせた。迎えに来るそうだ」
「あぁ」
妹の話か、とヴィルフレッドは理解する。同時に、言葉を省略しすぎだとも思った。
(もしかして、仕事に関係すること以外はしゃべんないの?
コレットが言ってたのはこれか)
そう、ヴィルフレッドは、コレットの実の兄であった。
ヴィルフレッド=ラヴィネル、二十四歳。
同じ家に生まれ、共に育ち、幼い頃から一緒に菓子作りをした。十四で成人して隣国の菓子店に修行に出たのをきっかけに、新しい味を求めて各地を転々とするようになった。帰省するたびに珍しい菓子や食材を持ち帰る兄に憧れたコレットが、別天地で店を持ちたいという夢を持つようになったのも自然なことだろう。
寝台に横たわるヴィルフレッドに気付かれぬよう、クラウスはそっと溜息をついた。
(まさか、兄だったとは)
それならば、二人の親密な空気も理解できる。顔立ちが似通っていたのも、同郷というより、そもそも兄妹だったからだ。
ヴィルフレッドは、グリフィスキアとの戦闘の直後に気を失った。
駆けつけた第七師団の助けを借りて宿舎に戻り、医務室で手当てを受けた後、クラウスの自室に引き取った。その際、迎え出たエメリッヒから、コレットと兄妹であることを聞いた。
(知っていて言わないとは、あいつめ……。いや、聞かなかったのは俺か)
通常であれば、何の気なしにどういった関係か尋ねただろう。人間関係の把握は、騎士団の業務にも必要だからだ。それをしなかったのはなぜなのか。そして、兄であると知ったときの、全身の力が抜けるほどの安堵感。
グリフィスキアに自らの腕を噛ませ、ヴィルフレッド以上に血を流してなお気を失うことはなかったクラウスが、思わずよろめいて、分隊員たちに心配をかけた。
(兄、か。そうか。兄……)
「何笑ってんの」
「ん、あ、いや」
クラウスは無意識に笑みを浮かべていたようで、ヴィルフレッドが怪訝そうな顔で問いかけた。
「貴殿のおかげで、誰一人欠けることなく、無事帰ってくることができた。深く感謝する。
また、何の関係もないのに怪我をさせてしまって、本当に申し訳なかった。領主から、完治するまでの衣食住費と治療費、ティル・ナ・ノーグの民の安全に貢献した謝礼を預かっている。金銭で報いるのは不躾で申し訳ないが、どうか受け取ってくれ」
クラウスが上着の隠しから小袋を取り出す。枕元に置かれたそれは、重そうな音を立て、相当な額が入っていることがわかった。
「……。
まぁ、あって困るもんじゃないからな。ありがたく受け取っておくよ。
俺の腕、どんな感じなの?」
謝礼より何より、ヴィルフレッドが気になるのはそのことだった。薬が効いてきて痛みはやわらいだが、すでに手当てを終えているためどれほどの怪我なのかがわからない。
「二週間もすれば通常通り動かせるそうだ。噛まれたときに、無理に動かさなかったのがよかった。傷口もきれいだそうだ」
「ふぅん。あんたは?」
動かさないのがよかったというなら、口に無理矢理腕をねじこんでいたおまえはどうなんだ、とヴィルフレッドがクラウスの腕を見る。
「問題ない」
「あっそ」
クラウスが腕を上下に振って見せる。するどい牙に引き裂かれたはずの腕は、ヴィルフレッドと違い、支障なく動いていた。頬に負った切り傷も、すでに乾いている。
「頑丈すぎだろ」
ぼそりとヴィルフレッドがつぶやく。
何が、とクラウスが聞き返そうとしたところに、コンコン、と部屋の扉が控えめにノックされた。
「あの、失礼します。こちらに兄がいると伺ったのですが……」
扉の外から聞こえたのは、まぎれもないコレットの声。がたっと音を立てて、クラウスが立ち上がる。
