十七頁目:重痕と帰還
稿坂の家を追い出された僕たちに、ためらっている時間はなかった。
背後で乱暴に閉められた引き戸の音は、この村そのものが僕たちを拒絶した合図のように聞こえた。長閑に見えていた村の景色は、夕暮れの陽光を浴びて、熟しすぎた果実のような、どこか不気味な色彩を帯び始めている。
「……行きましょう、朱音さん。稿坂さんのあの有様じゃ、ゆっくり聞き込みなんてさせてくれそうにない」
「言われなくても! あー、もう、あのおっさん何なの!? 写真見せただけであんなキレるなんて、絶対に真っ黒じゃん!」
朱音は鼻息荒くカメラバッグを担ぎ直すと、村の北側に位置する"みはらし峠"の登山道へと迷わず足を向けた。
みはらし峠は、登山というよりは大規模なハイキングコースといった趣の道だった。標高はそれほど高くなく、道も比較的整備されている。村の人間が日常的に手入れをしているのか、歩きにくい場所には丸太の階段が組まれ、所々に"頂上まであと◯◯分"といった案内板も立っていた。
だが、整備されているとはいえ、登り坂であることに変わりはない。
普段、大学の講義と書店でのバイト以外は部屋に引きこもって本を読んでいるインドア派の僕にとって、この傾斜は拷問に等しかった。
「ほらほら、さっくー! 早くしなよ、置いてくよ! 日が落ちたら撮影できなくなっちゃうんだから!」
前方を軽快な足取りで登っていく朱音が、振り返って僕を急かす。彼女は重い機材を背負っているはずなのに、息一つ乱れていない。
「……っ、そんなに、急がなくても……絶筆は、逃げませんよ……」
「逃げなくても消されるかもしれないでしょ! あの稿坂って人、私たちが山に行くのを察してたみたいだし。先回りされて隠されたらおしまいだよ!」
僕は膝に手をつき、肺を焼くような空気を吸い込んだ。
とはいえ、朱音の言う通りだ。稿坂のあの激昂は、隠し事がある者の防衛本能そのものだった。
必死に足を動かし、朱音の背中を追う。
道端には、村の入り口で見かけたのと同じ、首の折れた野仏が並んでいる。誰かが供えたのか、色褪せた赤い前掛けが風に揺れ、その下で土に還りかけた石の肌が、薄暗い森の影に沈んでいた。
その時だった。
「……っ」
前を歩いていた朱音が、不意に足を止め、勢いよく背後を振り返った。
僕はぶつかりそうになりながら、慌てて足を止める。
「ど、どうしたんですか、朱音さん。急に止まらないでください……」
「……誰か、いた」
「え?」
朱音は険しい表情で、僕たちが登ってきたばかりの道を凝視している。
僕も釣られて視線を下げたが、そこには風に揺れるシダの葉と、静まり返った杉の木立があるだけだった。
「誰もいませんよ。鳥か、リスでもいたんじゃないですか?」
「違う……。もっとこう、視線っていうか。誰かがじっと、私たちの背中を舐めるみたいに見てた気がしたの。……気のせい、なのかな」
彼女はもう一度、念入りに周囲を確認してから、首を傾げた。
見返村。振り返った者は二度と戻れないという禁忌。
今の朱音の動作は、図らずもその禁忌をなぞってしまったようにも見えて、僕は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「……先を急ぎましょう。ここ、あんまりいい空気じゃない」
「……そうだね。行こう」
そこからの足取りは、さらに速まった。
やがて、鬱蒼とした木々が途切れ、視界が唐突に開けた。
峠の頂上にある展望台は、まさに絶景という名に相応しい場所だった。
眼下には見返村の家々が箱庭のように広がり、その向こうには幾重にも重なる山々の稜線が、夕焼けの残光を受けて燃えるような朱色に染まっている。
「うわあああ! すごっ! これ、マジで絶景じゃん! さっくー見てよ、ここだけ世界から浮いてるみたい!」
朱音はさっきまでの警戒心をどこかへ放り出したように、大はしゃぎでカメラを取り出した。
