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丑三ツ書店の清書係 〜指切り心中〜   作者: 入江 鋭利
第一部「指切り原稿」
2/18

二頁目:なぞり書きの深淵


「……絶筆、だけを扱う店」


 僕は、彼女の言葉を反芻した。


 墨千夜と名乗ったその少女は、琥珀色の瞳を細め、僕の戸惑いを楽しむように見つめている。


 店内を包む墨の匂いは、単なる文房具のそれではない。どこか古びた血のような、あるいは湿った土のような、生命が腐敗して別の何かに作り替えられる途中のような、そんな生々しい芳香がした。


「そうさ。人が死の直前に遺す言葉には、その人生のすべてが凝縮される。嘘、虚栄、あるいは底知れない愛と憎しみ。……それらがインクに混じって、紙という墓標に刻まれる。私は、それを集めているのさ」


 墨千夜は、和服の袖を揺らしながら、僕の鞄に視線を向けた。


「君が抱えているそれも……誰かの偉大な物語の、終止符なのだろう?」


 僕は喉を鳴らし、ゆっくりと鞄から叔父の手記――あの狂気的な一万字の写しを取り出した。


 カウンターの上に置かれた紙が、店の琥珀色の灯りに照らされ、ひどく不気味な陰影を落とす。


「叔父が亡くなったのは、一週間前でした。打ち合わせのために自宅を訪れた担当編集の日下さんが、最初に見つけたんです。警察は過労による心不全だと断定しましたが……どうしても、納得できなくて」


「ほう。なぜだい?」


「叔父は、完全なデジタル派だったんです。原稿のやり取りはもちろん、プロットのメモから日記に至るまで、すべてをパソコンやスマホで完結させる人でした。……なのに、これだけは、手書きなんです。まるで、それしか手段がなかったかのように」


 墨千夜は身を乗り出し、その一万行のテキストを、ご馳走を前にした子供のような瞳で見つめた。


 細く白い指先が、紙の表面をそっとなぞる。


「『あの子の指が、足りない』……。ふむ、筆跡はひどく明瞭だ。狂乱して書いたというよりは、冷徹なまでの意志を感じるね。文字の大きさ、間隔、インクの濃淡……すべてが均一だ。だが、均一すぎて、不自然だ。一万回も同じことを書けば、普通は疲労で線が乱れるものだが……」


「……乱れていないんですか?」


「ああ。むしろ、書けば書くほど、筆圧が強くなっているようにさえ見える。これは"叫び"ではない。何かの"重し"だ。真実が逃げ出さないように、言葉の杭で紙を埋め尽くしているような……」


 墨千夜の独特な表現に、僕は背筋が寒くなるのを感じた。


 彼女が指摘した通り、叔父の文字はどこか、文字以上の役割を担っているように見えた。


 ふと、墨千夜の視線が、僕の鞄の中に残っているもう一束の原稿――僕自身の自作原稿に移った。


「おや。そこにあるのは……?」


「ああ、これは……僕の、自作です。新人賞に応募しようと思って書いていたもので。絶筆でも何でもない、ただの失敗作ですよ」


 僕は慌てて隠そうとしたが、墨千代の動きの方が早かった。


 彼女はひょい、と僕の原稿を抜き取ると、興味深げにページを捲り始めた。


 心臓が嫌な音を立てる。プロの編集者に"顔がない"と一蹴されたばかりの原稿だ。それを、この底知れない少女に見られるのは、裸を晒すよりも恥ずかしい。



「……なるほど。美しいね」



 けれど、彼女が口にしたのは、予想外の感想だった。


「え?」


「文字が、あまりに整っている。筆運びには迷いがなく、一画一画が完璧な調和を保っているよ。まるで、冷えたガラスの彫刻のようだ」


 彼女は原稿を閉じ、僕を真っ直ぐに見据えた。


「けれど、何も入っていない。……驚くほどに"空"だ。君、自分の文字を、空っぽだと言われたことはないかい?」


「……つい、何時間か前に、出版社で言われたばかりです」


「だろうね。でも、それは悪いことばかりじゃない」


 墨千夜は笑みを深め、カウンターの奥から一冊の古びたノートを取り出した。それは皮表紙で綴じられ、角が擦り切れて、所々に黒いシミがついている不気味な手帳だった。


「人が末期に遺す文には、必ず何かが残る。表現、言い回し、あるいは筆跡そのものに、死者の"重み"がね。……けれど、あまりに重すぎて、普通の人間には解読できない場合がある。文字の震えに感情が溶け込み、判読不能なノイズとなってしまうんだ」


