七頁目:指切りと襲撃-前
この街の夜は、まるで古い書物の頁を唐突に閉じるように、あるいは誰かの手によって電球の傘に黒い布がかけられるように、唐突に、そして静かに訪れる。
朱音と別れ、一人きりで辿り着いた僕のアパートは、市街の華やかな表通りからは切り離された、線路沿いの湿った場所に建っていた。
築三十年を超える木造二階建て。潮風と雨に晒されて錆びついた鉄骨の階段は、風が吹くたびに、まるで誰かが喉の奥で押し殺した悲鳴を上げているかのように低く軋む。海鳴りのような風に晒され、建物全体が震え、僕の足元から心許なさを煽るのだ。
僕は自分の部屋、一〇三号室の重い鉄の扉を開けた。
六畳一間のワンルーム。そこには、僕という人間の空虚さを象徴するように、最低限の生活用品しか置かれていない。
小説家を夢見て、なけなしの貯金を叩いて買い漁った名作たちは、新人賞の落選通知が積み重なり、自分の無能が証明されるたびに古本屋へと売られていった。今、殺風景な机の隅に残っているのは、叔父――白河執が遺した数冊の著書だけだ。
「……疲れた」
鞄を床に放り出し、僕は着替えもせずにベッドへ倒れ込んだ。
昨日から今日にかけて、僕の日常は音を立てて崩壊し始めていた。
深夜の書店の店主、墨千夜との奇妙な出会い。見知らぬ詩人の絶筆を通じて体験した、あの心臓を氷で撫でられるような死の感触。そして今日、朱音と共に踏み込んだ、主を失ったばかりの叔父の書斎。
天井の染みを眺めていると、今日見た光景が、強すぎる露光で焼かれた写真のように鮮明に浮かび上がってくる。
叔父の机の上。薄く積もった埃の中に、ぽっかりと取り残されていた、あの"四角い跡"。
縦二十センチ、横十五センチほど。文芸書の単行本か、あるいは少し厚めの手帳が置かれていたような、不自然な空白。叔父が亡くなる直前まで、間違いなくそこには「それ」が置かれていた。
(……あそこにあったものは、どこへ行ったんだろう)
日下さんは言っていた。遺体を発見してすぐに警察を呼んだら、運良くパトロール中の警官が近くにいて、数分もしないうちに駆けつけてくれた、と。
仮に日下さんが何かを持ち去ろうとしたのだとしたら、その数分間しかない。けれど、パトライトが外で回り、警察が現場を保存し始めている最中に、遺品の整理を装って本を一冊懐に入れるのは至難の業だ。プロの鑑識の目、そして第一発見者への疑いの目を考えれば、リスクが高すぎる。
ならば、誰が?
日下さんが来る前に、別の誰かが部屋に入っていたのか。それとも、叔父が死ぬ直前に、自らその資料をどこかへ隠したのか。あるいは、警察が資料として持ち帰ったのか。
……いや、日下さんは「会社から資料の回収に来いと言われた」と言っていた。もし警察が公的に押収していたのなら、彼がわざわざ合鍵を持って現れる必要はないはずだ。
考えれば考えるほど、パズルのピースは形を歪めていく。答えは出ない。ただ、あの四角い空白だけが、叔父の死に潜む"裏地"を象徴するように、僕の脳裏に消えない残像として焼き付いていた。
(あそこに資料があったとして、一体どこに消えた……?)
暗い部屋の中で、僕は思考を巡らせる。
叔父が最期に残した、あの一万行の狂気の羅列。
『あの子の指が、足りない』
そして、パソコンの履歴に残されていた、唯一具体的な意味を成しそうな単語。
――"指切り心中"。
指が、足りない。
指切り、心中。
二つの言葉が、まるで呪いのように強く引き合っている。
叔父さんは、この言葉について調べていた。単なる小説のネタなのか、それとももっと現実的な、彼の死に直結する何かだったのか。
"指切り"という言葉には、本来、約束を違わないための誓いという意味がある。遊郭で遊女が客への誠意を示すために小指を切ったという、痛ましくも執着に満ちた由来。けれど、そこに"心中"という死のイメージが重なると、途端に悍ましい響きを帯びる。
(指を、切断した……?)
その物理的なイメージが浮かんだ瞬間、背筋が粟立った。一万字の繰り返しの中に込められていた、あの冷徹なまでの熱量。
僕は身震いし、逃れるようにスマートフォンを手に取った。今の僕には、その言葉の意味を、情報の海から手繰り寄せることしかできない。僕はブラウザを立ち上げ、検索窓に、叔父の履歴にあったその言葉を打ち込んだ。
"指切り心中 装幀市"
検索結果の最上部には、古ぼけたニュースアーカイブと、有志による都市伝説のまとめサイトが並んだ。
画面をスクロールする指が、微かに震える。
『二十年前の惨劇:装幀市立高校心中事件』
見つかったのは、今から二十年前。この装幀市内にある公立高校の放課後の教室で起こった、凄惨な事件の記録だった。
当時、将来を嘱望されていたはずの男子生徒と、一人の女子生徒が心中を図ったのだという。男子生徒は一命を取り留めたが、女子生徒――名前は"羽住 実那"――は、そのまま帰らぬ人となった。
だが、その心中事件を異常なものとして人々の記憶に刻みつけたのは、死因そのものではなかった。
実那の遺体からは、彼女の左手の指が、刃物のようなもので綺麗に切断されていたのだ。
それも、全て。そして、指たちは現場から持ち去られていた。
現場には遺書めいたメモが残されていたという。けれど、切り取られたはずの彼女の指は、教室内はおろか、校内のどこからも、男子生徒の持ち物からも見つかることはなかった。
「……今も見つかっていない?」
画面に映る、解像度の低い実那の顔写真を見つめる。どこにでもいる、少し内気そうな少女の瞳。
ネットの掲示板には、不確かな噂が書き連ねられていた。
『指を持ち去ったのは、生き残った男子生徒ではなく、第三の人物だ』
『あの子の指を、今も誰かがコレクションしている』
『指を失った実那の霊は、今も自分の欠片を探して彷徨っている』
――指が、足りない。