大股で扉に近付いたクラウスは、一つ大きく深呼吸をしてから、扉を開けた。そこには、青白い顔をしたコレットが立っていた。
「クラウス様! このたびは兄がご迷惑をおかけして、大変申し訳ありませんでした」
半月ぶりに会ったコレットは、クラウスの顔を見るなり頭を下げた。
「……いや」
迷惑なんてとんでもない。我々の方こそ、彼の助力で命拾いをした。怪我を負わせてすまなかったと言って、クラウスはコレットに顔を上げるよう頼む。
言われるままに顔を上げたコレットは、濃褐色の瞳に焦りの色を浮かべ、
「それで、兄は」
と勢い込んで言った。クラウスは黙って体をずらす。
「ヴィル!」
コレットは、クラウスの脇をすりぬけて、寝台の上に体を起こしたヴィルフレッドに駆け寄った。コレットが通り過ぎた瞬間、菓子の甘い香りが、クラウスの鼻孔をくすぐった。
「なかなか帰って来ないからどうしたのかと思ったら、怪我だなんて……!」
「おー、コレット。聞いてくれよ。大変だったんだ」
「もうっ。詳しいことは家に帰ってから聞くわ。
ほら、帰ろう。クラウス様にこれ以上ご迷惑をおかけしてはいけないわ」
「何だよ、ひどいなぁ。俺、がんばったんだぜ」
ヴィルフレッドは、コレットの言い様にむぅっと唇を尖らせる。そんな兄に構うことなく、コレットはヴィルフレッドの腕をぐいっと引っ張った。
「……痛っ」
「!」
ヴィルフレッドが顔をしかめて腕を押さえる。
「おまえな……。よりによって怪我した方を引っ張るな」
「ご、ごめんなさい。大丈夫?」
コレットは、寝台の横に膝をついてヴィルフレッドの顔を覗き込んだ。そして心配そうに眉を寄せて、包帯の巻かれたヴィルフレッドの腕にそっと触れた。
「ん、平気」
そんな妹の様子に微笑んだヴィルフレッドは、怪我をしていない方の手で、ぽんぽんとコレットの頭を撫でた。そのまま顔にかかっていた髪を優しく払いのけ、頬を撫でる。
「心配かけたな」
「うん……」
コレットは、ヴィルフレッドの手に自分の手を添えて目を閉じる。ほぉっと息を吐いたのは、ようやく安心したからだろう。部屋に入ってきた当初から蒼白だったコレットの顔に、赤みがさした。
しばらくそうしてじっとしていると、静けさの戻った室内に遠慮がちな咳払いの音がした。
「あ……。ク、クラウス様、すみません」
ハッとして背後を振り返ったコレットの視線の先には、何やら複雑そうな顔をしたクラウスがいた。
「そうだ、あんたも言ってやってよ。俺、がんばったってさ。
頑丈なあんたと違って、同じ怪我でも俺の方が大変なんだ」
「同じ怪我? クラウス様もお怪我を?」
弾かれたように立ち上がったコレットは、クラウスの太い腕に巻かれた包帯に目をやる。それまでは兄のことばかり気にかけていて気づかなかったが、こちらも相当な怪我をしたようだった。
コレットは両手を口元に当てて、まるで自分が怪我をしたかのように、辛そうに眉をしかめた。
「大した傷ではない」
クラウスは、ヴィルフレッドにしてみせたように腕を振る。そして、手の平を握って開いて見せて大丈夫だと示した。
コレットは、ほっとして淡く微笑む。
「この程度で済んだのは兄上のおかげだ」
「ヴィルの?」
怪訝な顔をするコレットに、クラウスは妖精の森での詳細を語った。もしあそこでヴィルフレッドが来なかったら、マリーニは命を落とすか重傷を負っていただろうこと、その後もヴィルフレッドの助力があったからこそ精霊つきの獣を倒すことができたこと。
そして、分隊員たちは皆無傷なのに、ヴィルフレッドにだけ怪我をさせてしまったことを詫びた。
