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凍傷に凝った体をゆっくりと動かし、起き上がろうとする男を支えながら、ウルブスキィは立ち上がった。
男の方は、さすがに立ち上がるまでの力は残っていないのか、狭い通路に背を預け、苦しげに喘ぐ。
『貴方がたが、助けてくれた……のか?』
『オレは、ウルブスキィ。そっちの壁に張り付いているのは、ジャコウ。アンタを助けたのは、あっちの先獣化人のジローだよ。まあ、礼を言うなら、巻き込まれたオレたちにもしてくれると、嬉しいけどな』
『貴方は、凍土人なのですか?』
ウルブスキィの赤い髪を見て、キシャルは言った。
絶対領域人は、基本的に肌も髪も色素が薄い。ウルブスキィの見た目は、どちらかというと凍土人のものだ。地毛の黒髪が見えていれば、なおさらだろう。
『一年くらい前までは、アンタと同じ凍土人だった。今は絶対領域で、運び屋家業を営んでいる身分だ。まあ、たまにこうやって、日銭稼ぎに狩りもやっているんだけどな』
『僕は、キシャル。キシャル・アーダです。僕は――』
『帝国ジュカの、軍人ってとこかい?』
代わりに答えてやると、驚きに見開かれた目を向けられる。キシャルの黒い光彩は、国家を成す巨大シェルターで生まれた証でもあった。
『そんなに、驚く事はないさ。絶対領域に出てきている国なんてのは、一つしかないからな。しかしだ、問題は、かの大帝国の人間が、何でそんなボロボロの格好で転がっていたのか、だ』
『それこそ、考えるまでもない。坊や、外へ出ておいで』
『何だよ?』
水気に湿る前髪を振り、ウルブスキィは〈ソーヤ〉から顔を突き出した。
『驚いたな、戦争でも始めるつもりか?』
見る者の不安を煽るような、どぎつい赤が、ウルブスキィの視界一杯に展開していた。
空中を浮遊するだけのフェアリィが、静寂の世界に響く音に反応して放つ赤い警戒色。頭上を埋め尽くす星々よりもなお強い輝きを、ウルブスキィはじっと見据えた。
絶対領域では、フェアリィの発光現象のせいで居場所が知られてしまわないようにと、できるだけ静かに移動するのが定石だ。
『凍土領域のニンゲンじゃない……となると、可能性は一つしかないよな』
ウルブスキィは、ゆっくりとキシャルを振り返った。雪がこびり付き、カチカチになったウェアの胸元、ウロボロスの紋章を憎々しげに睨み付けていると、ジャコウに脇腹をこづかれた。
『見つからないうちに、逃げるのが利口だ。ウル、個人でまともにやり合えるような輩じゃないのは、身に染みて知っているだろう』
キシャルに聞こえるように、とだろう。ジャコウはわざとらしく、声を張り上げる。
『ま、待ってください! 卵は、どこです?』
『卵? 知っているか、ジロー』
『あったとも、なかったとも言えない。ああ、食える物がなかったのは確かだねぇ』
赤い光を見つめているジローに話を振るが、返ってきた答えは素っ気ないものだった。
『だめなんです、このままでは! 僕が一人だけ生き残ったところで、なんの意味がない! 無茶を承知でお願いします! どうか、僕を拾った場所まで戻ってください!』
キシャルは大きな体を丸め、額を擦りつけた。
室内の暖房が流れ込んでいるとはいえ、扉は開けっ放しだ。冷やされた鉄に皮膚が触れれば、くっついて丸ごと剥がれかねない。
ウルブスキィは慌てて、キシャルを起き上がらせた。
『この、馬鹿! あんまり、手間を掛けさせるなよ。凍傷だけでも酷いのに』
『あの子を、助けなければ。あの子はヒトとして、誕生させてやるべきなのです。帝国の手に渡れば、あの子は、ヒト殺しの道具として利用されてしまう!』
『あの子? ヒト殺しの道具?』
大きな体を揺らし、キシャルは吠えるように泣いた。こぼれる端から、涙は無情にも凍りついてゆく。
『なあ、ジロー。こいつを保護した場所は、ちゃんと覚えているよな?』
『関わる気か、ウル。ねっからの、お人好しめが!』
『無視するほうが、面倒だろ』
不満げなジャコウを手で制して、ウルブスキィはジローの反応を伺う。
『くだらない正義感は、よしておくれ。私を巻き込むなんて、図々しい。それにだ、坊や。大陸条約は義務であって、絶対ではないよ』
『言っておくが、巻き込まれたのはオレだ。そこは、間違えちゃいけない』
殺気を露わにして、ジローが〈ソーヤ〉の外装に体を擦りつける。尖った牙を剥き出し、荒い息が霜となって漂った。
だが、ウルブスキィは、負けじとジローを睨み返す。腕力ではまともに戦えなくとも、気迫だけなら、負ける気はしない。
『庭を荒らされたまま、黙って尻尾を巻いて逃げるなんてのは、オレの主義じゃないんでな。それにだ、ジロー。アンタだって帝国が気になっているんじゃないのか?』
『なぜ、そう思う?』
鼻に皺を寄せ、不機嫌を露わにするジローにウルブスキィは『そういう顔をしていた』と揶揄する。
『乗りかかった舟だ、付き合ってもらうぜ』
ジローの鼻面を人差し指で突き、ウルブスキィは赤く染まった空を睨みつけた。
どうにも、嫌な胸騒ぎがしていた。




