十六頁目:拒絶と確信
稿坂の家は、村の中心部にほど近い場所にあった。
急峻な斜面に張り付くように建てられた他の民家とは異なり、その敷地は驚くほど平坦で広い。どっしりとした瓦屋根を戴く平屋の日本家屋は、長い年月を経て黒ずんだ木材が、周囲の霧に溶け込むような落ち着きを放っていた。
家へと続く緩やかな坂を登っている間、僕たちはこの村の日常を目の当たりにすることになった。
「あ、稿坂さあん! ちょうどいいところに。昨日うちで煮物が余っちゃってねえ、少し食べるかい?」
生垣越しに声をかけてきたのは、腰の曲がった老婆だった。彼女の隣には、二十代半ばとおぼしき若い男が立っており、慣れた手つきで重そうな農機具を運んでいる。
「おう、ありがとな。んじゃあ、あとでもらいに行くわ!」
稿坂が気さくに応じる。そのやり取りは、都会では絶滅しかけている古き良き隣人愛そのものだった。
「おや、なんだい、見ない顔だねえ。稿坂さんとこの親戚かい?」
老婆が僕たちに目を留め、皺の寄った顔に柔和な笑みを浮かべた。
「いえ、道に迷っていたところを助けていただいたんです」
「そうかい、そうかい。この村は道がややこしいからねえ。ゆっくりしていきなさいよ」
村民たちの表情は一様に穏やかだった。すれ違う人々は皆、僕たちに会釈を送り、中には「お茶菓子、持っていくかい?」と声をかけてくれる者までいた。
「……なんか、拍子抜けだね。もっとこう、『よそ者は帰れ!』って鎌を突きつけられる展開を期待してたんだけど。意外と感じのいい村じゃん」
朱音が僕の耳元で上機嫌に囁く。機材車で来られなかったショックも、この長閑な空気で少しは癒やされたらしい。
だが、僕は別のことが気になっていた。
さっきの老婆の隣にいた男もそうだが、この村を歩いていると、意外に若い人の姿が目につくのだ。
棚田の脇で作業をする青年、洗濯物を干す若い女性。限界集落に近い立地のはずなのに、高齢者ばかりではない。むしろ、働き盛りの世代がこの不便な山奥に定着しているように見える。
(……なんでだろう。就職先も娯楽もなさそうなこの村に、どうしてこれほど若者が残っているんだ?)
不自然なまでの活気。それが、美しく整えられた箱庭のような不気味さを、僕の心に植え付けていた。
「……まあ、狭いところだが、座れ」
通されたのは、使い込まれた畳が香る十畳ほどの居間だった。
稿坂は慣れた手つきで茶を淹れると、僕たちの前に湯呑みを置いた。
朱音は、以前の叔父の家の時と同じく、お礼こそ言ったものの、茶碗には指一本触れようとしない。警戒心丸出しの彼女を横目に、僕は一口、茶を含んだ。
渋みの中に、微かな甘みがある。普通の、丁寧に淹れられた茶だった。
「で、お前ら。……改めて聞くが、この村に来た目的はなんなんだ?」
稿坂がどっしりと胡坐をかき、こちらを射抜くような視線を向けた。
「あ、ああ、いや。……実はSNSで、この村にある展望台が見晴らしが良いって聞いたんです。観光名所というか、穴場スポット的な感じで……」
「? ……いや、お前さんさっき、大学のサークルの記録がどうとかって言ってなかったか?」
稿坂の眉がぴくりと動く。
しまった、そうだったか。
「……ちょっとさっくー、なんであんな中途半端な誤魔化し方したの?」
朱音が僕の脇腹を小突いてヒソヒソと小声で詰問してくる。
「……咄嗟に話したもんですから、いっぱいいっぱいだったんですよ。朱音さんこそ、何かフォローしてくださいよ」
「無理だよ、今のボロは。あーあ、もうこれ、"不審な侵入者"として埋められるパターン確定じゃん」
埋められてたまるか。
しかし、僕らのやり取りを、稿坂は黙って見つめていた。その沈黙が、さらに僕の焦りを煽る。
(……これ以上嘘を重ねても、逆効果だ)
僕は湯呑みを置き、覚悟を決めて身を乗り出した。叔父の事件で学んだのは、真実を隠すための嘘は、いつか自分を窒息させるということだ。