「そんな。どうせ何か余計なことに気を取られて油断したんです。怪我をしたのはヴィルのせいです」
「うわ、何ソレ。酷ぇな、コレット。
ってゆーか、“兄上”って何? 気持ち悪いんだけど」
床に足を降ろし寝台に腰かけたヴィルフレッドは、ぼそっとつぶやく。しかし油断したのは確かだったので、強くは言い返せなかった。
「クラウス様こそ、兄を助けるためにお怪我をなされて……すみませんでした」
「いや」
コレットは、クラウスに今一歩歩み寄る。近づいたことで頬に走る傷に気付き、再び眉を寄せた。
「こちらも、お怪我を?」
コレットは、すっと手を伸ばす。
「!」
頬に触れられたクラウスが、びくっと身じろいだ。
「あっ、すみません。痛かったですか?」
コレットが驚いて手を引くと、クラウスは「痛くはない」とぎこちなく頭を振った。
痛くはない。痛くはなかったが、触れられた箇所が雷の端に触れたようにしびれた。そして、コレットの手が離れてなお、じんわりと熱を持っているように感じた。
「草の葉で切れただけだ。大事ない」
内心の動揺を隠して、クラウスは言う。
「そうですか? でも……」
両手を胸の前で合せたコレットが、心配そうに小首をかしげる。クラウスは頬を押さえながら、さりげなく視線を逸らせた。
そしてコレットの前から逃げるようにして机の上の薬を取り、ヴィルフレッドに渡す。
「今夜から明日にかけて熱が出るかもしれないと、医療班の者が言っていた。
明日の分の薬を渡しておく。何かあったら連絡してくれ」
「おう」
「歩いて帰れるか。分隊員に付き添わせたほうがいいか?」
「んー。痛み止めが効いてるから、今は平気。
薬がなくなったらどうすればいいの?」
「街の南東部にグラッツィア施療院というところがある。話は通しておくから、明日の午後にでも一度訪れてみてくれ。
騎士団の医療班も優秀だが、施療院には腕のいい治療師がそろっている」
「わかった。コレット、場所わかるか?」
「えぇ」
グラッツィア施療院は、学者の家系であるグラッツィア家よって代々営まれている、ティル・ナ・ノーグ一評判のいい施療院だ。コレット自身は施療院にかかったことはなかったが、隣家のメリルは腰の調子が悪いといっては通っていたから、話は聞いていた。
「じゃ、な。世話になった。治療費も、どうも」
立ち上がったヴィルフレッドは、胸元をたたく。
「いや。本当に助かった。……気を付けて」
気遣う一言は、コレットに向けたもの。
コレットは、クラウスと目が合うとにこりと微笑んだ。
「クラウス様もお大事になさってください。怪我が治ったら、またお店にいらしてくださいね」
「…………あぁ」
にこやかに話すコレットとは対照的に、クラウスの歯切れは悪い。コレットをまぶしそうに見つめたあと、視線を床に落として黙り込んでしまった。
「クラウス様?」
傷の具合でも? とコレットが手を伸ばしかける。そんな二人を見やったヴィルフレッドは、
「痛っ、痛たたたた!」
と言って急に腕を押さえてうずくまった。
「ヴィル!? 大丈夫?」
「傷に響いて、一人じゃ歩けない。コレット、肩貸してくれ」
「いいけど……」
いくら細身とはいえ、ヴィルフレッドは男。自分で支えになるのかと思いつつも、コレットは肩を貸してヴィルフレッドが立ち上がるのを助ける。
「おまえも大きくなったなぁ。こうやって俺を支えてくれるんだもんな」
「何言ってるの。もう成人してるんだから、一昨年会ったときと変わらないはずよ」
「いやいや、そんなことないよ。
おっと、足が滑ったぁ」
「えっ、きゃぁ!」
わざとらしく言ったヴィルフレッドは、勢いよくコレットに抱きつく。体勢を崩したコレットは、ヴィルフレッドに押し倒されるように床に転ぶ――かと思ったが、力強い腕に抱きとめられた。
