七頁目:指切りと襲撃-後
叔父が書き連ねたあの一万字の言葉が、突然、血の通った悲鳴となって僕の鼓膜を叩いた気がした。叔父はこの二十年前の事件を追っていたのか?
そして、"足りない指"。その行方に、近付いてしまったのだとしたら――?
(……叔父さんは、何に巻き込まれていたんだ?)
もっと調べなければ。僕は、さらなる詳細を求めて次のリンクをタップした。
だが、画面は一向に切り替わらなかった。
検索中を示す青いバーが、数ミリ進んだところでぴたりと止まっている。
「……なんだ、重いな」
スマホを買い換えてから、そんなに期間は空いていないはずだ。OSの不具合か、それとも通信障害か。電波のアンテナは最大を示しているのに、データの送受信を示すアイコンは絶望的に沈黙している。
再読み込みを試すが、状況は変わらなかった。それどころか、手に持っている端末が、妙に熱を帯び始めていることに気づく。
リチウム電池が悲鳴を上げているような、指を焼くような不快な熱。
掌を通じて、スマートフォンのバックグラウンドで、僕の知らない"何か"が、猛烈な勢いで、激しく蠢いているような、微かな振動が伝わってくる。
適当にタスクキルを試してみるが、調子は改善しない。
「……故障とかじゃないよな?」
もしかすると、WiFiルーターの調子でも悪いのだろうか。この古いアパートでは、ネット回線にもガタが来てしまっている。
僕は様子を見るために、ベッドから立ち上がろうとした。
その時だった。
ギィ。
建物の外から、錆びついた鉄が軋む音が聞こえた。
それは、階下にある共有階段の音だ。
僕は動きを止め、意識を耳に集中させた。
僕の部屋は一階の突き当たり、奥まった場所にある。玄関のすぐ脇には、二階へと続く鉄骨の階段がある。
ギィ、ギィ、と、一定の間隔で音が繰り返される。
誰かが階段を登っている。
……おかしい。
時刻は午後八時を過ぎたところだ。
このアパートの住人は、僕の他には、隣の一〇二号室に住む無愛想な中年男性と、二階に住む仕事帰りが遅いサラリーマンが二人だけだ。
二階の二人は、いつもならもっとずっと遅い、深夜に帰ってくる。階段を鳴らす彼らの足音は、一日分の疲労を引きずるような、もっと重く、不規則な響きだったはずだ。
けれど、今聞こえるこの足音は、あまりに静かだ。
意図的に音を殺しているのではない。まるで、自分の体重というものを忘れてしまったかのような、浮遊感のある、けれど確かな金属の軋み。
一段。沈黙。
一段。沈黙。
まるで、こちらの反応を、壁越しの僕の呼吸を、じっと伺っているかのような、悪意に満ちた停滞。
足音は、二階へと続く階段の中ほどで、ふっと途絶えた。
静寂が、澱んだ水のように部屋に戻ってくる。
線路を走る貨物列車の遠い地鳴りだけが、低周波の振動となって部屋の空気を震わせている。
(……見間違い、じゃなくて、聞き間違いか?)
そう自分に言い聞かせ、スマートフォンの画面に視線を戻そうとした、その瞬間。
トントン。
真上の天井から、軽い音が響いた。
何かが、床に落ちたような音。
続いて、ズル……ズル……と、重い肉の塊を引きずるような音が、僕の真上でゆっくりと移動し始める。
血の気が、一気に足元から引いていくのが分かった。
二階の住人は、まだ帰っていないはずだ。部屋の窓には明かりも点いていなかった。誰もいないはずの空室から、どうして音がする?
僕は呼吸を殺し、天井を見つめた。
這いずり回るような音は、やがて部屋の隅、ちょうど僕が今座っている真上まで来ると、ピタリと止まった。
そして――。
ギィ……。
今度は、階段を降りてくる音がした。
さっきよりも、ずっと、ずっとゆっくりと。
一歩。沈黙。
一歩。沈黙。
廊下のコンクリートを叩く、硬く、乾いた靴音。
一〇一号室を通り過ぎる。
一〇二号室の前で、わずかに止まる。
そして、最後の一〇三号室。
僕の部屋の扉の前で、足音が完全に止まった。
僕は、金縛りにあったように動けなかった。
ドアスコープ越しに外を確認する勇気などない。けれど、見なくても分かった。
扉の向こう側に、誰かが、あるいは"何か"が、至近距離で立っている。
廊下の蛍光灯を遮るように、ドアの下の隙間に、細長い、歪な影がじわりと這い入ってきている。
スマートフォンが、掌の中で猛烈に熱くなった。
もはや火傷しそうなほどの熱量。画面が突然、見たこともないほど禍々しい青白い光を放ち、エラーメッセージを無限に吐き出し始める。
『Access Denied. Access Denied. Access Denied. Access Denied. Access Denied.』
文字が、叔父の絶筆のように画面を埋め尽くしていく。
それと同時に、扉の向こうの影が、ゆっくりと動いた。
カチャ。
ドアノブが、微かな音を立てて回される。
鍵はかかっている。けれど、影は諦める様子もなく、何度も、何度も、確信犯的な緩やかさでノブを回し続けた。
ガタッ。
扉が、外側からではなく、内側に向かって強く押された。
古い建付けのせいで、隙間風がヒュウと音を立てて吹き込んでくる。それは誰かの細い溜め息のようにも聞こえた。
僕は震える手で、ベッドの脇にあった真鍮の文鎮を握りしめた。叔父から譲り受けた、唯一の武器にもならない重り。
「……だ、だれ、ですか?」
絞り出した声は、自分でも驚くほど細く、震え、頼りなかった。
返事はない。
ただ、扉の向こうの影が、ドアスコープを内側から塞ぐように、ゆっくりと近づいてくるのが分かった。
レンズの向こう側で、誰かの湿った瞳が、じっと、こちらを覗き込んでいる。
僕は、自分の空っぽな部屋の中で、逃げ場のない恐怖に押し潰されようとしていた。
夜はまだ、始まったばかりだ。
琥珀色の光も、朱音の騒がしい声も届かない、この四角い檻の中で。
その時。
扉の向こうの影が、今度は乱暴にドアを叩き始めた。
ドンドンドンドンドン。
ドンドンドンドンドン。
鉄の扉が悲鳴を上げ、建物全体が揺れる。
「……っ!」
逃げなければ。そう思った瞬間、ドアスコープの向こう側にいた"影"が、不気味に長く、扉一面を覆い尽くすように広がった。




