第1話 俺、何かしたっけ?
「なあ、嘘だろ?」
俺は今、命を狙われている。
ナイフを突きつけられ、わけもわからないまま視界が揺れた。
部屋に戻ったら、見たこともない男がいた。
顔にマスクをしてて、黒いフードを被っていた。
顔は見えなかったが、明らかに不審者だった。
警察を呼ぼうとした。
初めてのことだったし、なんて言えばいいのかもよくわからなかった。
(…部屋に誰かがいる!)
端的に言えばそうだったんだが、あり得ない出来事すぎて頭がパニックだった。
スマホを取り出して、ロック画面を解除する。
恥ずかしながら、手が震えていた。
うまく番号を押せなかった。
そうこうしているうちに男が俺の気配に気づいて、慌てて階段を降りた。
急いで家の外に出たんだ。
わずかに開いていたドアの向こうで、男がナイフを持っていることに気付いたから。
ハアッハアッ
とにかく、逃げろ…ッ!
頭の中に占めていた感情は、ほとんど本能に近いものだった。
なんで男がいたのか、なんで、ナイフを持ってたのか。
いちいち考える時間はなかった。
玄関を飛び出て、外へ——
クソッ
思い当たる節はなかった。
ただの不法侵入者だとは思うが、じゃあなんで追ってきてる!??
後ろを振り返ると、その男が追ってきてた。
ここら辺は見晴らしがいい場所だった。
田んぼや雑木林が広い土地の中に横たわっている。
状況が状況だけに、広い場所が仇になっていた。
逃げ場がない
そう思ったのも束の間だった。
石ころか何かに躓き、転んでしまった。
「ハアッハアッ…」
立ち上がる気力がなかったわけじゃない。
地面に転げ落ちた時、まだ走れる余力はあった。
思うように体が動かなかったのは、多分焦ってたからだ。
焦りすぎて酸欠になってた。
目の前がクラクラして、視線は覚束なくて…
這いずるように腕を動かしながら、自由の利かない足を動かそうとした。
でもダメだった。
近づいてくる気配を感じて、バッと振り向いた。
男はすぐ目の前にいた。
ナイフの刃をこっちに向け、ゆったりとした足取りで。
「…冗談…だろ…?」
身に覚えがない。
ナイフを突きつけられるようなことをした覚えはない。
…でも、じゃあなんで目の前のコイツは、俺を襲おうとしてるんだ?
声を出そうにも、息切れしてて全然…
周りに人はいない。
俺が住んでる町は、良い意味でも悪い意味でも長閑だった。
助けを呼ぼうにも、周りにいるのは近所のおばさんくらいだ。
そもそも家が少なかった。
車の通りだって少ないし、歩いてる人なんて滅多に…
終わる——
後ずさる俺を見下ろしながら、男はナイフを振りかざしていた。
マスク越しに見える眼光が、交差する視線の中に動いていた。
死ぬと思った。
咄嗟にガードしようとしたが、ナイフを防ぐ方法なんて…
——ドッ…!
鈍い音がして、自分の体が無事かどうかを確認しようとした。
…傷は…ない…?
血は出てなかった。
…っていうか、あれ…?
傷がないどころか、痛みすらなかった。
…でも、なんで…
見上げると、そこには人影が覆い被さっていた。
揺れるスカートと、オーソドックスなセーラーカラー。
一瞬、目を疑った。
そんなわけないと思った。
どうしてそこにいるのかも。
なんで、急に現れたのかも。
どこかで見たことがある背中だった。
長い髪の隙間に見える白いうなじと、レモンの香り。
四角い後ろ襟が、重力に逆らうように浮き上がっていた。
さっと風が吹き抜けるような、
そんな軽やかさの、——中で。
「…しお…り…?」
嘘だろ…?
…なんで?
戸惑う俺を横目に、「逃げて!」と、彼女は叫んだ。
甲高い声が、田園の風景の中に響いた。
その拍子に、森の中にいた鳥が飛び立つ。
乾いた音とは程遠かった。
かといって、水のようなしめやかさはなかった。
俺は動けなかった。
動こうと思えば、動けたのかもしれない。
でも、そういう状況じゃなかった。
不審者が目の前にいて、そのすぐそばで、しおりが立ってる。
彼女は幼馴染だった。
保育園の頃から一緒で、小学生の頃はずっと同じクラスだった。
幼馴染で、友達だった。
いつも一緒だった。
最近じゃ、会うこともあんまりなかったが…
「早く逃げて…!」
「…は!?」
「早くここから離れた方がいい。時間を稼ぐから」
離れるったって…
そんなの、置いていけるわけないだろ??
