五頁目:嘘の温度
書斎に流れていた死の気配を追い出すように、一階のキッチンからは湯気の上がる音が聞こえていた。
使い込まれた磁器のカップが、ソーサーと触れ合って微かな音を立てる。叔父が生前愛用していた、ウェッジウッドのアンティークだ。リビングのソファに腰掛けた僕の前に、琥珀色の液体が満ちたカップが静かに置かれた。
「はい、朔くん。熱いうちにどうぞ。ダージリンだけど、先生はこれに少しだけ蜂蜜を入れるのが好きだったんだよ」
日下さんは、僕の隣で背中を丸めている朱音の前にもカップを置くと、自分も対面の椅子に深く腰を下ろした。彼の手つきは驚くほど迷いがなく、この家のキッチンのどこに何があるのかを完璧に把握しているようだった。
「……いいんですか? 僕たちが勝手に入っていたのもそうですけど、勝手に飲んだりして」
「いーのいーの。先生が行き詰まった時、紅茶を淹れるのは俺の役目だったんだから。……まぁ、勝手に入っていたことについては、後でお説教かもしれないけどね」
日下さんは困ったような、けれど年下の親戚を見守るような優しい笑みを浮かべた。その表情には、先ほど書斎の入り口で見せたような鋭い光はもう欠片も残っていない。
「さっくー、この人って……?」
隣で、朱音が僕の耳元で囁いた。彼女はカップに口を付けるどころか、湯気さえも警戒しているように見える。ジンバルを膝の上に置き、いつでも逃げ出せるような姿勢を崩していない。
「……叔父さんの担当編集さんの、日下さん。僕が子供の頃から叔父さんの家に出入りしてて、僕もよく遊んでもらってたんだ」
「ふーん……」
朱音は日下さんをじろじろと観察するように見つめた。日下さんは彼女の無礼な視線にも嫌な顔一つせず、
「初めまして、お嬢さん。先生の姪御さん……ではないね。朔くんの、お友達かな?」
と穏やかに会釈を返した。
「……奥附朱音です。さっくーとは、ちょっとした仕事仲間で」
「さっくー? あはは、面白い呼び方だね。朔くんも隅に置けないなぁ」
日下さんは楽しそうに肩を揺らした。その屈託のなさは、僕が知っている彼そのものだった。出版社という殺伐とした世界で、気難しい小説家たちの懐に飛び込んでいく、有能で人当たりの良い編集者。
「日下さん、どうしてここに? 日下さんも不法侵入……なんてことはないですよね」
「まさか。これだよ」
日下さんはポケットから、一本の鍵を取り出した。
「編集部から、先生に貸し出していた貴重な資料を至急回収してこいと言われてね。ほら、先生の家には図書館から借りたままの資料や、古書店から取り寄せた一点物も多いだろう? 放っておくと散逸しちゃうからさ。一応、朔くんのお父さん……先生のお兄さんかな、を通して、許可は取ってあるよ。合鍵も預かったんだ」
「兄さんに……。そうだったんですか」
日下さんの言葉には一点の曇りもなかった。確かに、叔父の蔵書整理は遺族にとっても頭の痛い問題だ。信頼できる担当編集者に任せるのは、合理的と言える。
「逆に、君たちこそどうしてこんなところに? もう警察の検分も終わっているし、ここに来ても悲しくなるだけだよ、朔くん」
「それは……。整理というか、叔父さんが最期に何を考えていたのか、知りたくて」
僕は濁した。まさか深夜営業の怪しい本屋で、絶筆を"清書"をするために訪れたとは言えない。日下さんは僕の言葉を、肉親を失った若者の感傷として受け止めたようだった。
「……認められないのもわかる。あんなに元気だった先生が、急にね。でもね、朔くん。あれは病死だよ。不整脈による心不全。警察の検視官もそう言っていたし、不審な点は何もなかった」
日下さんは、静かにカップをテーブルに置いた。その瞳に、深い哀悼の影が差す。
「何でそう言い切れるんですか?」
それまで沈黙を守っていた朱音が、不意に言葉を投げかけた。日下さんは少しだけ驚いたように眉を上げ、それからゆっくりと首を振った。
「俺が、先生の第一発見者だからだよ」
日下さんの声が、一段低くなった。
「あの夜、先生から『原稿が上がったから取りに来い』と連絡があったんだ。でも、家に着いたら返事がない。嫌な予感がして合鍵で入ったら……書斎で先生が倒れていた」
「……その後、すぐに警察を?」
僕はすかさず聞き返した。