 彼女はそのノートを開き、僕の前に突き出した

 そこには、震えるような、殴り書きのような、あるいは呪詛のような文字が並んでいた。一部はインクが何重にも重ねられ、真っ黒な塊と化している。


「どれ、試しにやってみるかい。朔」


「何を、ですか?」


「"清書"だよ。君のその、透明で空っぽな文字で、この濁りきった絶筆を、ありのままに書き写してごらん」


「そんなこと……」


「できないことはない。君にはその才能があるよ」


 千夜は、一本の古い万年筆を僕に手渡した。


 冷たい。金属の質感というよりは、氷を握らされたような感触だった。

 

 僕は言われるがままに、カウンターに用意された上質な和紙に向き合った。


 目の前のノートを見つめる。書かれている内容は……ポエム、だろうか? 散文詩のようなものが、いくつも、いくつも書き連ねられている。


 わけもわからぬまま、僕はペンを走らせた。


 最初の一画を書いた瞬間、僕の指先に電流のような痺れが走った。


「――っ」


 思わず筆を止めそうになるが、墨千夜の琥珀色の瞳が僕を離さない。


 僕は呼吸を整え、ノートの文字を忠実に、一画一画、なぞるように書き写し始めた。


 清書。それは単なる複製ではない。

 他人の筆跡に、自分の身体を預ける行為だ。


 二行目、三行目。


 清書が進むにつれ、周囲の雑音が遠のいていった。深夜の書店の墨の匂いが消え、代わりに、ひどく冷え切った、埃っぽい部屋の匂いが漂い始める。


 おかしい。


 なぜだろう。この文字の"震え"が、自分の指の震えのように感じられる。

 

「……どうして、こんなに文字が震えているんだろう」


 僕は、無意識に独り言を漏らしていた。


 なぞる指先が重い。まるで、粘度の高い泥の中をペンで進んでいるようだ。


 インクが紙に吸い込まれる速度が、心臓の鼓動と重なっていく。


「……ここのシミは……涙?」


 ある一文字の横で、インクが円形に滲んでいる。


 そこをなぞった瞬間、視界が急激に歪んだ。猛烈な寂寥感が、僕の胸を締め上げる。


 喉が、枯れ果てたような渇きを覚え、肺の奥がひりひりと痛む。

 

「……寒い。ひどく、寒い」


 僕は歯の根が合わないほど震えながら、それでもペンを止めなかった。


 紙の表面に残された"黒い跡"。それはインクのシミではなく、何度も、何度も、消えては書き直された後悔の積層だった。

 

「――彼は、独りだった。誰にも看取られず、この一文を届ける相手さえ、いなかったんだ」


 最後の一行を書き終えたとき、僕は大きく息を吐き出し、膝から崩れ落ちそうになった。


 身体を支配していた寒気が、潮が引くように去っていく。

 

 目の前には、僕の文字で、整然と並んだ文章があった。


 元のノートでは解読不能だった"叫び"が、僕の透明なフィルターを通すことで、ようやく一つの"物語"として立ち上がっていた。


「……素晴らしい清書だね、朔」


 墨千夜が、満足げに目を細めた。


「墨千代さん、でしたっけ。これ、何なんですか……?」


「なあに、ただの遺書さ。いや、遺作、と言う方が正しいかな」


「……遺作!? だ、誰の……!」


「誰でもないさ、誰にもなれずに、貧困の中で死んでしまった、ひと山いくらの詩家だったかね」


 こともなげに、墨千代は口にする。


 "絶筆"。それのみを扱うと、彼女は言っていた。つまりこれが、その――。


「――ともあれ、だ。君は今、彼の死を追体験した。文字をなぞることは、その魂の最後の数時間をなぞることと同じだ」


 僕は、自分の右手の指先を見つめた。


 指先が、わずかに黒ずんでいる。インクの汚れではない。まるで、皮膚の内側から文字が浮き出てくるような、不思議な変色だった。


「叔父様、とやらがどうして死んだのか。君はまだ、納得できていないんじゃないのかい?」


 墨千夜の言葉が、僕の最も深い場所を刺した。

 

 一万字の『指が、足りない』。

 あの不気味な、けれど均一な文字列。


 もし、あれを今と同じように、一画一画、叔父の呼吸に合わせて"清書"したとしたら。

 

 叔父が死ぬ間際に見ていた景色を、僕も見ることができるのだろうか。


 叔父が最期に何を思ったのか、その真実に、触れることができるのだろうか。


「……できる、かもしれない」


 僕は、震える声で呟いた。


 自分の没個性という空っぽな容れ物が、初めて"意味"を持ったような気がした。


 それは、叔父という太陽の影ではなく、僕自身の意志で、この物語の続きを書き始めるための、唯一の鍵になるはずだった。


「ふふ、いい顔になったね、朔」


 墨千夜はクスクスと笑い、僕の自作原稿をパタンと閉じて返してくれた。


「どうだい、悪くないだろう。死者の、最期の言葉に耳を傾けるっていうのも、さ」


 丑三ツ書店の琥珀色の光の中で、僕は再び、叔父の一万行のテキストに向き合った。

 

 指先はまだ、少しだけ冷たいままだった。


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