「あ、ありがとうございます、クラウス様。ちょっと、ヴィル、何やって……」
「ほぉら、この辺とか、こんなに育って」
ぷるぷるぷる。
コレットの胸に顔をうずめたヴィルフレッドは、甘えるように首を左右に振った。
「きゃっ! やだ、やめて、ヴィル! くすぐったい!」
コレットが身をよじる。ラヴィネル兄妹を支えるクラウスの目の前で、まろやかな双丘が揺れた。
「……!」
「やめてってば、んもう!」
ばちんっ
コレットの平手が、ヴィルフレッドの頬を打った。
「痛ってぇ」
ヴィルフレッドは、大げさに痛がってコレットから離れる。
「怪我人に何すんだ」
「もうその手には騙されないわ。それだけ元気なら一人で歩けるでしょ。私、帰るからね!」
「はいはい、わかったよ。……って、あんた、どうしたんだい?」
にやっと笑った兄の視線を追ってコレットが振り向くと、クラウスは壁に手をついて胸を押さえていた。
「クラウス様? やっぱり具合が?」
コレットがクラウスの様子を伺おうとする。それを手で制したクラウスは、扉を開け、先に立って暗い廊下に歩み出た。
「気を付けて、帰れ。今は薬が効いているからいいが、あとで苦しむことになる」
「おお、そうだな。くく……っ」
「?」
暗がりでなんだか仏頂面をしているクラウスと、にやにやと笑い続ける兄を、コレットは不思議そうに見比べる。
「コレット、帰るんだろ。長居しちゃ悪いからな」
「え、あ、うん。クラウス様、本当に大丈夫ですか? 誰か呼んできますか?」
「大丈夫だって。宿舎なんだから、何かあれば誰かいるだろ。なぁ、分隊長殿」
ヴィルフレッドはコレットの肩を抱き、ひたりとクラウスを見つめた。
「何よ、急にあっさり……。あの、では、おやすみなさいませ。
くれぐれも無理なさらず、ご自愛くださいね」
「あぁ」
クラウスを見つめて真剣に言うコレットに、クラウスもようやく目を合わせて口元を緩めた。
「よし、帰ろう。出口はどっちだ?」
「こちらですよ」
名残惜しそうにしているコレットを引き寄せ、ヴィルフレッドが首を巡らす。そこに声をかけたのは、ちょうどやってきたエメリッヒだった。
「分隊長、各部隊への報告は終わりました。あとの細々したことも俺がやっておくんで、今夜はゆっくり休んでくださいね。
コレットさん、差し入れありがとうございました。先ほどみんなでいただきました。分隊長の分はとってありますから安心してくださいね」
「あっ、たいしたものではなくてすみません。あと、兄がご迷惑をおかけして」
「とんでもない。お兄さんがいなかったら、生きて帰ることすら難しかったと思いますよ。
ヴィルフレッドさん、仲間をお救いくださりありがとうございました」
エメリッヒは自分の胸に手を置いて、ヴィルフレッドに対して騎士の礼をした。
「あぁ、あんた、俺に差し入れ持ってってくれないかって言った人か。
ったく、そのせいで大変だったんだぞ」
「ヴィル!」
民間人相手に敬意を払ってくれたエメリッヒへのあまりの言い様に、コレットは慌ててヴィルフレッドの口を塞ごうとする。けれど、エメリッヒは対して気にした様子もなく、朗らかに笑った。
「ははは。ですねぇ、ごめんなさい。
でもコレットさんのお兄さんがそんなに強いなんて知りませんでした。しかも死の剣の使い手で……」
「補佐官さん」
静かな、声だった。
高くも低くもなく、怒った風でもなかった。ただ、呼びかけられたエメリッヒは、なぜかそれ以上言葉を紡げなかった。
「俺、腕痛いんだよね。話はさ、後でもいい?