「これなら完璧に映える! はいはーい、みんなお待たせ! あかねチャンネル、ついに伝説の展望台に到着したよー! この景色、見て! やばくない!?」
ジンバルを構え、慣れた手つきでライブ配信を開始する朱音。彼女が視聴者とのコミュニケーションに夢中になっている隙に、僕は本来の目的を果たすべく、展望台の一角へと向かった。
木製の展望デッキの隅。雨風を防ぐための小さな屋根の下に、それはあった。
簡素な木製の机。その上に、一冊のノートが置かれている。
表紙は日焼けしてボロボロになり、角が丸く擦り切れている。
『見返村・みはらし峠 来訪記念記帳本』
マジックペンで書かれたその文字は、多くの人の手に触れたせいで掠れ、半分ほど消えかかっていた。
「……これか」
僕は自分の指先が微かに震えるのを自覚しながら、ノートを手に取った。
叔父の絶筆、あの『指が、足りない』という一万字をなぞった時の、あの嫌な予感が再び身体を支配する。
僕はページをめくった。
最初のうちは、『家族で来ました。最高!』『空気が綺麗』といった、ありふれた観光客の言葉が並んでいた。
だが、読み進めるうちに、明らかに異質なページが混じり始める。
「……っ、これは」
落合香奈が訪れたと思われる、一週間前の日付。
そこには、文字と呼べるものは存在しなかった。
ただ、黒いボールペンのインクが、何度も、何度も、紙が破れるほどの筆圧で重ねられ、巨大な影のような"塊"を形成していた。
何かを書こうとしたのではない。何かを消そうとしたのか、あるいは、言葉にできない衝動をそのまま叩きつけたのか。
いくつもの文字が重なり合い、判読不可能な殴り書きの層となっている。
清書係としての僕の目が、その暗黒の中に必死に意味を見出そうとするが、無駄だった。
ここには"意志"がある。けれど、それは僕が知っている"言葉"の論理を完全に逸脱していた。
(……読み取れない。これじゃ、清書のしようがない……)
僕は頭を抱え、ノートを机に戻した。
落合香奈は、ここで何を願ったのか。何を代償に、何を変えようとしたのか。
この黒い塗り潰しこそが、彼女の末期の言葉――絶筆だというのか。
現状を墨千夜さんに報告しようと、僕はポケットからスマホを取り出した。
しかし、彼女が電話に出ることはなかった。
(ダメか……。それに今、電話したところで、墨千夜さんはまだ“餅巾着”の時間だろうし、仕方ないか)
僕は重い溜息を吐き、デッキの中央でリスナーに熱弁を振るっている朱音の下へと戻った。
「……朱音さん。記帳本は見つけました。でも、状況は最悪です」
「え? どういうこと? 内容がヤバかったの?」
朱音はカメラを一時的に固定し、僕の方を振り向いた。
彼女の手には、リスナーからのコメントが滝のように流れるサブ端末が握られている。
「判読不能なんです。真っ黒に塗り潰されていて、清書の糸口すら見えません。……落合さんが、あんな状態で何かを書いたとは……」
僕の説明を聞き、朱音は神妙な顔をして顎を引いた。
だが、彼女の瞳には先ほどとは違う、鋭い知的好奇心の光が宿っていた。
「……さっくー。記帳本の中身も気になるけど、それより先に聞いて。今、うちのリスナーから追加情報が入ったの」
「追加情報?」
「うん。私のリスナーの中に、地元がこの近くっていう子がいてさ。例の"神隠し"について、当時のニュースとかを洗ってくれたみたいなんだけど……」
朱音はサブ端末の画面を僕に向けた。
そこには、過去に見返村周辺で行方不明になった人々のリストが並んでいた。
「……変なの。神隠しって言えば、普通は行方不明のまま見つからないのが定番でしょ? でも、この村の記録は違うの」
朱音の声が、夕闇が迫る山頂に冷たく響く。
「この村で神隠しに遭ったと言われている人たち……」
彼女は一息置き、信じられない事実を口にした。
「――全員、帰ってきているらしいの」
風が吹き抜け、展望台の記帳本がパタパタと音を立ててめくれた。
黒く塗り潰されたページが、嘲笑うように一度だけこちらを向いた。