「……すみません。本当のことを言います」
稿坂の目が細くなる。
「実は、この村にある展望台……そこに置かれている"記帳本"について、少しだけ気になる噂を聞いたんです」
「記帳本……? ああ、"みはらし峠"の頂上にあるやつか。あれがどうした」
「……それにまつわる、都市伝説があるとかで」
「都市伝説?」
稿坂の眉間に深い皺が寄る。
「そりゃあ、どんなだ?」
「……名前と願いを書くと、それが叶う代わりに、神隠しに遭う……とか。僕も詳しいことはわからなくて。とりあえず今日は、その現物がどんなものか見たいなと思いまして」
稿坂はしばらくの間、僕の顔をじっと睨みつけていた。
時計の針が刻むカチカチという音だけが、重苦しい静寂を強調する。
やがて、彼は諦めたように首を振ると、鼻で笑った。
「……なんだか知らねえが、ネットの連中が好きそうな話だな。余計なことに首を突っ込むんじゃねえぞ。村外れの展望台に、確かに記帳本はある。だがよ、そんな妙な噂は全部デマか、暇人の作り話だ」
「……そうですか」
「おう、この村に住んで長い俺が言うんだ、間違いねえ。神隠しなんてのはな、昔の人間が山で行方不明になった奴を納得させるための言い訳だ。今の時代にそんなもんがあるわけねえだろ」
稿坂の言葉は論理的だった。だが、その声には真実を語る者の自信ではなく、不快な事実を否定しようとする者の頑なさが混じっているように聞こえた。
「稿坂さんは、ずっと昔からこの村に?」
「……まあ、そんなとこだ。ここで生まれ、ここで育った。余所者にこの村の何がわかるってんだ」
煮え切らない反応。
僕は少し考え、鞄の奥から一枚の写真を取り出した。
依頼人の台東さんから預かった、落合香奈の写真だ。
「……これを見ていただけますか?」
僕は写真を稿坂の目の前に差し出した。
「僕たちのサークルメンバー……というか、大切な友人です。彼女はこの村の展望台を訪れると言い残して、現に行方不明になりました。台東さんは――もう一人の友人は、今も彼女の帰りを待っています。デマだと言い切れるなら、なぜ彼女は帰ってこないんですか?」
その瞬間だった。
稿坂の表情が、凍りついたように動かなくなった。
写真に写った落合香奈の笑顔を、彼はまるで毒蛇でも見るような嫌悪と、そしてそれ以上に深い何かを含んだ目で見つめた。
「……帰ってくれるか」
低く、地這うような声。
さっきまでの穏やかさは霧散し、彼の周囲には明確な拒絶の壁が築かれていた。
「稿坂さん……?」
「帰れと言ったんだ! 故郷を悪く言われるのは、いい気がしねえ。……神隠しだの何だのと不吉なことを触れ回るなら、これ以上うちに置くわけにはいかん」
「そんなつもりじゃ……!」
「出ていけ!」
稿坂が荒々しく立ち上がり、襖を乱暴に開けた。
有無を言わせぬ圧力。
朱音は悲鳴こそ上げなかったものの、慌ててカメラバッグを抱えて立ち上がった。僕も、彼がこれ以上の対話を拒んでいることを悟り、重い足取りで玄関へと向かった。
「……お邪魔しました」
背後で、ピシャリと戸が閉まる音が響いた。
再び村の通りに出ると、先ほどまで長閑に見えていた村の景色が、一変して不気味に感じられた。
畑で作業をしていた村民たちが、こちらをちらちらと見ている。その目はもう、穏やかではなかった。何かを警戒し、遠ざけようとする、排他的な視線。
「……ちょっと、さっくー。完全に地雷踏んだじゃん。何なの、あのキレ方」
朱音が冷や汗を拭いながら僕に詰め寄る。
「……ええ。確信しました。稿坂さんは、あの写真の女の子を見たことがある。……あるいは、彼女がどうなったのかを知っている」
そうでなければ、あんな風に激昂する必要はない。
僕は遠くに見える山頂の方角を仰ぎ見た。
霧の向こう側、みはらし峠の頂上。
そこにあるという記帳本が、僕たちを招いているような気がした。
「行きましょう、朱音さん。日が落ちる前に、展望台へ」