傷が治るまではティル・ナ・ノーグにいるから」
「あ、えぇ。そうですね。お帰りのところを引き留めてすみませんでした。通りまで案内します。どうぞ」
エメリッヒの先導で、ヴィルフレッドが歩き出す。二人について行こうとしたコレットは、ふと立ち止まり、後ろを振り向いた。
それに気付いたクラウスが、組んでいた腕をほどいて「どうした?」と目で問う。
「あの……。おやすみなさいませ」
「あぁ。おやすみ」
クラウスは、怪我をしていない方の腕をあげ、一瞬悩んでから軽く手を振った。コレットは、ぺこりとおじぎをして、先を行く兄を小走りに追いかけて行った。残されたクラウスは、壁に寄りかかって溜息をつく。
(髪を撫でたいなどと……。困ったものだ)
いかに鈍いクラウスとて、ここまでくれば自分の感情の正体くらい察しがつく。はじめは、純粋に手助けをしたいと思っていた。それが、いつからかはわからないが、エメリッヒが言うような感情に変化していたようだ。
とっくに姿が見えなくなった方向を見ながら、クラウスは自分の頬に手を当てる。
『こちらも、お怪我を』
コレットは、心底心配そうにクラウスを見上げて、手を伸ばしてきた。
『きゃっ! やだ、やめて、ヴィル! くすぐったい!』
ヴィルフレッドを支えきれずに倒れそうになったので、つい腕を差し出して抱き留めたら、あんな場面を見せつけられた。
「ヴィルフレッドめ……」
コレットは、いかにも周囲の愛情を一身に受けて育った感じがするが、兄は一筋縄ではいかないようだ。ヴィルフレッドはあの短いやり取りの中でクラウスの気持ちに気づき、クラウスを試し、牽制していった。
(牽制などしなくても、俺など相手にならんだろうに)
ハッと息を吐いて自嘲気味に笑うと、クラウスは自室に戻り、寝台に横たわった。見慣れた天井を見上げれば、どっと疲れが押し寄せた。
(見習いが無事でよかった……。
ヴィルフレッド……。性格はともかく、剣士としての力量はなかなかのもの……。あぁ、差し入れ、食ってないな……。演習はこれで終わりでいいのか? 研修の延長届を出すべきか……)
つらつらととりとめないことを考えているうちに、瞼はだんだん重くなってくる。
せっかくコレットが作ってくれた差し入れも、今はもう動く気になれず食べられそうにない。
(明日で、いいか。悪くなるものでもないだろう。
彼女の菓子も、久しく口にしていないな。あとで、あらためて礼を兼ねて店に……)
閉じられた瞼の裏に浮かぶのは、「いらっしゃいませ」と微笑むコレットの姿。ヴィルフレッドが兄とわかってからは、彼女を思い浮かべてもしめつけられるような胸の痛みは感じなかった。代わりに広がるのは、温かな想い。
(我ながら現金なものだ)
ふっと笑うと、全身の力が抜けた。クラウスは、そのまま久方ぶりの深い眠りへと落ちていった。
キィ……。
しばらくして、部屋の扉が開いた。
「見送ってきましたよ。あれ、寝てる。なんだか幸せそうな顔しちゃって、まぁ。
分隊長の分、ここに置いておきますからね。今日はお疲れ様でした」
ぱたん。
扉が閉まる。
宵闇の中、どこかで野良犬が、一声啼いた。
「わっ。びっくりした。犬か」
路地から飛び出してきた犬に、ヴィルフレッドが驚いて声をあげる。
大通りを家に向かって歩くコレットは、ヴィルフレッドから妖精の森での戦いの話を聞いていた。
「ってわけでさぁ。ほんと俺がんばったよ!