しおり1人で対処できるような状況じゃなかった。
っていうか、そんなこと言ってる場合じゃなかった。
時間を稼ぐのは俺のほうだ。
しおりの方こそ早く…ッ!
急いで立ち上がり、不審者の体を掴もうと思った。
なんとかしなきゃと思った。
相手は俺よりも身長が高い男だった。
しおりと男の体格差は、火を見るより明らかだった。
時間の問題だと思った。
早く助けなきゃ——
ザッ
地面を蹴る音がして、途端にスカーフが揺れる。
紺色の上着と、白い運動靴。
空気が弾むような伸びやかな波長が、視界の中心を通り過ぎた。
何かがぶつかったような重い振動が、手に触れられる間際まで近づいていた。
浮き上がるような輪郭がせり立つ。
ナイフが、視界のそばを横切る——
「——え」
空気が、切り裂かれる。
千切れた風の繋ぎ目が、わずかなほつれもなく転がり落ちた。
「音」はなかった。
「そこ」に。
あるのはゆらめくスカートだけで、静かな吐息でさえはためかない。
男は覆い被さっていた。
長い足と腕を使って、しおりの体を押し倒そうとしてた。
力ずくで振り解こうとしていた。
掴まれた手首を手前に引き、体勢を持ち直そうとしてた。
明らかに不利な状況だった。
——しおりが。
彼女にできることなんて何もないと思った。
ほんのわずかな、抵抗でさえ。
男の動きが、わずかに止まったように見えた。
微かな変化だった。
ほんの少し、指と指が触れるくらいの。
ドッ
交錯した体の中心から、泡ぶく雫の音が聴こえる。
深くて、それでいて…
ほんのわずかな「間」はあった。
針が通るくらいの隙間で。
“動きが止まった”と言えるほどの確かさはなかった。
ただ、“くっきり”とはしていた。
まっすぐ何かが通り抜ける。
そんな明瞭さを伴いながら、時間が前に倒れていた。
目で追えるほどのスピードじゃなかった。
少なくとも、そう見えたんだ。
男が振り翳したナイフが、しおりの頬を掠める時に。
「…クッ」
男は顔を顰めていた。
マスク越しでもわかった。
苦しそうに後ずさりながら、胸を押さえていた。
優位なのは男の方だった。
状況的にも、体勢的にも。
突然現れたしおりに対して、少しだけ驚くような素振りはあった。
ただ、それでもすぐに持ち直していた。
ナイフを持つ手が掴まれた後も、動揺する素振りさえ見せず。
カランカランッ
地面へと落ちたナイフが、高い金属音を奏でる。
一歩、二歩。
男はよろめきながら後ずさっていた。
ただ、どうして後ずさっているのかは、ハッキリとは追えなかった。
しおりの長い髪が、すれ違うナイフの表面に交錯していたのは確かだった。
重力を坂撫でるような変遷が、持ち上がる後ろ髪の波間に触れていた。
流れるような動作が、横方向へと傾く。
わずかな隙間の中を流れる。
半歩、——先。
ブラウスが乱れるほど強く。
その「動き」は、しおりのものとは思えなかった。
攻撃しようとする男の手を掻い潜り、右半身を相手の懐へと潜り込ませた。
ボクシングで言うダッキングのような動きだった。
鈍い音が響いた後、男がよろめいたんだ。
しおりの右手には、赤い血に塗れた”包丁“があった。
「…なっ」
絶句した。
何が起こったのかわからなかった。
その時に見た「光景」は、異様と呼ぶにはあまりにも滑稽だった。
(なんで、しおりが…?)
目に映った包丁。
その“こと”の異様さは、思考の内側には無いものだった。
想像さえできなかった。
地面に落ちるナイフの音を、綺麗に拾い上げることもできず。
「行くよ!」
…行く…?
…行くったって、どこに?
男の胸は真っ赤に染まっていた。
赤黒い色調が、少しずつ布に染み渡っていく。
しおりは俺の手を引っ張り、走り出した。
俺は茫然としたままだった。
目の前で起きたことを整理できないまま、浮き足立つ足をうまく支えられない。
走る——
まるで嘘みたいな出来事だった。
風が流れるような速さで、目の前の景色が揺れた。
息つく間もなかった。
急いで家を飛び出して、緩い坂道を下った。
空は赤かった。
薄長い線を引くひつじ雲が、町の向こう側へと伸びていた。
心臓の鼓動が高まっていく。
揺れる視界の先で、長閑な町の風景が通り過ぎていく。
俺はただ、しおりに引っ張られるがままだった。
掴まれた手を伸ばしたまま、もつれそうになる足を動かしていた。
空は少しずつ翳っていった。
チチチと囀る鳥の声が、どこからか聴こえていた。




