六頁目:柔い日に照らされて
夕暮れの装幀市は、まるで古い吸い取り紙に溢したオレンジ色のインクが、じわりと街全体を侵食していくような色をしていた。
叔父の家を後にしてから、僕の隣を歩く朱音のテンションは、落ちるどころか加速する一方だった。
彼女はジンバルに固定したスマートフォンを、まるで魔法の杖か何かのように空中で踊らせながら、画面の向こう側にいる見えない数千人の"視聴者"に向けて、弾丸のような言葉を浴びせ続けている。
「――はい、というわけで皆さん! 今の聞こえた!? これガチのやつだよ! 人気ミステリー作家、白河執が遺した狂気の絶筆! 一万字にわたって綴られた『指が足りない』という謎のメッセージ……。いったいそこに、どんな惨劇が隠されているのか!」
彼女はカメラの角度を絶妙に調整し、自分を画面の隅に置きつつ、背景にある寂れた住宅街の影を強調してみせる。その瞳は、獲物を見つけた猛獣のような輝きを放っていた。
「失われた指、隠された過去、そして死の間際に作家を襲った正体不明の恐怖! これ、絶対ネットに転がってる都市伝説の源流に繋がってるって! 切られた指を探し求める怨念の原稿……あー、もうゾクゾクする! みんなもそう思うよね? お、一万円ギフト! 『さっくー、顔出ししろ』? だーめ、こいつはまだ裏方! 安売りはしないよ!」
不本意な呼称が、既に視聴者の間で定着してしまっている。
僕はため息を吐きながら、数歩下がって彼女の背中を眺めていた。
さっきまで日下さんの前で神妙な顔をしていたのは、一体誰だったのか。
彼女にとって、叔父の死さえも"最高のコンテンツ"の一部に過ぎないのだろうか。
叔父が愛した静寂も、彼が遺した悲鳴のような一万字も、朱音の声によってデジタルの海に流され、数万のスマホの画面上で消費されていく。その事実に、僕は喉の奥がちりちりと焼けるような不快感を覚えた。
僕はちょいちょいと、彼女の派手なワッペンがこれでもかと貼られたパーカーの肩を指先で叩いた。
「……あの、朱音さん。いつまで配信を続けるつもりですか? もう駅が見えてきましたよ。さっきから変な目で見られてますし」
朱音はくるりと振り返り、カメラを回したまま不敵に笑った。その表情は、カメラが回っている間だけは完璧に"プロの配信者・あかねちゃん"として作り込まれている。
「そんなの、勿論、私が満足するまでに決まってんじゃん! 今、同接が過去最高を更新しそうなんだから。ここが踏ん張りどころなの! ほらほら、みんな! さっくーが恥ずかしがってるよ! もっと応援してあげて!」
「満足するまでって……。じゃあ、僕はもう帰っていいですか? 流石に疲れましたし、日下さんに言われたことも整理したいので」
「だーめ! 逃がさないよ。さっきの調査にガッツリ協力してあげたんだから、今度は私に付き合ってよね! あ、ギフト十連ありがとう! 愛してるよ、みんな!」
「協力……?」
僕は思わず足を止めて、彼女を見つめた。
……協力、しただろうか。
彼女がやったことといえば、書斎で老婆心云々と言いながらカメラを回し、日下さんが出してくれた紅茶の匂いを露骨に警戒したくらいだろう。
結局、日下さんを揺さぶる一撃を与えたのは僕の方だったはずなのだが、彼女の中では共同戦線ということになっているらしい。
「一秒でもいいから、静かにしてられないのか、この人……」
僕が独り言を漏らした、その時だった。
『――装幀市の古い傷跡を、私が清算いたします! 新しい時代、新しい街作りを! 定本! 定本征志郎に清き一票を!』
前方から、またしてもあの野太い演説が響いてきた。
選挙カーが、沈みゆく夕日を背にしてゆっくりとロータリーを回っている。スピーカーから放たれる大音声が、朱音の高感度マイクに容赦なく突き刺さった。
「あー、もう! またお前か定本! マジで最悪! こんなんじゃ配信にならないじゃん! ノイズキャンセリング突き抜けてきてるよ! 私のオーディオ波形が、こいつのせいで汚れる!」
朱音は本気で怒り狂い、ジンバルを掴む手に力がこもる。
「仕方ないですよ、選挙近いんですから。もう、この辺にしときましょ。十分撮れたでしょうし」
「なーにが選挙よ! 朝も夜も騒音被害出されたら溜まったもんじゃないっての! あたしにとっては、国政より配信! この街の清算より、私の同接数の方が大事なの!」
(おいおい、それは炎上モンじゃないのか?)
