四頁目:静寂の書斎
装幀市の住宅街は、どこか古びた図書館の奥まった書架に似ている。
道幅は狭く、建ち並ぶ家々はどれも背表紙のように薄暗い色調で、互いに肩を寄せ合うようにして沈黙を守っていた。時折、軒先から漏れ聞こえるのは、風に煽られた新聞紙の音か、あるいは積み上げられた古本の山が自重で軋む音ばかりだ。
その一角にある木造二階建ての家が、叔父――白河 執の終の棲家だった。
庭に植えられた金木犀の木は手入れを失い、伸び放題になった枝が、二階の窓を叩いている。かつては端正だったであろうその家も、今や住人を失い、街の湿った空気に溶け込もうとしているように見えた。
「……ここが、白河 執の聖域ってわけね」
隣で朱音が、不釣り合いに明るい声で呟いた。彼女は手に持ったジンバルを無意識に弄りながら、家全体を舐めるように見回している。
「聖域なんて、そんな大層なものじゃないですよ。ただの、本を食べる化け物の巣です」
僕は苦笑しながら、ポケットから預かっていた合鍵を取り出した。金属の冷たさが指先に伝わる。鍵穴に差し込み、ゆっくりと回す。
カチリ、という乾いた音が、静かな住宅街に響いた。
「ねえ、さっくー」
扉を開けようとした僕の背中に、朱音が問いを投げた。
「叔父さん、独り身だったの?」
「ええ、生涯独身でした。……っていうか、まだお嫁さんを貰う可能性がまったくない年齢ではなかったんですけどね。四十前でしたから」
「へえ、白河 執。孤高の天才作家は浮いた話もなかった、と。メモメモ」
「……不謹慎ですよ。女性の知人がいることは知っていますけど、そういう特別な関係の人はいなかったはずです。叔父さんは、人間よりも物語と付き合っている方が楽だと言っていましたから」
「物語と付き合う、ね。……それ、作家としては最高だけど、人間としては寂死まっしぐらじゃん」
朱音は肩を竦めると、僕が押し開けた扉の先、薄暗い玄関へと迷いなく足を踏み入れた。
家の中は、外の喧騒を完全に遮断していた。
廊下の両脇には、溢れ出した文庫本が地層のように積み重なり、踏み場を奪っている。インクと紙の、そして微かな埃の匂い。それは僕にとって懐かしい匂いであるはずなのに、住人を失った今は、冷え切った遺体から立ち上る死臭のようにさえ感じられた。
一番奥にある、十畳ほどの書斎。そこが叔父の戦場だった場所だ。
「……うわ。これはまた、なかなかの情報量だね」
朱音が息を呑む。
部屋の四方はすべて天井まで届く特注の本棚で埋め尽くされ、収まりきらなかったハードカバーの群れが、床の上で複雑な迷路を形成している。中央にある重厚な机の上には、大型のモニターが三台、今は眠りについたように黒い画面を晒していた。
壁際の一角だけ、本が崩れ落ち、無残に散らばっている場所があった。
そこが、叔父が倒れていた場所だ。
警察の現場検証が終わった後も、そこだけがぽっかりと穴が空いたような不自然な空白を保っていた。
朱音が、不意にスマホを固定したジンバルを掲げた。赤い録画ランプが、不気味に点滅を始める。
「……朱音さん。プライバシーがあるから、カメラは回さないんじゃなかったんですか?」
「違うよ、さっくー。これは資料用。配信には使わないって。君が後で"清書"するときに、見返せるように撮ってあげてるの。……老婆心ってやつ?」
「……老婆?」
「言ったの自分だし! 自虐だし!」
彼女は軽口を叩きながらも、プロの目つきで部屋の隅々を記録していく。棚のタイトル、床の資料、そして机の上の配置。
僕は呆れながらも、彼女の言う"資料"という言葉を、一旦飲み込むことにして、机の周りを探り始めた。
机の上には、薄く埃が積もっている。
叔父が亡くなって一週間。誰も手をつけていないはずの場所。
けれど、その埃の層に、不自然な箇所を見つけた。
モニターの脇、本来なら資料が置かれているはずの場所に、十センチ四方ほどの"四角い空白"があった。そこだけが、まるで今さっきまで何かが置かれていたかのように、埃が薄いのだ。
(ここに……何か、本のようなものが置かれていたのか?)
警察が押収したのだろうか。いや、自然死として処理されたのであれば、現場の私物を持ち帰る必要はないはずだ。
何かが、ここから消えている。
僕はその違和感を胸の奥に仕舞い込み、次に叔父のメインPCの電源を入れた。
ファンの回転音が、静かな部屋に不自然なほど大きく響く。
(……パスワードは、"叔父さんの誕生日の逆数"だっけ)
ログインすると、デスクトップには整然と並んだフォルダが並んでいる。
僕はブラウザの履歴を辿った。そこには、案の定、最近頻繁に検索された形跡のあるワードが並んでいた。
"指切り心中""二十年前 県立高校""欠損 指"――。
そして、デスクトップの片隅に置かれた、一つのテキストファイル。
ファイル名は"untitled_fragment"。
開いてみると、そこには、物語の序盤らしき文章が綴られていた。生きていれば、次回作となったかもしれない、書きかけの原稿だろうか。
「なに、それ。叔父さんの新作?」
いつの間にか背後に忍び寄っていた朱音が、画面を覗き込んでくる。
「……わかりません。でも、あの一万字の原稿とは、明らかに質が違います。とりあえず、僕のスマホにダウンロードしておきます」
僕は震える手でスマートフォンをケーブルに繋ぎ、データを転送した。プログレスバーがゆっくりと進んでいく。一秒が、一時間のように長く感じられた。
「なんで? 今、ここで読んじゃえばいいじゃん」
「駄目ですよ。あんまりのんびりしてられません。僕たち、今、絶賛"不法侵入"中なんですから。親族とはいえ、正式な許可を誰に取ったわけでもない。もし誰かに見つかったら……」
そう僕が口にした、その時だった。
カチャ。
遠く、一階の玄関で、金属が触れ合う音がした。
心臓が跳ね上がる。ケーブルを抜く手が止まった。
ギィ、と古びた扉が開く音が聞こえ、続いて、静かな、けれど確かな重みを持った足音が、廊下の床板を軋ませ始めた。
「――っ!」
朱音が即座にスマホのライトを消し、僕の腕を掴んだ。
暗転した部屋の中で、僕たちの荒い鼓動だけが響く。
足音は迷いなく、この二階の書斎へと近づいてくる。
一歩、また一歩。
誰だ。警察か。それとも、叔父の氏に関係する何者か。
逃げ場はない。この書斎は本に埋め尽くされ、大の大人が隠れられる場所などどこにもなかった。窓は金木犀の枝が邪魔をして、飛び降りることも叶わない。
足音が、部屋のすぐ外で止まった。
ドアノブが、ゆっくりと回される。
僕は、自分の指先が氷のように冷たくなっていくのを感じた。
扉が開く。
逆光の中に、細身の男の影が浮かび上がった。
彼は驚いたように目を見開き、暗闇の中に立ち尽くす僕たちを凝視した。
「……あれ? 朔くん、来てたんだ」
聞き覚えのある、穏やかな声。
逆光が和らぎ、街灯の光に照らし出されたのは、叔父の担当編集者――日下の顔だった。




