遠雷⑤~嵐の襲来~
男は、右手に優美な剣を持ち、左手には“コレットの菓子工房”と書かれた大きな袋を下げていた。
「“クラウス”って、どいつ?」
「俺だが」
「あんたがクラウス? ふぅん。これ、コレットからの差し入れ」
男が、ずいっと袋を差し出してきた。クラウスはグリフィスキアを気にしつつも、袋を受け取る。精霊に意識を乗っ取られた獣は、少し離れたところで低いうなり声をあげていた。
「じゃぁ、俺はこれで」
「待ってくれ」
帰ろうとする男を、クラウスが引き留める。
先ほど、この男はグリフィスキアに傷を負わせた。クラウスたちがまったく手を出せなかった、グリフィスキアに。
「これは演習ではない。突如襲われたのだ。
通常のこの獣相手なら我々とて遅れをとりはしないが、こいつは精霊つきだ。魔法使いのいない状態では、逃げ切れるかどうかも危ぶまれた。貴殿の助力、深く感謝する。
ついでと言っては申し訳ないが、しばし協力を頼めないだろうか」
「なんだ、しゃべれんじゃん」
「何?」
「いいや、なんでもない。要はこいつを倒す手伝いをしろってことだろ。
いいよ。俺も、もうちょっとあんたと話がしたかったところだからね」
にやりと笑った男を、クラウスはじっと見つめる。
歳の頃は、二十代前半といったところか。コレットの店で出会ったときには、他のことに気を取られてよく観察しなかったが、よく見れば、男は細身ながらに鍛え上げられた体をしていた。
グリフィスキアを切りつけた手には、皮の手袋。身に付けている旅人風の服は、移民の多いティル・ナ・ノーグでもあまり見かけない材質の物で、様々な国の意匠が混ざっているようだ。服装からはどこの出自か判別できないが、顔立ちがコレットに似て見えることから、同郷であると思われる。
そして、何よりも特徴的なのは、腰に帯いた二本の剣。一本は鞘と鍔、柄頭に貴石が散りばめられた優美な剣で、一本は細い柄には似合わない、厚みのある鞘に納まっていた。
「作戦は?」
男がグリフィスキアに目をやる。獣は片目をつぶったまま、クラウスたちの前をうろうろと歩き始めていた。
どこから襲い掛かろうか、狙いを定めているようだ。
「貴殿が……っと、名前を伺ってもいいか」
「ヴィルフレッドだ。ヴィルが発音しにくければ、ウィルでもウォルでもいいよ」
「ヴィルフレッド殿」
「殿はいらない。今から俺はあんたの指揮下に入る。呼び捨てにしてくれ」
「では、ヴィル」
「くす……。なんだい」
男――ヴィルフレッドが笑う。
獰猛な獣を目の前にして、この余裕。よほど腕に自信があるのか。
ヴィルフレッドの落ち着いた様子に、クラウスは感心する。バーナードの後ろで腰を抜かしているマリーニとは大違いで、かなり場馴れしているようだった。
「おまえは魔法が使えるのか」
「いんや。使えない。精霊つきだっていうグリフィスキア?を切れたのは、この剣のおかげだ」
そういって、ヴィルフレッドは一度は鞘にしまっていた剣をすらりと抜いた。
「俺の曾祖父ちゃんは、その昔、とある魔術王国の宮廷騎士なんぞやってたらしくてね。
これはそこの女王様にもらった宝剣なんだってさ。あらゆる魔法を跳ね返すことが出来るんだ」
ヴィルフレッドが、剣先をグリフィスキアに向ける。じりっとにじり寄ろうとしていたグリフィスキアは、びくっと肩を震わせて、一歩飛びのいた。
「で、もう一本はこれ」
抜いた宝剣を左手に持ち替えたヴィルフレッドは、右手で厚い鞘に納まっていた剣を抜いた。
「死の剣か……!」
「あ、知ってる? さすが騎士様だね」
ヴィルフレッドが手にしたもう一本の剣は、刀身が波打つ特殊な形状をした剣だった。その形は、相手の剣や獣の刃を受け流すのに適しており、また、切りつければ、肉を引き裂き止血しにくくする、“死よりも苦痛を与える剣”だった。
「曾祖父ちゃんだけじゃなくて、祖父ちゃんもそこそこ名の知れた剣士だったらしくてさ。
このいやらしい剣が得意だったってわけ。
祖父ちゃんと曾祖父ちゃんに、よってたかって小さいころから剣術を叩き込まれたんだ。 あの頃は嫌だったけど、今こうして俺がふらふら好き勝手できるのも、あの頃の苦労のおかげだな」
