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丑三ツ書店の清書係 〜指切り心中〜   作者: 入江 鋭利
第一部「指切り原稿」
3/18

三頁目:闖入者と喧騒の朝


 朝の光は、暴力的なまでの現実感を持って僕の網膜を刺した。


 装幀市駅前、午前十時。


 本来なら古書の静謐(せいひつ)な香りが漂っていてもおかしくないこの街の玄関口は、今、耳を(つんざ)くような騒音の渦に飲み込まれていた。


「――装幀市の未来を! この歴史ある本の街に、新たな風を吹き込むのは私、定本! 定本 征志郎(さだもとせいしろう)でございます!」


 ロータリーの中央に陣取った選挙カーの屋根から、巨大なスピーカーが傲慢な音圧を撒き散らしている。


 白黒のタスキをかけ、これ以上ないほど白い歯を見せて手を振る男の声は、建物の壁に反射し、逃げ場のない街路に反響し続けていた。


 拡声器から放たれる声の塊が、空気を震わせ、僕の鼓膜を物理的に押し込んでくる。

 

 僕は自分の右手の指先を、無意識にさすった。


 昨晩のことが、まるで遠い異国の出来事のように思える。



 ――昨晩、夜の底に沈む"丑三ツ書店"。




 琥珀色の光に満ちた店内で、僕は無名の詩人の"絶筆"を清書した。死者の孤独、喉を焼くような渇き、凍えるような寂寥感。文字をなぞるたびに、他人の人生が自分の血管を逆流してくるような、あの悍ましくも陶酔を誘う感覚。


 書き終えた後、僕はそのまま叔父の一万行の原稿にペンを向けようとした。叔父が死の間際に見ていた景色を、今すぐこの目で見たい。その焦燥に突き動かされた僕の腕を、店主の墨千夜が止めたのだ。


『だめだよ、朔。一晩に二つの人生を飲み込めば、君という器が割れてしまう』


 彼女の指先は驚くほど細く、そして冷たかった。


 仰々しい和服を揺らしながら、彼女は大きな欠伸(あくび)をして、カウンターの奥の布団へ芋虫のように潜り込んだ。


『今の君が、この絶筆をなぞるには、相応の準備が必要だ。明日の朝、駅前に行きなさい。私の使いを寄こすから。その子と協力して、叔父様の足跡を辿るといい』


 そう言い残した彼女の言葉を信じて、僕は今、こうして駅前の噴水広場に立っている。


 けれど、約束の時間を過ぎても、それらしい人物は現れない。


 スピーカーからは、相変わらず定本の熱を帯びた演説が響いている。


「――古いページを破り捨て、新しい表紙をつけよう! 私が当選した暁には、この街の負の遺産をすべて清算するとお約束しましょう!」


 清算。その言葉が、心臓を冷たく撫でた。


 熱狂する群衆を眺めていると、自分が足元から透けて消えていくような錯覚に陥る。僕は、この街の風景の一部にさえなれていない。


 僕は透明だ。

 僕は無貌だ。

 僕は何者でもなく、まっさらで――。



「――あー、もう! マジで最悪! オーディオの波形が真っ赤っかなんだけど!」



 思考を引き裂くように、不意に、背後から突き抜けるような高い声が響いた。


 振り返ると、そこには奇妙な格好の少女が立っていた。

 

 派手なピンクのメッシュが入った、真っ赤なボブヘア。だぼだぼのパーカーの首元には、最新式のジンバルに固定されたスマートフォンがぶら下がっている。彼女は手に持った高性能そうな集音マイクを振り回し、選挙カーを睨みつけていた。


