kiss
自己紹介でクラス全員をまさかの下種呼ばわりをしたこの女、佐々木カオルは俺の席の後ろに座っている。
第一印象は言うまでもなく、最悪だ。
ほかの連中も同じような感じだろう。確かにあまり行儀よくない集団であることは認めるにしろ、初対面の女に下種呼ばわりされて喜ぶ奴などまぁいない。
「あの佐々木って子、結構面白いな」
居やがったよ、ここに。
俺は松本の発言が信じられなかったが、こいつの感覚ではそうなのだろうなと納得せざる得ない部分があった。
いつか話していた漫画の内容で、とんでもない自己紹介をした女がいると聞いたことがある。
こいつの一年の時の自己紹介は、それをそのままコピーしていたらしい。
その一言がきっかけで、松本は自分の居場所をものの見事に確立していた。
何より、こいつ自身の性格もあってか、一学期が終わるころには全員と打ち解けていたのだから凄いもんだと脱帽してしまう。
オタクに対しての偏見を持つ俺に対し、松本は特に強要も否定もせず、ただ「全然普通だろ」と笑っていた。
否定されたからといって自分の好きな物を嫌いとは言いたくないし、周りにとやかく言われるのが我慢できないだけと言ってはいたが、中々そういえるものでは無いと思う。
その人類みな友達の如き精神の男からしてみれば、この手の女も許容範囲という事なのだろうか。
「お前さ、佐々木みたいな女がタイプなのか?」
「全然。可愛くて性格悪いやつは一番嫌い」
にっこりと微笑む友人に、苦虫を噛み潰したような表情を向ける。
意外だったと言うか当然と言うか…まぁ、そううだろうな。
「面白いのは認めるけど、でもま、判断するには早いかな」
「松本は本当にこういう得たいの知れない事態好きだよね」
「ただの人間に興味ないと言ってくれ」
大西の爽やかなツッコミに全力でボケる友人。いや待て、こいつに限っては本気なのかもしれない。
何はともあれ、頭が痛い。
HRを終え、授業が始まった。ここからが驚きの連続だった。
佐々木カオル。
この女、そうとう頭が良い上にスポーツも出来るらしい。
一時間目から三時間目までは数学、英語、歴史と続き、どれもパーフェクトな回答をする。
四時間目の体育のバスケットに関しては見学するものと思いきや、颯爽とコートを駆け抜けシュートを決めていきやがった。
うちのクラスは剣道部と野球部のキャプテンと副キャプテンも居たりと、こと体育の授業においては他のクラスを圧倒するだけの戦力があるにもかかわらず、それを一蹴してみせた。
つくづく疑問に思う。なぜこの学校に転校などしてきたのかと。
昼休みになり、昼食を取ろうと席を立った俺に、大西が話しかけてきた。
「ねぇサク。佐々木さん、お昼はどうするのかな?」
「さぁな、弁当かなんかじゃねぇのか」
「一応購買部の場所教えてあげたほうが良くない?」
「だったらお前が行けよ、俺はパス」
「はぁ…仕方ないなぁ」
そういって、トコトコと佐々木カオルのところまで行く大西を見送り、俺と松本は先に食堂へと足を向けた。
うちの食堂のメニューははっきり言ってマズイ。が、背に腹は変えられん。
郷に入れば郷に従えというように、弁当でも持ってこない限り、ここに世話になる他はない。
別に食えないほどでもないし、ここ一年以上食っていればそれなりに愛着も沸いてくるというものだ。
マズイのには依然と変化はないが。
大西の分も頼んでおき、俺たち二人は大西が来るのを待たずに先に食事を始めた。
「お前、またカレーかよ」
「サクだってカレーじゃねぇか」
「これが一番無難なんだ」
「確かにな」
先ほども言った通り、ここの飯はマズイ。唯一の救いとして、カレーにトッピングが出来る事ぐらいだ。
出来るというか、そうでもしなければただのルーと米だけになってしまうからなのだが。
「しかし、あの佐々木って子凄かったなぁ、正木と松田が手も足も出ないなんて」
「そもそもあの二人はキャプテンっつてもバスケ部じゃないし、それを言うならお前も同じチームだったはずだけど?」
「やはー、ひでちんも手も足も出なかったですよぉ」
「自分でひでちんなんていうか、普通?」
「言わないなぁ」
「だったら言うな、きしょく悪い」
「でもさ、なんでアイツここに転向してきたのかな?」
「アンタ達に関係あれへん!」
「!?」
振り向くと、そこには佐々木カオルと大西が立っていた。
「佐々木さん、お弁当無いみたいだったから学食まで案内したんだ」
佐々木カオルの手には、カレーを乗せたトレーが握られていた。
