二頁目:なぞり書きの深淵
「……絶筆、だけを扱う店」
僕は、彼女の言葉を反芻した。
墨千夜と名乗ったその少女は、琥珀色の瞳を細め、僕の戸惑いを楽しむように見つめている。
店内を包む墨の匂いは、単なる文房具のそれではない。どこか古びた血のような、あるいは湿った土のような、生命が腐敗して別の何かに作り替えられる途中のような、そんな生々しい芳香がした。
「そうさ。人が死の直前に遺す言葉には、その人生のすべてが凝縮される。嘘、虚栄、あるいは底知れない愛と憎しみ。……それらがインクに混じって、紙という墓標に刻まれる。私は、それを集めているのさ」
墨千夜は、和服の袖を揺らしながら、僕の鞄に視線を向けた。
「君が抱えているそれも……誰かの偉大な物語の、終止符なのだろう?」
僕は喉を鳴らし、ゆっくりと鞄から叔父の手記――あの狂気的な一万字の写しを取り出した。
カウンターの上に置かれた紙が、店の琥珀色の灯りに照らされ、ひどく不気味な陰影を落とす。
「叔父が亡くなったのは、一週間前でした。打ち合わせのために自宅を訪れた担当編集の日下さんが、最初に見つけたんです。警察は過労による心不全だと断定しましたが……どうしても、納得できなくて」
「ほう。なぜだい?」
「叔父は、完全なデジタル派だったんです。原稿のやり取りはもちろん、プロットのメモから日記に至るまで、すべてをパソコンやスマホで完結させる人でした。……なのに、これだけは、手書きなんです。まるで、それしか手段がなかったかのように」
墨千夜は身を乗り出し、その一万行のテキストを、ご馳走を前にした子供のような瞳で見つめた。
細く白い指先が、紙の表面をそっとなぞる。
「『あの子の指が、足りない』……。ふむ、筆跡はひどく明瞭だ。狂乱して書いたというよりは、冷徹なまでの意志を感じるね。文字の大きさ、間隔、インクの濃淡……すべてが均一だ。だが、均一すぎて、不自然だ。一万回も同じことを書けば、普通は疲労で線が乱れるものだが……」
「……乱れていないんですか?」
「ああ。むしろ、書けば書くほど、筆圧が強くなっているようにさえ見える。これは"叫び"ではない。何かの"重し"だ。真実が逃げ出さないように、言葉の杭で紙を埋め尽くしているような……」
墨千夜の独特な表現に、僕は背筋が寒くなるのを感じた。
彼女が指摘した通り、叔父の文字はどこか、文字以上の役割を担っているように見えた。
ふと、墨千夜の視線が、僕の鞄の中に残っているもう一束の原稿――僕自身の自作原稿に移った。
「おや。そこにあるのは……?」
「ああ、これは……僕の、自作です。新人賞に応募しようと思って書いていたもので。絶筆でも何でもない、ただの失敗作ですよ」
僕は慌てて隠そうとしたが、墨千代の動きの方が早かった。
彼女はひょい、と僕の原稿を抜き取ると、興味深げにページを捲り始めた。
心臓が嫌な音を立てる。プロの編集者に"顔がない"と一蹴されたばかりの原稿だ。それを、この底知れない少女に見られるのは、裸を晒すよりも恥ずかしい。
「……なるほど。美しいね」
けれど、彼女が口にしたのは、予想外の感想だった。
「え?」
「文字が、あまりに整っている。筆運びには迷いがなく、一画一画が完璧な調和を保っているよ。まるで、冷えたガラスの彫刻のようだ」
彼女は原稿を閉じ、僕を真っ直ぐに見据えた。
「けれど、何も入っていない。……驚くほどに"空"だ。君、自分の文字を、空っぽだと言われたことはないかい?」
「……つい、何時間か前に、出版社で言われたばかりです」
「だろうね。でも、それは悪いことばかりじゃない」
墨千夜は笑みを深め、カウンターの奥から一冊の古びたノートを取り出した。それは皮表紙で綴じられ、角が擦り切れて、所々に黒いシミがついている不気味な手帳だった。
「人が末期に遺す文には、必ず何かが残る。表現、言い回し、あるいは筆跡そのものに、死者の"重み"がね。……けれど、あまりに重すぎて、普通の人間には解読できない場合がある。文字の震えに感情が溶け込み、判読不能なノイズとなってしまうんだ」
彼女はそのノートを開き、僕の前に突き出した
。
そこには、震えるような、殴り書きのような、あるいは呪詛のような文字が並んでいた。一部はインクが何重にも重ねられ、真っ黒な塊と化している。
「どれ、試しにやってみるかい。朔」
「何を、ですか?」
