遠雷④~嵐は突然に~
見習い騎士の十八分隊での最後の研修は、魔獣退治を想定した野外演習だ。
野外演習の行われる妖精の森は、ティル・ナ・ノーグを治める、ノイシュ・ルージュブランシュ・ティル・ナ・ノーグ公爵の居城、ブランネージュ城を取り囲む深緑の森である。森の中には、鳥や小動物など数多くの生き物が生息しているが、人に害を与えるような魔獣が現れることはめったにない。ただし、古からこの森には妖精が棲んでいるという言い伝えがあり、霧の深い日には気を付けるようにいわれている。
「あぁ、疲れた。休憩しましょうよ」
「野営用の天幕張っただけだろ。しかも、おまえは何もしてねぇ」
「こんな森の中で二泊なんて、ありえないっす。風呂どうすんですか、風呂」
「風呂なんて入らなくても死なないさ」
「うっわ、最悪」
マリーニは、何かと言えば文句ばかり言って休もうとする。はじめは懇切丁寧に作業内容を教えていた分隊員たちも、こいつにかまっていては寝床も作れないと、相手にするのをやめてしまった。
見かねたバーナードが指示を出す。
「ほら、水汲んでこい。そこの小川の水源は、精霊の集まる不思議の泉だというぞ」
「精霊なんて気味の悪いもんに近付きたくないっす」
明確な存在である妖精と違い、精霊は魔力の集合体とでもいうべき、あいまいな存在である。ほとんどが意識も姿もおぼろげであり、ごく一部の力の強い者だけ、人間と契約して力を振るう場合があるらしい。
「いいから汲んでこいって。水がなけりゃ飯も食えない。」
バーナードに言われ、マリーニはしぶしぶと水を汲みに行く。十八分隊に来た頃は何でもかんでも揚げ足をとっていたマリーニだったが、近ごろは彼の言うことは聞くようになっていた。生意気な見習いも、世話になっている自覚はあるようだ。
「はぁぁ、面倒くさ……。水袋って持ちにくいな」
野営地から少し離れたところにある小川で、マリーニは水牛の胃袋で作られた袋に水を汲む。バーナードに渡された水袋は、四つ。二つずつ対にして紐で縛り、両肩にかける。
「よっこらせっと。こんなもん、実家じゃ持たされたことないぞ。騎士ってのも格好いいだけじゃないな。父さんに言って、早く出世させてもらわないと。だいたい、なんで僕がこんなこと……」
ぶつぶつぶつ。
文句を言いつつも、マリーニはせっせと水を運ぶ。あと一歩で野営地だ、というところで、視界の隅を黒い影がかすめた。
「……ん?」
目を凝らしたが、影は木立の間に消えてしまった。
「精霊?」
口にしたら、急に背負った水袋が重くなった気がした。
『そこの小川の水源は、精霊の集まる不思議の泉だというぞ』
先輩騎士の言葉を思い出す。
水を汲んだから、精霊が憑いてきた……?
「まさかね」
そうつぶやいて、マリーニは歩き出そうとする。しかし、
ひやり
首筋に、何か冷たいものが触れた。
「うわっ、何? わっ、わっ、わああああ!」
手で払おうとしたら、指先にちくりと痛みが走った。恐慌状態に陥ったマリーニは、とにもかくにも助けを求めて、分隊の元へと駆け出した。
「ぶわっははは!」
「うっ、くっ、おまえ、何して……ははははは!」
「ちょっ、笑わないでくださいよおぉ」
精霊に憑り殺される! と駆けてきたマリーニの首に乗っていたのは、背中に花を背負った不思議の生き物、ラミナだった。
「だって、おまえ、さっきどんな顔してたと」
「精霊に食われる! って、ラミナに噛まれただけじゃないか」
「こんなかわいいもんが、人を襲うわけないよなぁ」
分隊員の一人が、ラミナの尻尾を持って、マリーニの目の前でぶらぶらと揺らす。蜥蜴に似た身体をもつラミナは、背中に自ら草木の種を埋め込み、育てて花を咲かせることで、花に寄ってきた虫を食べている。
警戒心は強いが攻撃性は低く、穏やかな性質をしていて、人畜無害だ。
マリーニの首にくっついてきたラミナは、苺の花に似た白い小さな花を乗せていた。たぶん、木の上からたまたまマリーニの首に落ちてきたのだろう。
「その前に、変な黒い影を見たんすよ! 誰か用足しにでもいったんすか?」
分隊員たちに笑われたマリーニは、ただの臆病ではないと必死に言いつのる。
「誰も行ってねぇよ」
「精霊がおまえのこと追いかけてきたんじゃないか」
「今夜、一人で寝られるか? 添い寝してやろうか?」
「……っ 大丈夫っす! どうせ、森の獣か何かだったんです!