よく見ると、トッピングが全部乗ってやがる。
「佐々木さん、今日転校してきただろ、だから転校祝いでおばちゃんがサービスしてくれたんだ」
確かにここの食堂のおばちゃん、山下ヨシエ(48)はいい人であることは知ってはいるが、いくらなんでも女の子が食う量じゃないような気がするのだが。
「佐々木さん、どうぞ。この時間は結構込んじゃってるから、僕たちと同じ席で申し訳ないけど」
「べ、別にええよ…ありがとう」
なんだ、素直にお礼言えるじゃねえか、と思った矢先。
「ていうか、何人の悪口言ってんの!?」
と、この有様だ。
「悪口じゃなくて、なんで転校してきたのかなって話だって」
「僕も気になるなぁ、もしよかったら聞かせてくれない?」
松本のからりとした表情に大西の柔らかな表情、我が友人ながら思う。こいつらは将来お水の道にでも進めば結構稼げるのではと。
「別に…話したくない」
「うん、わかった」
「ま、無理に聞くのもあれだしなぁ」
すんなり引き下がるのかよ!と、心の中でツッコミを入れつつ、俺は目の前のカレーを片付ける事にした。
ここのカレーの一番のポイントと言えば、そのルーにある。
スープカレーといっても過言ではない。長時間煮込んでいるからなのかは知らないが、妙にサラサラとしている。
同じクラスの奴がいうには「ここのカレーは食べ物じゃなく飲み物」だとか。
この表現は、実は大げさでもなんでもなく、事実としてこの学園で有名な話らしい。
カレーのルーがスープのようで有名という学校も、ここぐらいのもんなんだろうが。
で、何故か俺の隣に座っている佐々木カオルのカレーには転校祝いだとかで食堂のおばちゃん、山下ヨシエさんのサービスがてんこ盛りで大変な事になっていた。
チーズにコロッケ、カツレツにソーセージ等…
到底、女の子が食うにしてちょっと…というか、確実にキャパオーバーしていた。
「何?」
「いや、凄い量だなってな」
「フン、私はいっつもこれぐらいは食うんや。ほっといて」
まぁ、別に口出しをしようなんて気はこれっぽっちも無いからと思いながらも、この女の口ぶりにはいささか気分を害していた頃合だった。
いっちょガツンと言ってやるのもいいのかもしれない。ふと、大西と目が合った。アイコンタクトなのだろうか、何やら言いたげな表情だった。
すると、俺の携帯が震えた。
ここは一応は地下一階に位置する場所にあるため、携帯の電波が入る事は稀ではあったけど、さも珍しい事ではない。俺はすでに食事も終えていたので携帯を取り出し開いてみる。
大西からのメールだった。
『佐々木さん、転校して来たの訳アリっぽいし、しばらく様子見てみないかな。仮にサクが女子高のクラスにぽつんと一人だと不安だろ?』
確かにそうだが……と、ちらりと大西を見るとニッコリと笑っていた。
仕方なく、俺は喉まででかかった言葉を飲み込む事にした。
大量のトッピングを諸ともせず、彼女はその目の前に置かれたカレーを綺麗に平らげていく。
見た目だけは美少女な娘が、巨大なカレーを完食する様はなんともシュールというか、正直コメントし辛いものがあった。
別に付き合う必要も無かったのだが、何故か大西にそこは止められてしまったため、仕方なく佐々木カオルの食事が終わるまで彼女と同席していた。
途中、コイツの事を周りの男共はチラチラと見ていてことに気づく。
そりゃあ共学とは名ばかりとなってしまったこの学園に見慣れない女子生徒が居れば嫌でも気になるものなのだろう。おまけにこのルックスだ、注目を浴びるのは必至といえる。
栗色のショートヘヤー、小柄でスタイルはそこそこ良く…先に言っておくが、興味はないぞ。
別に男にもだ。んでもって、ぱっちりと大きな眼に、巨大カレー(山下ヨシエスペシャル)食ってんだから、目立ってしまうのも仕方が無い。
ただ、やはりというか当然というか、見る見る不機嫌になっていくのが肌で感じるほどヒシヒシと伝わってきた。誰だって食事中にそんなに人に見られてちゃ気分のいいものではない、そこは同情の一つもしてやらんでもないのだが…
「なんやねんさっきから!?チョロチョロと鬱陶しいねん!?」
と、この有様だ。
やれやれ、男子生徒諸君、これでよく判ったとは思うが、この佐々木カオルって女には近づかないほうが身のためだと思う。なんとも我ながら自傷気味なツッコミをしつつ、彼女が食事を終えたので教室の戻る事となった。
「ねぇサク」
「ん、どうした?」
大西が俺に話しかけてきたのは5限目が終わった直後の事だった。