「"清書"だよ。君のその、透明で空っぽな文字で、この濁りきった絶筆を、ありのままに書き写してごらん」
「そんなこと……」
「できないことはない。君にはその才能があるよ」
千夜は、一本の古い万年筆を僕に手渡した。
冷たい。金属の質感というよりは、氷を握らされたような感触だった。
僕は言われるがままに、カウンターに用意された上質な和紙に向き合った。
目の前のノートを見つめる。書かれている内容は……ポエム、だろうか? 散文詩のようなものが、いくつも、いくつも書き連ねられている。
わけもわからぬまま、僕はペンを走らせた。
最初の一画を書いた瞬間、僕の指先に電流のような痺れが走った。
「――っ」
思わず筆を止めそうになるが、墨千夜の琥珀色の瞳が僕を離さない。
僕は呼吸を整え、ノートの文字を忠実に、一画一画、なぞるように書き写し始めた。
清書。それは単なる複製ではない。
他人の筆跡に、自分の身体を預ける行為だ。
二行目、三行目。
清書が進むにつれ、周囲の雑音が遠のいていった。深夜の書店の墨の匂いが消え、代わりに、ひどく冷え切った、埃っぽい部屋の匂いが漂い始める。
おかしい。
なぜだろう。この文字の"震え"が、自分の指の震えのように感じられる。
「……どうして、こんなに文字が震えているんだろう」
僕は、無意識に独り言を漏らしていた。
なぞる指先が重い。まるで、粘度の高い泥の中をペンで進んでいるようだ。
インクが紙に吸い込まれる速度が、心臓の鼓動と重なっていく。
「……ここのシミは……涙?」
ある一文字の横で、インクが円形に滲んでいる。
そこをなぞった瞬間、視界が急激に歪んだ。猛烈な寂寥感が、僕の胸を締め上げる。
喉が、枯れ果てたような渇きを覚え、肺の奥がひりひりと痛む。
「……寒い。ひどく、寒い」
僕は歯の根が合わないほど震えながら、それでもペンを止めなかった。
紙の表面に残された"黒い跡"。それはインクのシミではなく、何度も、何度も、消えては書き直された後悔の積層だった。
「――彼は、独りだった。誰にも看取られず、この一文を届ける相手さえ、いなかったんだ」
最後の一行を書き終えたとき、僕は大きく息を吐き出し、膝から崩れ落ちそうになった。
身体を支配していた寒気が、潮が引くように去っていく。
目の前には、僕の文字で、整然と並んだ文章があった。
元のノートでは解読不能だった"叫び"が、僕の透明なフィルターを通すことで、ようやく一つの"物語"として立ち上がっていた。
「……素晴らしい清書だね、朔」
墨千夜が、満足げに目を細めた。
「墨千代さん、でしたっけ。これ、何なんですか……?」
「なあに、ただの遺書さ。いや、遺作、と言う方が正しいかな」
「……遺作!? だ、誰の……!」
「誰でもないさ、誰にもなれずに、貧困の中で死んでしまった、ひと山いくらの詩家だったかね」
こともなげに、墨千代は口にする。
"絶筆"。それのみを扱うと、彼女は言っていた。つまりこれが、その――。
「――ともあれ、だ。君は今、彼の死を追体験した。文字をなぞることは、その魂の最後の数時間をなぞることと同じだ」
僕は、自分の右手の指先を見つめた。
指先が、わずかに黒ずんでいる。インクの汚れではない。まるで、皮膚の内側から文字が浮き出てくるような、不思議な変色だった。
「叔父様、とやらがどうして死んだのか。君はまだ、納得できていないんじゃないのかい?」
墨千夜の言葉が、僕の最も深い場所を刺した。
一万字の『指が、足りない』。
あの不気味な、けれど均一な文字列。
もし、あれを今と同じように、一画一画、叔父の呼吸に合わせて"清書"したとしたら。
叔父が死ぬ間際に見ていた景色を、僕も見ることができるのだろうか。
叔父が最期に何を思ったのか、その真実に、触れることができるのだろうか。
「……できる、かもしれない」
僕は、震える声で呟いた。
自分の没個性という空っぽな容れ物が、初めて"意味"を持ったような気がした。
それは、叔父という太陽の影ではなく、僕自身の意志で、この物語の続きを書き始めるための、唯一の鍵になるはずだった。
「ふふ、いい顔になったね、朔」
墨千夜はクスクスと笑い、僕の自作原稿をパタンと閉じて返してくれた。
「どうだい、悪くないだろう。死者の、最期の言葉に耳を傾けるっていうのも、さ」
丑三ツ書店の琥珀色の光の中で、僕は再び、叔父の一万行のテキストに向き合った。
指先はまだ、少しだけ冷たいままだった。




