十九頁目:脱兎の如く
視界が、火花を散らす。
背中を叩いた衝撃は、僕の脊髄を痺れさせ、肺胞を無理やり押し潰した。冷たい土の匂いと、自分の吐息が混じり合う。
朱音を庇うように立ちはだかったはいいが、体が微かに震えているのが、自分自身でもわかった。
周囲を取り囲む、麻袋を被った、謎の男たち。
彼らが手にしているのは、どれも農具や廃材を利用した殺傷能力のある凶器だ。袋の穴から覗く瞳には、慈悲もなければ、激しい憎悪さえない。そこにあるのは、何かの手続きを淡々とこなそうとする、機械的な義務感だけだった。
「……さっくー」
朱音が、僕の耳元で掠れた声を出す。
極限状態だというのに、彼女の瞳は死んでいなかった。むしろ、レンズを向けている時よりも鋭く、獰猛な光を宿している。
「……一瞬でいいから、こいつらの気を引ける?」
「……え?」
僕は痛みに顔を歪めながら、彼女を見た。
「何か、策があるんですか?」
「いいから、とにかく。ほんの一瞬、奴らの意識をそこから逸らして」
無茶だ。この状況で、非力な僕が、武器を持った集団の注意を引くなんて。
けれど、朱音の目は本気だった。
僕は必死に思考を巡らせる。こいつらが今、最も固執しているものは何か。僕の命か、それとも――。
僕は、脇に抱えていた"記帳本"に指をかけた。
神隠しのきっかけ、そして、落合香奈に繋がる、唯一の手がかり。
とはいえ、このタイミングの襲撃だ。もし、彼らが何か"神隠し"と関係があるとすれば――。
「……これで、どうだ!」
僕は渾身の力を振り絞り、記帳本を展望台の反対側、微かな照明も届かない、暗い茂みの方角へ向かって放り投げた。
ボロボロの和紙が、夜風に煽られてパタパタと音を立てる。
「っ、ああっ!?」
袋の男たちの視線が、一斉に放物線を描くノートへと吸い寄せられた。
その、わずか一秒に満たない隙。
「――っ、ナイスっ!!」
朱音が、地面を蹴った。
それは、暴力的なまでに美しい動きだった。
朱音の身体は、物理法則を無視したような加速で、最も近くにいた鎌を持つ男の懐へと滑り込んだ。
ドンッ!!
鈍い音が響く。彼女の鋭い掌底が男のアゴを跳ね上げ、男の意識を瞬時に刈り取った。男の手から鎌が零れ落ちるよりも早く、彼女はその腕を掴み、自身の旋回の勢いを利用して、背後にいた二人目の男へとその巨体を叩きつけた。
「う、おおっ!?」
二人目の男が体勢を崩した瞬間、朱音の脚が、鞭のようにしなって空間を裂いた。
鋭いハイキック。
重厚な厚底スニーカーが男の側頭部を捉え、男はまるで糸の切れた人形のようにベンチの上へと崩れ落ちる。
「て、てめぇ……っ!」
角材を振り上げたリーダー格と思われる男が、吠えながら朱音に襲いかかる。
だが、朱音は止まらない。
彼女は自分よりも一回り大きな男の攻撃を、紙一重の回避でいなすと、男の懐へ潜り込み、その肘を強引に押し上げた。
「――そこ、邪魔!」
ミドルキック。そして、流れるような膝蹴り。
急所を的確に突かれた男が、胃の中のものをぶちまけながら跪く。
朱音は着地の衝撃を前転で殺し、そのまま僕の腕を乱暴に掴み上げた。
「さっくー、走るよ! 今のうち!」
「っ、うあ、はい……っ!」
僕は背中の激痛をアドレナリンでねじ伏せ、彼女に手を引かれるまま、暗い下り道へと足を踏み出した。
背後からは、袋の男たちの唸り声と、草木を掻き分ける不穏な音が聞こえてくる。
展望台の絶景はもはや、僕たちの退路を断つための障壁でしかなかった。
「……っ、くぅ! やっぱり、さっきの衝撃で配信止まってんじゃん! 最悪! 同接が、私の同接がぁ……!」
走りながら、朱音は地面から拾い上げたスマートフォンを操作し、憤慨したように叫んだ。画面はバキバキに割れていたが、電源だけは辛うじて入っているようだ。
「……あ、朱音さん。配信の心配をしてる場合じゃありませんよ。それより、今の……」
「わかってる! リスナーが心配して通報したり、逆に面白がって野次馬に来られたりしたら面倒だもんね! とにかく早く、安定した場所で配信枠を取り直さないと……!」
「そっちの心配ですか!? ……というか、前も思いましたけど、朱音さん、めちゃくちゃ強いですよね。あの人数を、一瞬で……」
息を乱しながら問いかける僕に、朱音は前を見据えたまま、ニヤリと不敵に笑った。
「そりゃあ、あかねチャンネルは命がけだもん! 危険な場所に凸するには、これくらいの護身術はたしなみだよ! まあ、流石に正面からじゃなくて不意打ちじゃないと、あんなゴツい奴らは崩せないけどね……」
彼女の言葉通り、背後からは再び怒号が響き渡る。
どうやら、倒された連中が既に立ち上がり、追い始めてきているようだ。
「……あんまり、余裕は無さそうです。山道の追いかけっこは、荷物を抱えている上に、非力な僕がいる分、分が悪い。このままじゃ、追いつかれます」
僕は、急速に色を失っていく周囲の森を見渡した。
木々の影が伸び、道は複雑に枝分かれしている。ここで闇に飲まれれば、今度は僕らが"神隠し"に遭うのかもしれない。
「なら、どうするの、さっくー? このまま駅まで走る? 流石に体力が持たないよ!」
朱音の言う通りだ。バスでここまで来たのだから、その距離を考えれば、走っていくのは無謀とも言えるだろう。
僕は震える指で、右手の指先を噛んだ。
思考を研ぎ澄ませる。物語を終わらせるための、最善の一行はどれだ。
「……一度、村に戻りましょう」
「えっ!? あんなとこに!? だって、交番もないし、たぶん、タクシーも来ないよ、あの村!」
「別に、警察を頼りにしているわけじゃないですし、タクシーを呼ぶつもりもないですよ」
いや、来てくれるのならそれに越したことはないだろうが、通報してしまえば、僕らの調査だってやりづらくなってしまう。
それに、よしんばタクシーを呼べたとしても、手配するのに時間がかかるだろうし、いくらかかるかわかったものではない。
どうあれ、墨千代の指示を仰いでからの方がいいだろう。
だから、僕の狙いはそこにはない。
「……あっちには街灯があります。少なくとも、不意打ちは避けられる。それに、民家がある場所で大っぴらに殺し合いはできないはずだ。……それに、まだ最終バスの時間に間に合うかもしれません。この村を離れる手段は、それしかない」
「……わかった。さっくーを信じるよ! その代わり、途中でへばったら置いていくからね!」
「善処します……!」
僕たちは、山を駆け下りる。
暗い森の奥から、無数の袋を被った瞳がこちらを覗いているような錯覚に襲われる。
記帳本は投げ捨てた。けれど、叔父の絶筆をなぞった僕の指先には、まだあの塗り潰された絶筆の重みが、呪いのようにこびりついていた。
霧の立ち込める村の明かりが、樹々の隙間から小さく、けれど異様なほど冷ややかに見え始めていた。