「佐々木さん、何か調子悪そうじゃない?」
確かに言われて見れば少々顔色が優れないような気もする。
午前中に見せていた覇気はどこへ行ったのやら、授業中の教師の質問に対しても曖昧な返答をしていた。
うっすらではあるが、額にも汗をかいているみたいだ。
「佐々木さん、調子悪いなら保健室行って来るかい?先生には僕から言っておくよ」
「別になんともあれへん、ほっといて!」
出た…本当に相変わらずだ、この女は。もう我慢の限界だとばかりに、俺は何を思ったのか、佐々木カオルの腕を掴み教室から引きずるようにして連れ出した。
「ちょ、痛いなぁ!離してや」
「うるさい、お前調子悪いんだろ。だったら大人しくしてろ」
教室を出る際、クラスの連中はやいやい騒ぎ立てていたが別に気にはしなかった。これを機にこの女には人との付き合い方ってのを説く必要もあったし、何より俺の溜飲が下がらん。
保健室のドアを開け、養護教諭の立花先生に佐々木カオルを引き渡した。
「あら薫ちゃん、いらっしゃい」
「立花先生、いい加減その薫ちゃんって止めてもらえませんか」
「えぇ?だって可愛い名前だしいいじゃない」
「はぁ…ま、今はそんな事はこの際どうでもいいです。コイツ、今日ウチのクラスに転校してきた奴なんですが、ちょっと調子が悪そうなので連れて来ました」
「あら、そうなのね?私はてっきり彼女を保健室に連れ込みに来たとばかり」
「な訳がないでしょう」
何故こうも彼女が話しかけてくるかというと、それは俺の名前に関係がある。
そう、彼女は一般世間でいうところの腐女子という奴で、この学校に赴任してきたのも本物のBLが見れるかと思って、ということらしい。
まったくもって理解不能だ。
ある日、俺が階段から不甲斐なくも14段落ちを決めてしまい、幸いにも大怪我には至らなかったものの保健室行きとなった時の事。その時に俺の名前を見た彼女は何故か狂喜乱舞し、あれやこれやと質問攻めにあった。以来、こうして顔を合わせるとこんな感じの調子なのだ。
別に見た目は悪くはない。どちらかと言えば良い方なのだとは思うが、本人の性格を考えると、婚期はまだ大分先のような気がする。余計なお世話だろうがな。
「そんな事より、コイツの事お願いします」
「コイツ呼ばわりせんといて!私には佐々木カオルっちゅー名前があるんや!」
なんだよ、元気じゃねえか…って待て、その名前は…
「えぇええ!?あなたもカオルちゃんって言うのぉ」
やっぱり……俺が頭痛がしてきたぞ、これはマジだ。
さっさと教室に戻るのが得策と俺は思い立ち、早々にこの場所を離れることを深く心に決めドアに手をかけたところで…
「ちょっとアンタ」
何故呼び止める佐々木カオル、別にお前が俺をここで呼び止めることに何のメリットもないだろう。むしろ俺にとっては現在のこの状況下はデメリット以外のでも何物でもないのだから早く開放してくれと胸の中で一人呟く。
「名前」
「は?」
「アンタの名前、薫っていうんだ」
「ああそうだよ。何の嫌がらせか、お前と同じ名前だ」
「フン、別にどうでもええし」
ならいちいち呼び止めるな…俺はこの失礼極まりない転校生を腐女子養護教諭になかば無理やりに引渡し、保健室を出た。何か言っていたような気がしていたが、ここで足を止めてしまっては負けだと俺の全細胞が訴えかけていたし、その意見は俺自身も同感だ。とりあえず、教室へと無事戻ってくることが出来た。
たがだかクラスメートを保健室に連れて行くだけの作業がこんなにも精神労働だったとは、夢にも思わなかったよ。まったく。
案の定、教室に戻った俺に待ち受けていたのは佐々木カオル曰く、下種共による下らない質問攻めの嵐だった。本当に勘弁してくれ。さすがに俺もお前らが下種に見えてこないこともないぞ等とぼやきながら、とっとと自分の席に戻った。
女と二人っきりで保健室とか良いなだの、もう口説いたのかだのと、どうしてそういう発想になるのか一度病院に行って観てもらって来い。なんていえる訳もなく、適当に相槌を打って流していた。
六限目は我らが担任の鹿Tによる現代国語の授業だった。
佐々木カオルを保健室まで連れて行き、速やかに引き渡せていたのなら遅れずには済んだのだが、ばっちり遅れてしまった。
しかし、状況を理解してくれていた我が担任教師様は何のお咎めもなく、むしろ「ご苦労さん」と労いの言葉をかけてくれた。実に有難い、その有難ついでにこいつ等の質問コーナーもそろそろ止めては頂けないでしょうか?
