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『コタンの周辺で目撃されたって噂の絶対領羆は、アンタだな』
『アンタではない、ジローだよ、坊や』
のっそりと現れた白い羆は、ひと抱えほどもある大きな頭をもたげてウルブスキィを見下ろす――というよりは、若干見下して、にやりと器用に笑った。
顔の左半分は生々しい十字傷でつぶれているせいか、やたらと威圧感がある。
多面的回路の故障は、この傷のせいだろう。背中には、要救助者と思われる人影があった。
『俺は、ウルブスキィ・メラル・カルニィダ。坊やって呼ばれるには少しばかり薹が立ってるよ』
『そんなひょろっこい体じゃ、子供と大差ない。坊やで十分さ。しかし、私を絶対領羆と勘違いして撃ってきたのは、坊やを入れて四人目だ。知らない間に、随分と人気者になったようだ』
『アンタのせいで、オレは大損だ。氷床毛長鳥の収入だけじゃ、帳尻が合わねぇよ』
『どうせ、ネタの元は情報屋の噂話だろう。鵜呑みにするヤツが馬鹿なのさ』
鋭い牙を剥き出しにして、ジローは笑った。
獣の姿をしてると言っても、先獣化人は厳しい環境の中で生きるため、野生生物の肉体を手に入れた元人間だ。細かい仕草に、人間くささが色濃く残っていた。
『しかし、変わった匂いがするんだね、坊や。獣化人や緑化人ではない、あえて言うのであれば、強化人に近いが、断定できない』
霜がこびり付いた短い睫毛を重そうに瞬かせ、ジローはくんくんと鼻をつきだしてくる。
いくら元人間だろうと、見た目は猛獣だ。ひと噛みで、ばらばらにされてしまいそうな牙を押しつけられて、いい気はしない。
(むしろ、死にそうだ)
ウルブスキィは、僅かに引けた腰で、ジローの頭を押し返した。
『いつまで、ジロジロ見ているんだよ。そろそろ――』
『この、獣風情が! 厚かましいにも、ほどがある!』
突然の金切り声と、ガラスが割れるような甲高い破裂音。
ぱらぱらと散る氷の粒に背中を叩かれ、振り返ったウルブスキィは、襲いかかってくる濃厚な霧に、思わず「この、馬鹿!」と怒鳴りちらしていた。
当然、喉と気管が灼かれる低温痛に、悶絶するはめになる。
『いやらしい目でウルを見つめていいのは、このわたしだけだ!』
『堂々と、セクハラ発言をするな! 誰であろうと、ジロジロ見られるのは、ごめんだからなっ!』
室内の水分が濃厚な水蒸気となって、勢いよく吐き出されて行く。その、青白い濃霧を身に纏い現れた馬鹿は、悔しいことにウルブスキィよりも頭一つ分ほど背の高い美丈夫、ジャコウだった。
クロロフィルと葉緑素を持つ、半植物体人種――緑化人特有の色鮮やかな長い髪を頭の上で束ねて流し、身も氷る冷気の中で、黒のボディスーツに長衣を羽織っているだけの軽装で、平然と仁王立ちしている。
『たとえ条約があろうと、どこの馬の骨ともしれない輩を乗せるなど、許せるものか! わたしとウルの愛の寝床は、誰にもやらん! 帰れっ!』
『てめぇと同衾した覚えはねぇ! この、馬鹿! お前こそ、車に戻れ!』
髪と同じ色の瞳は険しく、ジャコウはあからさまな敵意でジローを睨みつけている。ウルブスキィの必死の訴えは、完全に届いていなかった。
『昨今は、種族の違いすらも超越している。なに、私は特別な偏見を持たない、安心するんだね、坊や』
『なんの安心だよ! いいか、おかしいのはあっちで、俺はいたってまともな好青年だ。ついでに言っておくが、ノーマルだ。とにかく、あいつは……とりあえず、無視しておけ。そのほうが、アンタのためで、俺のためでもある。こっちが相手をしてもやっても、しなくても、あいつは満足するまでは、勝手に喋り続ける。付き合うだけ、体力と時間と金の無駄だ』
『聞こえているぞ、ウル!』
『ああ、そうだ。聞こえるように、回線を繋いだまま言ってんだよ、悪いか!』
『悪い! 愛が足りていない!』
『確かに、埒が明かなそうだ』
黒い鼻の周囲にこびり付いた霜を吹き飛ばしながら、ジローが嘲笑する。馬鹿にされるのは面白くないが、反論の言葉は残念ながら無かった。
ウルブスキィは苛立ちを唾と一緒に飲み込んで、ジローの背後へ回る。
『凍土領域生まれの、獣化人か?』
ウェアからはみ出ている黒髪と色味のある肌は、凍土領域で生を受けた人間の大きな特徴だった。