「これじゃ全然喋れないじゃん。住んでるところ特定されるのも嫌だけど、この騒音公害はもっと無理! ねえ、あんたもそう思うでしょ!」


「えっ、ああ、はい。……というか、君は……?」


 突然話を振られ、僕はたじろぐ。彼女は僕を頭の先からつま先までスキャンするように眺めると、ふんと鼻を鳴らした。


「……あー。なるほど、君か。すみちーが言ってた"空っぽな新入り"って。思ったより地味だね。これじゃサムネ映えしないなぁ」


「すみちー?」


「墨千夜。あの引きこもり店主。……ここじゃ話にならない、移動するよ。ついてきて」


 彼女は僕の返事も待たずに、迷いのない足取りで歩き始めた。


 彼女が動くたびに、パーカーについた金属のキーホルダーがカチャカチャと騒がしい音を立てる。僕は、嵐に巻き込まれたような気分で、その後を追うしかなかった。


 彼女が向かったのは、駅前から少し離れた路地の入り口にある、昭和の香りが漂う喫茶店"アンバー"。


 存在は知っていたが、いつも前を通るばかりで、一度も入ったことのない店だった。


 重い扉を押し開け、カランカランと古びた鈴が鳴って選挙演説の喧騒が遠のくと、ようやく鼓膜の痛みが引いた。


 店内には、使い古されたベルベットの椅子と、飴色に焼けた壁紙。そして、微かなコーヒーの香りが漂っている。


 彼女は窓際のボックス席にどっかりと腰を下ろし、慣れた手つきでスマホの録画を停止した。


「アイスコーヒー。ガムシロ三つね。あと、こっちの地味な彼にも適当に何か出して」


 ウェイトレスにそう注文すると、彼女はようやく僕に向き直った。


「で、あんた、名前なんて言うの?」


「白河朔、ですけど……」


「しらかわ、さく。……りょーかい。んじゃ、今日から"さっくー"ね」


「さっくー?」


 なんだそりゃ、と、僕が珍妙なあだ名に戸惑っていると、彼女はパーカーのポケットから、QRコードが大きく印刷された派手なカードを差し出してきた。


「私は奥附 朱音(おくづけあかね)。これでも結構有名な配信者なんだから。心霊スポット凸とか、ネットの都市伝説検証とか、そういうのやってるの」


 奥附。……本の一番最後、発行日や著者が記される"奥付"か。


 店主が墨で、使いが奥付。この書店に関わる人間は、どいつもこいつも本にまつわる名前をしているらしい。


「さっくー、勘違いしないでね。私は別にあの店の店員じゃない。ただ、私の"仕事"とすみちーの"趣味"がたまに一致するから、手伝ってあげてるだけ」


「仕事と、趣味……?」


「そう。あいつは昼間、極度の低血圧……っていうか、なんかエネルギーが切れるらしくて、布団から一歩も出られないんだって。メッセージ送ってもマトモに返ってこないし」


 朱音は運ばれてきたアイスコーヒーに、迷いなくガムシロップを三つ叩き込んだ。


 グラスの中でミルクとコーヒーが混ざり合う様子を、彼女はじっと見つめている。


「だから、外で動く必要がある調査は、私が請け負ってるわけ。あいつも"絶筆"そのものを愛でるけど、私はその"背景"にあるドロドロしたドラマが好きなの。視聴者もそういうの食いつくし」


「……あの、墨千夜さんから、叔父の調査を手伝ってくれると聞いたんですが」


「そう。今回のターゲットは、白河執しらかわ・とおるの絶筆。一万字の『指が足りない』……。ねえ、ゾクゾクするよね。それ、絶対に何かヤバいことのメタファーじゃん」


「ネタ、じゃないんです。僕は……」


「分かってるって。だからこうして、仕事(はいしん)の合間に付き合ってあげてんの。……さっくー。いい? "絶筆"ってのはね、ただの文字じゃない。それが書かれた"現場"の空気、そこにあった"物"、そういう外側の情報が揃って初めて、清書の精度が上がるんだよ。あいつの解説、聞いてたでしょ?」


 朱音はストローをカチャカチャと鳴らしながら、真剣な目で僕を見た。


「さっくー。あんた、叔父さんの部屋に案内しなさい。あそこには、まだ文字になっていない"声"が残ってるはずだから」


「叔父さんの、家に……?」


「そう。警察の鑑識は見逃したかも知れんけど、私みたいなカリスマ配信者の目なら見つけられる違和感が絶対にある。……あ、撮影はしないよ。すみちーに『プライベートは守れ』って釘刺されてるし。私のカメラはね、嘘を暴くためのものだから」


 彼女は(おど)けるように肩を竦めてみせたが、その瞳の奥には、好奇心だけではない、鋭い洞察の光が宿っていた。

 

 僕は、目の前のアイスコーヒーを一口含んだ。


 苦い。けれど、昨晩から続いていた非現実的な浮遊感が、その苦みと朱音の図太いバイタリティによって、少しだけ地面に繋ぎ止められたような気がした。


「……分かりました。案内します。ただ、本当に何もないですよ。警察も、担当編集さんも、何度も入っている場所ですから」


「ふふん。素人(と編集者の目は節穴って相場が決まってるっしょ。さ、行くよ! さっくー!」


 彼女は伝票をひったくると、僕の手を引いて店を飛び出した。


 駅前では、相変わらず定本とやらの熱を帯びた演説が響いている。


「――信じてください! 私の手で、この街の過去をすべて、清算してみせます!」


 その声を背中で聞きながら、僕は朱音と共に、叔父が最期を遂げたあの場所へと向かったのだった。


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