それ見た直後だったから、驚いただけで……」
なおも分隊員たちがマリーニをからかっていると、騒ぎを聞きつけたクラウスが様子を見に来た。
「……何をしている」
「あ、分隊長! いえ、なんでもありません」
「水、マリーニのやつが汲んできました。今、火にかけますから」
「クラウス分隊長! さっきそこに」
「馬鹿、おまえ、余計なこと言うな! 精霊なんて、そうそういるわけないだろ。いいから、仕事しろ」
「えぇ? だって」
「でももだってもいらねぇ。ほら、水袋持て」
先輩に急かされたマリーニは、納得のいかない顔をしながらも即席の炉に向かう。その背中に、クラウスが呼び掛けた。
「マリーニ。これが最後の演習だ。励めよ」
「……はい」
クラウスを中心に野営の準備は着々と進められ、各々《おのおの》が自分の役割をこなしていく。その中で、縄の結わえ方を教える者、火の起こし方を教える者、森で採ることのできる食べられる野草を教える者などがいるのだが……。
「それ、教本で見たっす」
「なんでわざわざ枯れ木で火を起こさなきゃいけないんすか。着火石があるでしょ」
「うえぇ、こんなもん食うの? 嫌だなぁ。見るだけにして、飯は街で買ってきましょうよ」
からかわれた仕返しと言わんばかりに、マリーニはいちいち先輩騎士たちにつっかかる。
「おまえな、さっき分隊長に励めって言われただろ」
「励むところは励むっす。でも合理的でないことはやる気がでないっす」
「あのなぁ」
分隊員の一人が、マリーニに説教をはじめようとした、まさにそのとき。
オオオオォォォォォ……ン
森の中から、声がした。
「なんだ?」
「狼?」
「いや、違う」
「じゃぁ、なんだよ」
巨大な獣を思わせる遠吠えに、緊張が走る。
「しっ、黙れ」
クラウスが短く言い、目線と指文字で分隊員たちに配置を指示する。お互いの背を守り合うように円形の布陣をとった十八分隊は、腰の剣に手を掛けて、耳を澄ませた。
オオオオォォォン
先ほどよりも近くで、声がした。
「ク、クラウス分隊長。僕はどうすれば」
「俺の後ろにいろ」
マリーニを背にかばい、クラウスは腰の剣ではなく、背中に背負った長剣を抜いた。普段は支給品の片手剣を使っているクラウスだが、最も得意とするのは、肉を断ち骨をも叩き潰す力技の両手剣だ。クラウスの動作を見て取った分隊員たちも、各々《おのおの》の得物を手にして警戒を強める。
ザ……ザザザザザ……
葉擦れの音がする。
ザ……ザザザザザザザザザ……
ザン……。
「「「?」」」
獣の動きが止まった。
「油断するな。来るぞ」
クラウスが押し殺した声で言った瞬間。
「ガアアアァァァァァァ!」
「うわあぁぁ!」
咆哮と共に、黒い影が飛び出してきて、分隊員の一人に襲い掛かった。
「グリフィスキア!?」
「渓谷に住むやつが、なぜ、妖精の森に……!」
驚きつつも、分隊員たちは仲間を救うべく、人の数倍はあろうかという獰猛な獣に対峙する。襲い掛かられた分隊員は、剣を盾に、ぎりぎりのところで牙を逃れていた。
「これ! これっすよ。小川の近くで見た影」