俺がいなけりゃ、あいつら全滅だったって」
「そんなこと言って、何度聞いてもクラウス様の傷はヴィルのせいだと思うわ。
ヴィルの腕なんて、そのグリフィスキアとかいうのにあげちゃえばよかったのよ」
「何をぉぉ! 腕一本なくなったら、菓子が作れないだろう!」
「旅にばっかり出てて、ろくにお菓子作ってないじゃない」
「あーぁ。そういうこというわけ? じゃぁ、俺の新作、いらないんだな」
「えっ、ちょっと待って。今のはなし! 今のはなしよ!」
兄の作る菓子は、コレットにとって、幼い頃から一番の好物だった。再会してからいつかは作って欲しいと思っていたけれど、ヴィルフレッドは観光に忙しくてなかなか作ってくれなかった。
「治ったら作って。ううん、治らなくても手伝うから。ヴィルのお菓子、食べさせて」
「ん~、どうしよっかな~」
「ヴィルぅ。お願い! ね?」
コレットが両手を合わせて、お願い!と頼み込む。そんな妹の姿にでれっと顔をにやけさせたヴィルフレッドは、「仕方ないな」とコレットの頭を撫でた。
「さっきも言ったけど、怪我が治るまでしばらくいるから」
「うん。もちろん」
その間、兄の菓子がたくさん食べられる、とコレットは嬉しそうにしている。
「ね、クラウス様にも差し上げていい? ヴィルのお菓子、喜ぶと思うんだ」
「あー。まぁ、いいけど。あんな面で菓子ヲタクとか、意外すぎ」
「ヲタ……?」
「菓子好きってこと。職人としては嬉しいけどね」
「うん。クラウス様、すごく的確なことを言ってくださるのよ。
私がお菓子作りで困ったときにね」
「その話は百回くらい聞いたから、もういい」
「えぇ? そうだっけ?」
家に着き、裏口に鍵を差し込むコレットの後ろで、ヴィルフレッドがつぶやいた。
「……おまえの片思いかと思ったら、まったく油断も隙もない」
「ん? 何か言った? 油断して怪我したのはヴィルでしょ」
「まだ言うか。やっぱり菓子は作らない」
「ああん、嘘! 冗談よ!」
「腹減ったなぁ。夕飯なに?」
「白魚のフリッターと根菜のコンソメ煮とライ麦パンよ。パンにはヴィルの好きなくるみをたくさん入れたわ。
ね、全部ヴィルの好物でしょう? 機嫌直して!」
「ははっ、そうだな。“お兄ちゃん、大好き”って百回言ったら作ってやる」
「……もういい」
裏口を開けたコレットは、自分だけ中に入り、がちゃりと鍵を掛けた。
「えっ、あっ、おい、コレット!
ちょっと待てって。開けて! ねぇ、お願い、コレットちゃんっ
こらー! 俺は怪我人だぞー!」
どんどんどん!
ヴィルフレッドが“コレットの菓子工房”の裏口を叩く。
「うるさい! 何時だと思ってんだい!」
ガツッ
どこかから丸いものが飛んで来て、ヴィルフレッドの頭を直撃した。
「痛ってぇ。なんだこれ。林檎?」
足元に転がっていたのは、確かこの地の特産だと言う金色の林檎だった。拾って裾で周りを拭き、しゃくっと齧れば、甘酸っぱい味が口の中に広がった。
「美味い。ティル・ナ・ノーグはやっぱり林檎だなぁ」
しゃくしゃくと林檎を齧っていると、急に静かになったのを心配したコレットが、戸を薄く開けて顔を覗かせた。
「何してるの?」
「林檎食ってる。空から降ってきた」
「んもう。メリルさんよ。ヴィルがうるさくするから……。
明日あやまっておかなきゃ」
「誰のせいだよ」
「知らないわ」
「おまえなー……」
ぶつくさ言いながら、ヴィルフレッドは家の中に入る。二階からは、スープのいい匂いが漂ってきていた。コレットが温め直してくれているのだろう。
「美味そうだなぁ。俺、大盛りね」
「くすくす……。ちょっと待ってね。今パンを切るから」
食卓につき、コレットとヴィルフレッドは遅い夕食をとる。
旺盛な食欲を見せる兄を、コレットはにこにこして眺める。どんなに憎まれ口をたたいても、怪我をして動けないと言われたときには、血の気が引いたものだ。
「スープのおかわりは? パンもまだあるわ」
「ん」
もぐもぐと咀嚼しながら皿を差し出すヴィルフレッドに、コレットは笑っておかわりをよそってやる。
「よく噛まないと体に悪いわ」
「んんっんんん」
わかってるよ、と言いたいらしい。
ヴィルフレッドにおかわりをよそって席についたコレットは、今頃クラウス様どうしてるかなと考えながら、ゆっくりとパンを口に運んだのだった。