第2話 何千年後かの話
ハアッハアッ
一体どこまで走っただろう。
俺たちは田んぼの裾を走りながら、途中、山へと登る坂道を歩いた。
途中、何度か息切れした。
部活でよく走ってるから、まだなんとかなった。
それでもかなりきつかった。
しおりは嘘みたいに速いし、何度か躓きそうになるし…
あの男は追ってこなさそうだった。
見間違いじゃなければ、男の胸には確かに包丁が…
山の坂道を登ると、神社があった。
八幡神社。
俺の住んでる地区じゃ、有名な神社だ。
有名っつっても、あくまで個人的な意見だけど。
そういや、最近はあんまりきてなかったな。
2年か3年前の祭り以来だった。
毎年夏になると、各地区で花火を上げる行事があった。
町内会で集めたお金で、何十発かの花火を上げる。
この八幡神社は、「八幡祭り」っていう夏のイベントの主催地でもあった。
俺にとっては、“思い出の場所”でもあった。
神社に着くなり、しおりは腰を下ろした。
持っていた包丁を賽銭箱の上に置き、軒下に入った。
その間、俺は息を整えようと思った。
さっきからパニクっててしょうがなかった。
包丁に目が行くたびに血の気が引いた。
…だって、ありえないだろ?
…包丁…だぞ…?
それもそうだし、なんでしおりが…?
「…しおり?」
何がどうなってんだ…?
そう聞きたかったけど、言葉はうまく出てこなかった。
膝に手をつきながら、全身で息を吸った。
「……ハアッ…ハアッ…」
しおりは落ち着いてた。
落ち着いて、乱れた服を整えてた。
額にうっすらと汗をかいてた。
前髪が湿って、ほんのりと頬が赤かった。
長い後ろ髪を束ねながら、ヘアゴムを口に咥える。
手際の良い動きだった。
赤いスカーフのついたブラウスと、紺色のスカート。
袖は捲られていた。
透き通った白い肌が、柔らかい袖の下に伸びていた。
「はじめまして」
「…は?」
…はじ…めまして…?
ひとつ結びにした髪を下ろして、彼女は立ち上がった。
立ち上がるなり、何事もなかったかのように近づいてきた。
聞きたいことはたくさんあった。
数えきれないほど、たくさん。
でも、何を言えば良いのかわからない自分がいた。
さっきのこと。
ここまで、走って逃げたことも。
賽銭箱の上にある包丁が「何」なのか、今すぐに問いただしたい気持ちもあった。
でも、言えなかった。
“動けなかった”と言った方がいいかもしれない。
…多分、そうだ。
感覚としては、それに近い。
別に緊張してるとか、そういうんじゃないんだけど。
「…今、なんて…?」
「はじめまして、って言ったの。キミと会うのは、初めてだから」
からかわれてるのかと思った。
俺たちは昔からの知り合いだ。
一緒にこの町で育った。
「はじめまして」なんて、俺たちの間には存在しないはずの言葉だった。
10年前とかならまだしも。
「この姿だから、戸惑うとは思うけど」
この「姿」だから…?
待て待て
…なにを言ってる?
ますますわからなかった。
どっからどう見てもしおりだろ?
彼女は笑うでもなく、憮然とした表情で俺を見ていた。
笑っていいかどうかもわからなかった。
冗談を言ってるにしても、笑えない。
笑えないっつーか、意味がわからない。
今は冗談なんて言ってる場合じゃないしな。
…大体、こんなところで何してるんだ?
確か、寮にいるはずだろ?
彼女は上京してた。
ピアニストになるっていう夢を追いかけて、都内で有名な音楽学校に進学してたはずだった。
「とりあえず、中に入ろう」
「中って、神社の中に!?」
それって不法侵入になるんじゃ…
っていうか、入れんのか??
正面の格子戸に手をかけ、彼女は中に入った。
鍵がかかってるのかと思った。
古い神社だから、軒下の梁には蜘蛛の巣がかかってた。
格子戸のガラスは元々曇りガラスだったのかっていうくらいくすんでて、扉へと繋がる階段もギシギシ悲鳴を上げている。
聞いた話じゃ、築百年はくだらないそうだ。
補修工事とかしたって話だったけど、多分昔は、もっとずっと古めかしい作りだったんだろう。
彼女につられるように中に入ると、湿った木の匂いが、冷たい空気の中を通ってやって来た。
…暗い。
外が暗くなってるせいで、余計中が暗かった。
ただ、奥に“神様の間”があることはわかった。
それをどう呼称していいかはわからなかったが、この建物がどういう「建物」かは、なんとなくわかってた。
ようは、神様が祀られてる場所だろ?
拝殿だか本殿だか、そういう細かいことはよく知らないが、少なくとも、この場所が気軽に入っていいような場所じゃないことは知ってた。
お坊さんとか、神社の関係者とかならまだしも。
「多分、もう追っては来ないと思う」
…追って?
…追ってって、あの男のこと…か?
身を隠すため、中に入った。
彼女はそう説明してきたが、整理したいことが山ほどあった。
一旦落ち着こう。
俺は頭の中で、さっきのことを思い出せずにいた。
思い出せないっていうか、思い出したくなかった。
多分、…いや、…恐らく、なんだけど…
包丁が刺さってた
そんなこと、普通は起こり得ないよな…?
でも、実際に見たんだ。
その「光景」を。
「…あの」
「ん?」
「お前、…しおりだよな?」
暗い部屋の中で、ぼんやりとその顔が見える。
疑ってるわけじゃない。
しおりで、…間違いない。
見間違えることなんてない。
…絶対に。
「彼女は、もうこの世界にはいない」
……………
………
…は?
…………いない?