喉元までせり上がってきたツッコミを、ひとまず飲み込むことにした。
彼女の"仕事"に対するプライド――あるいは執念――は、僕の想像を遥かに超えている。定本征志郎という男が掲げる新しい装幀市の未来よりも、彼女は今、この瞬間のドラマを切り取ることに命をかけているようだった。
「……チッ、今日はここまで! みんな、ごめんね、続きはまた深夜に! 今夜の"あかねチャンネル"、"丑三ツ書店"からの潜入配信をお楽しみに。おつあかねー!」
朱音は怒りに任せて配信終了ボタンを叩くと、深く、長いため息を吐いた。
憑き物が落ちたように肩の力が抜け、彼女はスマホをポケットに突っ込む。ようやく、街に静寂――といっても、遠くで響く選挙カーの残響が混じった、耳鳴りのような静寂だが――が戻ってきた。
「……お疲れ様です。本当に、元気ですね」
「元気じゃないよ、必死なの。私のチャンネルはスピードが命なんだから。鮮度が落ちたネタなんて、誰も見向きもしないよ。……で?」
朱音はボサボサになったボブヘアをかき上げ、改めて僕に問いかけてきた。
「さっくー、これからどうするの? 一度家に帰って寝る?」
「そうですね……まあ、ひとまず"丑三ツ書店"に行ってみようと思ってます。墨千夜さんに、さっきスマホに落とした書きかけの原稿を見せて、"清書"に役立たないか聞こうかと。分かることも増えるでしょうし」
「ふーん。まあ、別にいいけど。でも、夜を待たなきゃ駄目だよ。あいつ、明るい時間は本当に役立たずだから。時間の無駄」
「さっきも喫茶店で言ってましたね。エネルギーがどうとか」
「そうそう。なんていうか、昼間のあいつはさ……中身を抜いた餅巾着〜〜〜、みたいな?」
「餅巾着」
思わず繰り返してしまう。
「そう。外側の巾着だけは立派だけど、中身の餅はでろでろのどろどろよ。話しかけても『ぷりん……』とか『おふとん……』とか、語彙力が二歳児以下になるんだから。昨日の夜みたいな超然とした雰囲気なんて、一ミリも期待しないほうがいいよ。ただの重力に従うだけの肉塊だから」
昨晩、琥珀色の瞳で僕を射抜き、死者の声を聞く術を教えてくれた、あの神秘的な少女。
古い和服を優雅に着崩し、死を愛でるように語っていた彼女。
(それが……語彙力崩壊の餅巾着……?)
あまりに落差の激しい話に、僕は頭がついてこない。
「ま、とにかく、店に行くのなら夜にしときな。そもそも、行ったところでシャッターすら開けてくれないと思うけどさ。今の時間は、あいつがこの世で一番役立たずな時間だから。……あ、でもプリン買ってったら、指先くらいは動かしてくれるかもね」
「プリンですか」
「そう。コンビニの三個パックのやつ。高いのは嫌いなんだって。安っぽい甘さが、スカスカの脳に染みるらしいよ」
朱音はひらひらと手を振ると、夕闇に紛れるように駅の階段へと消えていった。
彼女の背中を見送りながら、僕は自分が立っている場所の影が、いつの間にか足元から数メートル先まで伸びていることに気づいた。
僕は一人、装幀市のメインストリートに残された。
シャッターの閉まった古本屋が並ぶ通りには、どこまでも長く、細い影が伸びている。
太陽が沈み、街が輪郭を失っていくこの時間は、いつも以上に自分が透明になったような気がして落ち着かない。
「僕も、帰るか。夜まで時間、潰さなきゃな……」
そう独り言ち、僕は歩き始めた。
鞄の中には、叔父の狂気と、日下さんの沈黙と、新しく手に入れた断片が重なっている。
空っぽだったはずの僕の中に、他人の人生の欠片が溜まっていくような気がした。