「てめぇ、マリーニ! それならそうと早く言え!」
「言ったじゃないすか! 誰も信じてくれなかったんでしょ!」
「おまえが精霊がどうとか言うからだろ!」
「だって……」
「言い合いは後にしろ」
グルル……と唸るグリフィスキアは、前脚で地面をかき、いつでも飛びかかれる態勢だ。
一瞬でも目をそらしたら、その瞬間に殺られる――
そう直感したクラウスは、分隊員たちの先頭に立って、獣を睨みつけた。
「グ……、ガァッ……!」
グリフィスキアが威嚇する。口を大きく開けて吠えたとき、鬣の間に革の首輪が見えた。
「闘技場から逃げ出したという個体か!」
一昨日エメリッヒが言っていたことを思い出す。確か第七師団が追っていたはずだが、まだ捕まっていなかったのか。
これは、まずい。
クラウスの額に汗が浮かぶ。
野生のグリフィスキアであれば、よほど空腹か負傷して気が立っていない限り人に襲い掛かってくることはないが、闘技場にいたものの場合、人を襲うようにしつけられている。しかも、よく見ればこのグリフィスキアは体のいたるところに刀傷があり、人との戦闘経験があることが伺える。人間=敵とみなしている可能性が大きい。
「グオオォォォ……ン!」
グリフィスキアが雄たけびをあげる。
頭を低くし、尻を高く上げた。獲物を定めて襲い掛かる姿勢だ。
クラウスの指がせわしなく動き、分隊員たちが配置を変える。最も弱い見習いを中央で守り、数名が野営用の炉へ火を取りにいった。
「ガァッ」
ひと声啼いたグリフィスキアが、クラウスめがけて跳びかかってきた。鋭い爪が頭上から降ってくるのを、剣で留めて薙ぎ払う。
バチン!
何やら、おかしな感触が剣の先から伝わってきた。
「?」
飛びのいたグリフィスキアを睨みつつ、クラウスは、今のはなんだと眉をしかめる。剣が折れたのでも刃こぼれをしたのでもない。獣の爪に当たったわけでもなかったが、何かに弾かれたような感触があった。
「分隊長! 準備できました!」
分隊員から声がかかる。ちらりと視線を送ると、複数の松明を手にした分隊員と、火矢をかまえた者がいた。
「やれ」
風の向きを確認したクラウスが、短く命令する。森を焼いては大変だが、何の準備もなしにこの手勢だけでグリフィスキアを仕留めることはできない。退路の確保が優先だ。
クラウスの指示を受けた分隊員が、グリフィスキアに向けて矢を放つ。炎を見て一瞬たじろいだグリフィスキアだったが、しかし、火矢はグリフィスキアに突き刺さる前に、何かに弾かれて地面に落ちた。ジジ……と鈍い音を立て、周りの草を少し焦がしただけで火が消える。
「何……」
クラウスの深い碧の瞳が、驚愕に見開かれる。
いくらティル・ナ・ノーグ近郊に生息する獣の中で最強といわれるグリフィスキアでも、まったく刃がたたないはずはない。力こそ強いが、特殊能力があるわけではないからだ。
何があったのか確かめるために、続けて何本も矢を射かけさせたが、全て同じ結果だった。試しに火矢ではない普通の矢も放ったが、グリフィスキアにはかすり傷一つ負わせることなく、地面に落ちた。
これは、おかしい。普通の個体ではないのか?