俗に凍土人と呼ばれている凍土領域は、人工太陽の日射しが注ぐシェルターを、主な生活の場としている。
微量な紫外線を浴びているため、この絶対領域生まれよりも、色素がやや濃くなる傾向にある。固く閉じられた瞳の色も、おそらくは髪と同じ漆黒だろう。
『さてね。私はただ、半壊のビークルの側に倒れていたのを見つけて拾ってきただけだよ。凍土領域生まれだろうと、絶対領域生まれだろうと、実に手間の掛かる種族だね。これしきのことで死にかけるなんて、情けない。人の姿など、今となっては不都合きわまりないものだと、何故理解しない?』
『キサマ、本気で言っているのか? その姿が合理的だと? ふっ、笑わせる』
氷の粒を散らして鼻で笑うジローに、反論したのはジャコウだ。ジローよりも更に高い視線で、肉声で高笑いを響かせる。
血中に不凍タンパク質を持っている緑化人だからこその離れ技だが、大きく開けた口から吐き出される息は蒸気機関車のようだ。馬鹿っぽくて、失笑しか漏れない。
『四つん這いで走り、生臭い獣の皮を被る。キサマは、ヒトという括りから外れたまがい物だ。偉そうに語る資格すらないなっ!』
『青臭い輩が、偉そうに。頭からねじって、出てきた汁を飲み干してやろうか?』
ジャコウの売り言葉に、ジローはオークル色の牙を剥き出しにする。
睨んでいるのか、笑っているのか。羆の厳つい顔では、いまいち感情を読み取れない。それでも、友好的でないのは、はっきりと分かった。
『とりあえず、救助をさせろ。言い争いをしていて、瀕死の人間を殺しちまったなんて、笑いたくても笑えねぇよ。夢にまで出られて、祟られそうだ』
気絶している男の唇は紫に変色し、ささくれだった吐息が僅かに聞こえてくるだけだ。身動きすらしない。
生きてはいるが、かろうじてといったところだろう。
血の気のない顔には、白い斑点が幾つも浮いている。酷い凍傷だ。
『手当が遅れりゃ、死んでたな』
『その方が、私としては、面倒が無くて都合がよかったのだがね』
『その面倒を押しつけておいて、文句言ってんじゃねぇよ。……ああ、待て。ここで降ろさないでくれ』
背負った男を下ろそうと体を傾げるジローを押し留め、ジャコウが仁王立ちしている〈ソーヤ〉を指さす。
『あっちまで、運んでくれよ』
『か弱い男だな』
『馬鹿者め、そこが可愛いのだよ。まあ、獣なみの脳味噌では、理解できなくても仕方がないかな』
『草にもいっぱしの皮肉を言える脳があるとは、意外だな!』
『いい加減にしろ!』
ブーツの底に付いているスパイクで、ウルブスキィは乾いた雪を蹴り上とばした。
『しゃべくりあう暇があるんなら、体を動かせ。やることやってから、二人で存分に喧嘩すればいい。ああ、その時は、外でやってくれ。オレは町に戻って、先に一杯やらせてもらうさ』
『複製珈琲をか?』
( あぁ、くそ! 殺してやりてぇ)
〈タロ〉に伸びる手を必死で押さえ、ウルブスキィはタラップを昇る。
『二人で引き上げるぞ、手伝えよ』
『仕方がないな、褒美は何か出るのか、ウルよ』
『握り拳なら、好きなだけその顔に突っ込んでやるよ』
室温を保つため、出入り口はとても狭い。
肩を密着させ、どうにか並んで立つと、ジローの背中で伸びている男へと手を伸ばす。
だが、重くてなかなか持ちあがらない。ジャコウに至っては「これだから、野蛮人は困るんだ」と、悪態をついている。
『じれったいな。見ておれんよ』
男を引き上げようと、腰に力を入れた時だった。視界の端で白い塊が大きく震え、飛んでくる巨体にウルブスキィは悲鳴をあげた。
なにが起こったのか、考えるまでもない。ジローがいきなり、男を放り投げたのだ。
文句を言うにも、男の体重に胸を潰されて呼吸が詰まり、犬のように唸るしかなかった。
『浮気とは感心しないぞ、ウル』
ちゃっかり避けていたジャコウは、何故か怒りを滲ませた緑色の光彩を持つ目で、ウルブスキィを見下ろす。
『よく分からない嫉妬に焦れている暇があるなら、助け起こしてくれよ!』
怒りにまかせ、ウルブスキィは男の分厚い胸板を殴りつけた。
(こいつが目を覚ましてくれれば、一番、面倒が少なくていいんだがな!)
その願いが通じたのかどうかは分からないが、浅い呼吸を繰り返す唇から、微かな呻き声が漏れた。
「僕は……助かった、のか?」
掠れた肉声と共に、瞼がゆっくりと持ち上がる。