……いないって、………………どういう
「あの男が「誰」か、まずはそこから説明しないといけない」
…そんなの、決まってるだろ
ただの不審者だろ?
金か何か、物色しに来たんじゃ…
「じゃあなんで、キミを襲ったの?」
「…そんなの、知らないけど」
「彼の目的が、キミを殺すことだとしたら?」
「は!!?」
俺を殺す…?
…いやいやいや
「…冗談だろ?」
「この状況で、冗談なんて言えると思う?」
「…わかってるけど、だからってだな…」
「理解できない?」
「当たり前だろ!」
「じゃあ、キミが私のことを「好き」だっていうことは?」
………………………へ?
思いもよらない言葉が、頭の中を掠めた。
『好き』
確かに、そう言った。
聞き間違いなんかじゃない。
はっきり、耳の中に届いた。
……でも、なんで………?
「…今、なんて?」
「キミがいちばんよく知ってるでしょ。その“気持ち”は」
俺がしおりのことをどう思ってるか。
そのことを、彼女に打ち明けたことはなかった。
この場所。
この時間。
浴衣姿を着た彼女と、——2人。
中学3年の夏。
祭りがあった日だった。
彼女から、一緒に花火を見ようと言われたのは。
あの日、俺は告白しようと思ってた。
結局できずじまいだったけど、「チャンスだ」って思ってた。
自分でもよくわからなかった。
いつから、しおりのことが好きだったのか。
なんで、告白しようと思ったのか。
当時、本当は怖かったんだ。
上京するって聞いた時、もしかしたら、もう会えないかもしれないって思ってた。
それに、まさか誘われるなんて思いもしなかった。
…そりゃ、驚いたさ。
中3の頃はクラスも違ったし、お互い、部活とか勉強とかで忙しかったし。
彼女が俺を誘ったのは、“しばらく帰って来れないから”って。
少しでも、思い出を残しておきたいから…って。
俺の他に、ミズキも誘われてた。
ミズキっていうのは俺の親友で、幼馴染。
しおりと同じく、子供の頃から一緒だった。
しおりがプロのピアニストになりたいっていうことは、昔から知ってた。
コンテストにも何回か行ったし、コンクールにだって、応援しに行った。
俺やミズキにとっての自慢だった。
彼女は。
だって、プロが注目するほどの逸材だったんだ。
大観衆の前でも動じずに、涼しい顔でピアノの前に座ってた。
いつも内気な彼女が、ピアノの前では、別人のように変わって——
「好き」って、確かにそう思っていた。
その感情が、どこから来たものかはわからない。
いつの日からか彼女が気になるようになって、教室や放課後の帰り道で、ふと、目で追うようになって…
思えば、昔からだったのかもしれない。
祭りに行く道中で、夜空を見上げながら、彼女のことを考えてた。
ミズキに誘われて付き合ったピアノ教室。
そこで、初めてしおりと出会った。
学校では見かけない子が、ピアノの前にいた。
教室の片隅。
その、窓際に。
彼女は高知から引っ越してきてた。
両親の都合で、大分の山奥まで。
保育園に通う最後の年だった。
毎週金曜日になると、ピアノ教室には彼女がいた。
片手で必死に弾こうとしているミズキのそばで、楽譜も見ずにメロディーを奏でていた。
凄すぎて、言葉も出なかった。
小学校の入学式。
桜が舞う学校の校庭で、サッカーボールを片手に、俺は1人で遊んでた。
親が来るのを待ってた。
入学式が終わって、何人かの親達と談笑する母親を待ちながら、着慣れない上着と帽子を脱いで、校舎に出入りする上級生達を見てた。
小さい町の、小さい学校と言っても、あの当時の俺からしたら、“たくさんの人たちがいるな”って感じだった。
全校生徒は100人くらいかな?
…もっといたっけ?
都会に比べたら全然だけど、他の街や学校のことは、あんまり知らなかったからさ?
「…ハジメくん…だっけ?」
木漏れ日の中に彼女がいるのを、俺は見つけられなかった。
ぶ厚いジャケットを鉄棒にかけて、桜の木の下に腰をかけようとしていた時だった。
木が並ぶフェンス側のそばで、ポツンと座っている彼女がいた。
「…あ」
まさか…
思わず声が出てしまった。
ピアノ教室では、まだ一度も話したことがなかったから。
「ミズキちゃんは?」
「…ああ、多分帰ったんじゃないかな」
俺と違って、ミズキとはよく話してた。
ピアノを習いたい!とか急に言い始めて、教室で彼女と出会って。
コードの読み方もわからないミズキにとって、スラスラと鍵盤を鳴らす彼女の演奏は圧巻だった。
憧れてた。
だから、自分から話しかけに行ったんだと思う。
それから、すぐに友達になった。
ミズキとはよく喋ってたけど、俺とは、全然。
ピアノ教室に行ったのも、“仕方なく“って感じだった。
保育園の頃は。
行ったってすることないし、ピアノにも興味はなかった。
だから、いつも庭でサッカーの練習をしてた。
…まあ、うろ覚えなんだけど。
保育園の頃のことなんて、ほとんど覚えていないことが多い。
ただ、初めて彼女に会った日のことだけは、よく覚えてた。
聞き慣れないピアノの音色と、開け放した窓の向こうに見える、暖かい春の日差しを。
「……どういう…意味…?」
そう聞かずにはいられなかった。
彼女の言ってることは間違いじゃない。
でも普通、そんなこと言わなくないか…?
自分のことが「好き」って…
「あれ?違った?」
…違わない…けど
目が泳いでしまった。
素直に頷けない自分がいた。
想定外の言葉すぎて、返す言葉さえ見つからなかった。
戸惑う俺を横目に、彼女は言った。
「「好き」という言葉の意味は、まだ、知らないけれど」
——と