闘技場で何か特殊な魔法でもかけられていたかとクラウスが訝しんでいると、黒い霞のようなものがグリフィスキアの背後から立ち昇った。同時に、声ではない意識か思念のようなものが、頭の中に響いてきた。
クスクス……。ムダヨ。
コノ子ハ 私ガ 守ッテイル モノ。
「精霊の契約か!」
通常、人との間に交わされる精霊の契約だったが、なんの拍子にか、妖精の森に迷い込んだグリフィスキアとこの精霊との間で成り立ったものらしい。
しかも、この精霊は人と会話ができるほど明確な意思を持っている。かなり高位の精霊だ。
「厄介な……」
クラウスがギリリと歯ぎしりをする。十八分隊の中に、魔法を使えるものはいない。人が使う魔法も、基本的には精霊と契約をして使えるようになるものだ。けれど、誰もが習得できるものではなく、王国内でも魔法使いはかなり稀な存在である。精霊との契約には代償が必要で、体に刺青が浮かび上がる他、眠ることができない、味を感じられない、周囲のものを必ず不幸にするなど、契約内容によって異なる。
いずれにせよ、大きな力を手にする代わりにたくさんのものを犠牲にすることになるのだ。このグリフィスキアは、何を代償にしたのだろうか。
クスクス……。
サァ 血肉ヲ 食ラウガ イイ。
人ヲ 食ラッテ、 力ヲ 自由ヲ 手ニ入イレルノヨ……!
精霊が言う。
ギギ……っとぎこちない動きをしたグリフィスキアが、首をぶるんと一振りして、再びクラウスたちに狙いを定めてきた。代償は、己の意識か。
「退却」
「え?」
「退却だ。俺が殿を務める。バーナード、マリーニを守れ」
長剣を仕舞い、片手剣と松明を手にしたクラウスが言う。
クラウスがグリフィスキアに向けて大きく松明を振ると、獣はひるんで一歩退いた。精霊に意識を乗っ取られていても、炎は本能的に苦手なようだった。
分隊員たちは即座に反応する。仲間から松明を受けとると、グリフィスキアの方を向いたまま、じりじりと後退を始めた。
逃ゲルノ?
クスクス……。逃ガサナイ ワ。
じりっとグリフィスキアが歩み寄ってくる。ぐっと前脚に力が入り、背中の翼がばさりと広げられた。
「! 走れ!」
グリフィスキアは、空を飛べる。いくらクラウスでも、上空から狙いを定めて襲い掛かられては、分隊員たちを逃がしきることはできない。
クラウスの号令を受けて、分隊員たちが木立に駆け込む。松明を掲げながら、とにかく森の出口を目指して走り出す。こうなっては、一刻も早く森から出て、応援を呼ばなければならない。
木々に囲まれ、視界の悪い森の中を、分隊員たちは駆ける。クラウスも後方と上空を警戒しながら、出口を目指す。
オォン、オォンとグリフィスキアの咆哮が森の中に響き、ときおり、ザン、ザンと地面に着地する音がする。
「あと少しだ! がんばれ!」
バーナードがマリーニを励ます声が聞こえる。
森の出口が見えてきた。そう思ったとき。
見習いが、木の根に足をとられて転んだ。隊列が崩れる。
「ガアアァァァ!」
その隙を見逃さなかったグリフィスキアが、いつの間に近付いていたのか、側面から飛びかかってきた。
「うわああああぁぁぁぁぁぁぁ!」
グリフィスキアの牙が、マリーニに迫る。
バーナードが手を伸ばす。クラウスが、剣を投げる。
間に合わない――!
そう思ったときだった。
「グアァッ」
絶叫があがった。跳び退ったグリフィスキアの左目から、血が滴る。
イヤアァァ!
痛イ! 痛イ ヨオォ!
精霊の思念が、頭の中に響いた。
「何コレ。幻影かと思ったら、本物じゃん。騎士団の演習って、こんな危険なことすんの?」
バーナードの手は届かなかった。クラウスが放った剣も、あとから地面に突き刺さっていた。
では、グリフィスキアの左目を切り裂いたのは――?
マリーニとグリフィスキアの間に立ち、ひゅっと剣を振って血を飛ばした男が振り返る。
黒髪に青の瞳。細身の体に、腰に帯いた二本の剣。
マリーニの危機を救ったのは、コレットの店で会ったあの男だった。