「で、桜井。佐々木とはもう仲良くなったのか?」
あえて言おう、今日は厄日だ。
授業が再開したのは俺が戻ってきてから十五分ほど後のこと、その頃には教室も落ち着き、唯一真面目に全員が受ける授業風景を目の当たりにする。
本来、これが学生としての正しい姿なんだけどなぁ。などと考えていたら、いつの間にか授業は終わっていた。
いつの間にか佐々木カオル係に任命されてた俺は、桃太郎のお供とばかりに松本と大西を連れて保健室に向かおうとしていた。なんにせよ、相手はあの佐々木カオル様だからな…人数が多いほうがこっちとしては助かるし、立花先生だっているんだから。その辺りは松本にでも担当してもらおうと思っていたんだが、「今日はバイトがあるから無理だな、じゃ!頑張れよ」と言い残し早々に教室を出て行った。俺もバイトがあるんだが、と言いかけたが止めておいた。言ったところで状況は覆ることは無さそうだし。
帰り際に敬礼なんかしやがって…俺は零戦の操縦者じゃねえぞ。などと一人愚痴っていたらクラスの奴ほぼ全員に敬礼をされるという事態に、中には万歳とまで言い出す奴まで居やがる。
正直、泣けてきた。
追い討ちをかけるように、大西も今日は付き合えないとの事。なんでも用事があるらしく、HRが終わるなりさっさと帰ってしまったのだ。いい加減に腹を決め、俺は保健室に向かうことにした。俺のクラスのある教室から保健室のある場所は別校舎になっていてかなりの距離がある。それに、2年の昇降口はここの校舎にしかなく、往復するだけでもかなりの時間を食うことになるがバイトまでにはまだ多少なりと余裕があった。佐々木カオルの鞄を手に取り保健室向かう道中、ドアを開けてからのことをシュミレートしてみた。妙な言いがかりは付けられないだろうか、立花先生を回避しつつ無事鞄のみを届けれるだろうかと、自分でも苦笑してしまうほど神経質に考え事をしているとあっさりとドアの前まで辿り着いた。
一応、ここには女の子が居るわけだし仮にも保健室だ。現在わかっているだけではあるが、ここの住人約二名は一般女性とはかけ離れた感性を持ってることは素人の俺だってわかる。だか、かといって無粋な行動を避けるためにノックはしてから入る事にした。これもシュミレーション通りだしな。
「すいません、2年の桜井ですけど」
ノックを二回ほどしたが応答が無い。これを2回ほど続けたが反応も無かったので仕方なくドアに手をかけた。鍵はかかっておらず、ガラガラと音をたててドアは開いた。中には立花先生はいないようだった。佐々木の姿も無く、おそらくはベッドで休んでいるのだろう。近づくのも憚れるので、保健室に二、三歩入ったところから声をかけてみた。
「佐々木、寝てんのか?桜井だ。もう授業終わってるぞ、鞄持って来たから」
奥の方で何かが動く気配がしたが反応がない。このままここで時間を食うわけにもいかないし、かといって鞄を放置したままというのも後味が悪い。俺は大きくため息を一つついた後、佐々木が寝ているであろう保健室の置く、シーツで隠された場所へと足を向けた。
季節は秋に変わり始め、夕暮れ時にもなると涼しい風が吹いてくる。少しだけ開けられた窓の隙間から入ってくる風に、白いカーテンがユラユラと揺れ、この部屋独特の香りが鼻孔をくすぐる。なんだか甘い…まるでケーキのようなバニラの香りに包まれた俺は、その出所を目の当たりにした。
規則正しい寝息を立てて、安らかに眠るその表情につい見惚れてしまう。ずっと見てていたいような、そんな衝動と、自分の心臓の音が聞こえるんじゃないかと思うほどに高鳴っているのに気付くのさえ時間がかかった。
一目見た時からわかってはいたことだ。
佐々木カオル。彼女は可愛い、それも文句なしに。
俺は上せかけた頭を切り替える為に髪をクシャクシャと荒っぽく掻き乱してから彼女に声をかけようとした。傍まで行き、彼女の寝顔にその意識が奪われないよう、深呼吸を何度かした。
「おい…起きろ」
瞼が少しだけ動いたような気がしたが、それでもまだ起きてはこない。時間も限られているし、いつまでもこうしちゃいられないと彼女の布団に手を伸ばしたところで