「ああ。近くを警邏中の警官がいてくれたみたいでね、あっという間に警察が来てくれたけど、先生はもう……まだ、体には微かな熱が残っていたよ」
日下さんは、遠くを見るような目で続けた。
「手元には、あの手書きの原稿が残されていた。一万行の、同じ言葉。……先生の表情は、凄まじかった。何かに取り憑かれたような、鬼気迫る顔でペンを握ったまま。……あれはね、朔くん。先生が命を削って、新作を書き上げようとした証拠なんだよ」
「新作……のために、あんなものを?」
「そう。最近の先生は、新作の執筆のためにひどく根を詰めていた。食事も睡眠も削って、方々から資料をかき集めていたんだ。心臓に負荷がかかっていたんだろうね。……作家っていうのは、物語に命を喰われることがある。先生は、最後まで小説家だったんだよ」
日下さんの言葉は、一つの"物語"としてあまりに完成されていた。叔父が命をかけて傑作を生み出そうとし、その過程で力尽きた。それは美しく、そして残酷な、小説家にとっての理想の死に様のように聞こえる。
けれど、僕の耳には、朱音が指摘した現場の違和感が、残響のように鳴り響いていた。
「日下さん。叔父さんが集めていたその資料について、心当たりはありますか?」
「資料? ああ、神話とか歴史ものとか、色々だったけど……」
「……叔父さんのパソコンに、検索履歴が残っていたんです。その中に、何度も出てきた言葉がありました」
僕は、逃げ場を塞ぐように、その単語を口にした。
「"指切り心中"。……叔父さんが調べていたのは、このことに関係があるんでしょうか」
瞬間。
リビングの空気が、真空になったかのように凍りついた。
日下さんの、カップを持とうとした指先が、空中で静止する。
穏やかだった彼の瞳の奥から、一瞬だけ、すべての感情が消え失せた。それは、昨晩僕が"丑三ツ書店"で見た絶筆の闇にも似た、底知れない空白だった。
しかし、その静寂はコンマ数秒のことだった。
日下さんは何事もなかったかのように口角を上げ、カップをテーブルに置いた。
「なんだい? それ。最近の流行りか何かかな?」
首を傾げる仕草も、声のトーンも、完璧だった。
「先生がそんなことを調べていたなんて、初耳だなぁ。……まぁ、先生はたまに突飛なアイディアを思いつくからね。都市伝説か何かをミステリーに組み込もうとしていたのかもしれないけど。……あまり聞き慣れない言葉だね、指切り心中なんて」
あまりに自然な否定。けれど、その"完璧さ"こそが、僕の中に確信を与えた。
日下さんは知っている。この言葉が持つ、致命的な重みを。
「……そうですか。僕の思い過ごしならいいんですけど」
「そうだよ、朔くん。あまり考えすぎちゃいけない。先生は、ただ疲れていたんだ。……さて」
日下さんは、膝に手を置いて立ち上がった。
「そろそろ話を打ち切ろう。俺も、会社に戻らなきゃいけないし、君たちも長居する場所じゃない」
日下さんは僕たちの背中を優しく促しながら、玄関へと向かった。
「ま、いいや。とにかく、それを飲んだら今日はもうおしまいだ。朔くん。君がお父さんに怒られるのは見たくないからね。ここで会ったことは、お父さんには黙っておくよ」
玄関の扉が開き、外の冷たい空気が流れ込んでくる。
日下さんは僕たちの肩を叩き、親戚の兄さんのような顔で見送ってくれた。
「日下さん」
僕が呼びかけると、彼は扉を閉める直前、振り返った。
「……叔父さんの遺作。……僕が、いつか完成させてもいいですか」
日下さんは一瞬だけ、痛々しいものを見るような目を向け、それから寂しげに笑った。
「……先生の作品は、誰にも真似できないよ、朔くん。……君は、君の物語を書くべきだ。じゃあね」
ガチャン、と重い金属音が響き、扉が閉ざされた。
装幀市のどんよりとした曇り空の下に、僕と朱音は取り残された。
「……ねえ、さっくー」
朱音が、震える手でスマートフォンをポケットに仕舞いながら言った。
「あの人……今の、見た?」
「ええ、見ましたよ。あれは……」
"指切り心中"。その言葉を出した瞬間、彼が飲み込んだはずの"嘘"が、僕の目にははっきりと見えた。
それは、綺麗な装丁の裏側に隠された、真っ黒なインクのシミのような。
「……日下さんは、何かを隠してる」
叔父の絶筆は、まだ終わっていない。
日下さんが隠そうとした"裏地"を剥がすために、僕は今夜、再びあの書店の暖簾をくぐることを決めていた。