ヴィルフレッドは、左手で弧を描き、右手はグリフィスキアに向ける。体を低くして、いつでも動ける姿勢をとった。
「さぁ、どうする?」
ヴィルフレッドの剣技が並外れたものであることは、先ほど、バーナードもクラウスも間に合わなかった間合いに難なく飛び込んだことからもわかっていた。
クラウスもまた、退却の為持ち替えていた片手剣を鞘に戻し、背中の両手剣を抜いた。
「ヴィルは魔法効果の除去とグリフィスキアの足止めを。俺は急所を狙う。
分隊員たちは松明と火矢で援護。
バーナードはマリーニを連れて救援を呼びに行け」
「この剣は、振るった瞬間にしか魔法を跳ね返せない」
「お、俺も戦うっす!」
現場から離れるよう指示されたマリーニが、なんとか立ち上がって剣に手をかける。しかし、膝はがくがくと揺れ、手も震えており、到底剣を抜くことなどできなかった。
「よせ。救援を呼ぶのも大事な役割なんだ」
「でも、バーナードさん……!」
バーナードがマリーニの肩を引く。けれどマリーニは、自分だけ戦線を離脱するようなことはしたくないと、がんとして動こうとしなかった。
そんなマリーニに、クラウスが言う。
「おまえ、実技はからきしだが、足は速いだろう」
「え?」
以前、エメリッヒと履歴書を見ていたときに、剣術も棒術も体術も腕力も跳力も平均以下だったが、走力だけは人並み以上であると書かれていた。
「第七師団が近くまで来ているはずだ。誰よりも速く駆け、救援を呼んで来い」
「……はい!」
見習いだからと言って、危険から遠ざけるのではない。おまえにしかできない仕事をしろと言われて、マリーニは一か月の研修中で一番の返事をした。と同時に、放たれた矢の如く木立に駆け込んだ。
「あっ、おい、待てよ!」
バーナードが後を追う。動く獲物に、とっさにグリフィスキアが反応したのを、松明を掲げ持った分隊員が牽制した。
「やるじゃん」
ヴィルフレッドが口の端を上げる。
「……」
クラウスは、グリフィスキアに視線を送ることで、ヴィルフレッドのからかいを受け流した。
履歴書に足が速いとは書かれていたが、それを確かめたわけではない。マリーニが直感した通り、救援を呼びに行く役割は、見習いを遠ざけるための口実だった。本来なら、バーナード一人で十分だ。
とはいえ、もしこれで隠れた才能が見つかれば儲けもの。研修の最後に自信をつけてやることができ、ついでに命拾いもできて一石二鳥という魂胆だった。
クラウスが返事をする様子がないことを見て取ったヴィルフレッドは、肩をすくめて剣をかまえ直す。
「さっきも言ったけど、この剣は振るった瞬間にしか魔法を跳ね返せないんだ。俺が一人で切り込むか、俺とあんたで一緒に飛び込むしかない」
だから、二刀使いの必要があったとヴィルフレッドは言う。
二刀流は、騎士団の中にもいる。しかし二本のうち一本が死の剣というのは、あまり例を見ない。
殺傷慮能力の高い剣は、その特殊な形状故に扱いが難しく、使い手は少なかった。
「協力者にそこまでの負担はかけられない。魔法さえ消去してくれれば、あとは俺が殺る」
「わかった」
ゆらり。
グリフィスキアから、黒い影が立ち昇る。
話ハ 終ワッタ?
精霊の思念が頭に響く。どうやらこの精霊、獲物を楽しく屠るために、クラウスたちの態勢が整うのを待っていてくれたらしい。
クスクス……。
私ニ 傷ヲ負ワセタ責任、ソノ命デ 贖ウガイイ。
ひゅぉっとつむじ風が起こる。巻き上げられた葉が不自然に舞い、クラウスの頬をかすめた。つぅっと一筋、血が流れる。
「……黙れ」
頬をぬぐったクラウスは、半身になってグリフィスキアに対峙する。右手で柄頭を高く掲げ持ち、刀身に左手を添えて狙いを定めた。
「行く」
「あぁ」
背中を預けるのは、さきほどまでは名前も知らなかった男。
「あんたがどれほどの男か、見せてもらうよ」
ぼそりと洩らされたつぶやきは、グリフィスキアに向かって駆けだしたクラウスの耳に届くことはなかった。
*フランベルジェについては、wikipediaを参照させていただきました。