「え…なんで…」
パチッとその大きな瞳と眼が合った。心臓がドクンっと音を立てて跳ね上がってのがわかる。
不意の出来事で慌ててしまい、自分でも何を言ってるのか支離滅裂だった。後になって思ったことだけど、どうも女に対しての免疫は乏しいらしい。
「何でアンタがここにおるんや」
「鞄、持って来ただけだよ。もう放課後だぞ。俺、帰るからな」
少し気恥ずかしくなり、俺は逃げるようにして保健室を出た。佐々木が何か叫んでいたように聞こえたがこれ以上付き合ってられないし、そもそも、早く帰らなければバイトに遅れてしまう。いくら今日が厄日だったとしても、バイトに遅刻するわけにはいかないんだよ。
俺は走って昇降口まで行き、自分の靴を履く。そのまま一目散に駅を目指して駆け出した。
この学園は行きは急激な上り坂で、帰りにはそれはおのずと下りになる。自転車で降りるにしてもブレーキをかけなければ危ないほどだったが、走る分には幾分か問題はなく、むしろ今の俺には好都合だった。
普段の俺の走行スピードを遥かに超えた速さで一気に坂を駆け下りて、何とかバイトに間に合う時間帯の電車に乗ることに成功した。さっきとは別の意味で胸が破れそうだ。
電車の中ではぁはぁと息なんか切れしていたら変質者に間違われるんじゃないかと思いながらもとにかく呼吸を整えることに意識を集中させる。
「佐々木、ちゃんと帰れたのかな」
転校初日で保健室の場所もわからなかった奴だが、そこまで気にする義理もないだろう。俺の目的は彼女に鞄を届ける事のみ、それは達成したのだから誰にどうこうと文句を言われる筋合いは無い。
石橋駅から路線を乗り換え、宝塚方面へと向かう電車に移動した。丁度ホームに着く頃には電車も着ていて幸先がいい。この時までは、少なくともそう思えていた。
バイト先は地元の駅から自転車で約二十分ほど走ったところにあるファミリーレストランだ。
保健室に佐々木の荷物を届けたりと時間を食ったりもしたが急げば間に合わないこともない。
俺は自転車のペダルを力の限り漕ぎながらバイト先を目指した。難所として一つ大きな橋を渡らなくてはならない。
普段から学園の坂に苦しめられてる俺にとってはこの上なく憂鬱なのだが、まぁ慣れてしまえばどうということはないし、幸いにも俺の自転車は結構値の張るものらしく、下り坂では四十キロを出そうと思えば出せる代物だ。ま、危ないから出したことはないけどね。
息を切らしながら到着した時にはシフトの時間まで残り三分といったところだった。
「ギリギリセーフってとこだな」
手早くウェイターの制服に着替えてホールに出た俺は先輩に呼び止められた。
「おう、サクちゃん。おはよう」
「長野さん。おはようございます」
「今日はギリギリだったみたいやん。学校で居残りでもさせられてたんかぁ」
「まぁそんなとこッスね」
居残りというには不適切ではあるが結果的にそうなってしまったようなものだから別にいいだろう。
通常、バイトに入ってまずすることは「入り作業」と称してトイレ掃除やレジ点検、ドリンクバーの補充などがあり、毎回違う。今回の俺の入り作業はトイレ掃除のようだ。別に今更気にはしないのだが、その…「女子トイレ」に入るのはやはり多少なりとも気が引けるというか気恥ずかしいものがある。
一応ノックはしてから入るのだが、逆の立場で考えてみて、自分がトイレに入っている時にノックがあったとしても返答するのかどうかと考えると正直迷ってしまう。
なので俺は、客人数を数えた上で現在トイレに行っている人(主に女性客)がいないことを確認してから作業を始めるようにしている。
「律儀だねぇそういうトコロ。サクちゃんぐらいの歳だったらウハウハなイベントもあるかもしれへんのにぃ」
「どういうイベントですか」
「あれやん!役得ってやつやんかぁ。堂々と女子トイレに入れるなんて」
「長野さんはその内捕まりそうですね。これからは毎日新聞をチェックする事にしましょう。安心してください、面会は行きませんから」